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040Learner's交歓広場Learner's交歓広場 ] 2015年05月12日
ヒトを飼う

ほり屋飯盛

『阿刀田高さんと楽しむ【短編小説と知的創造】』参加レポート[第5回]


世の中には人間を飼い慣らして自分好みに育てたいと思う人間がいるようで、例えば、『源氏物語』の光源氏と紫の上の関係が有名だ。
「ヒトを飼う」というと、このように男が女を調教するといったことが、真っ先に頭に浮かぶが、今回の短編小説の中では、日本人の少年がアメリカの黒人兵を飼う。
タイトルは『飼育』。
その怪しげな響きに1ページ目をめくるのも躊躇する。作者は大江健三郎。
彼の作品は好きだが、「ヒトを飼う」というこの小説は、阿刀田先生の講座に参加しなければ、おそらく読まなかったであろう。

 

『飼育』は大江が東京大学在学中に23歳で芥川賞を受賞した作品であるということで、今回は19年間直木賞の選考委員を務められた阿刀田高先生による「芥川賞と直木賞の違い」を教わることから始まった。
 
世間では、「芥川賞は芸術的な文学に与えられる賞で、直木賞は娯楽小説に与えられる賞である」という認識がほとんどではないだろうか。
そこを先生は「芥川賞は『作者』に与えられる賞で、直木賞は『作品』に与えられる賞」だと説明し、「毎年二回『客寄せパンダ』のような選考委員が集まって、全くの個人的な好みによって選ぶんです」と、自らの経験を振り返りながら話してくれた。
芥川賞は文芸雑誌に載った作品に与えられるケースが多い。そして、直木賞はある程度、単行本を出している作家に与えられる賞であり、受賞後の息が長いという。
芥川賞で生き残っているのは今回の大江健三郎と石原慎太郎ぐらいで、現在、第一線で活躍している作家はほぼ直木賞作家だ。
 
さて、大江健三郎について。
講座が始まる前に、共有する参加者からの質問&感想シートでは、大江健三郎の作品=難解ということで、彼の小説を買っては途中で挫折を繰り返している人がほとんどであった。
阿刀田先生のお薦めならばと、一念発起して読んだという人もいて、前評判はあまりよくない。
 
大江は山深い豊かな四国の大自然で育った。東大仏文科で渡辺一夫の指導を受けたのは、彼に大きな影響を与えたが、何よりも伊丹家(本名池内)との接触が最も大きいという。
妻の大江ゆかりは、伊丹十三の妹で三人は松山の幼馴染だ。そんな山の中で、映画監督の家と交流を持ったことが、文化を学ぶきっかけになり、鋭利な心と頭を持つことが出来たのではないかと、阿刀田先生は考えている。
 
そして、大江の作品の特徴として、彼の卒論のテーマでもあるサルトルの「実存主義」の影響をあげた。
「実存主義」とは、すべてのものは定義があって存在する。しかし、人間については定義のないままこの世に放り出され、自らを定義して生きていかなければならないのだ。『飼育』が「実存主義」の影響を受けていることは、疑いないという。
 
小説はこうだ。
ある夏の日、主人公《僕》が住む隔離された村に、アメリカ軍の飛行機が墜落する。村の人々は、そこに乗っていた一人の黒人兵を捕え、地下倉に鎖でつなぎ捕虜とするのだ。
僕は、「黒人兵を飼う」ということに興奮する。
しかし、そこには捕えられた異国人を蔑むような意識は無い。
まるで初めて犬を飼うように、僕は食事を与えたり、用もなく覗いたりすることを楽しんでいるのだ。
 
私は高校生まで田舎に住んでいた。隣の家には井戸があり、近所の家では乳牛を飼っているというド田舎で育ったので、大江の書く自然に懐かしさを感じた。この本を読んでいると、木が風に揺さぶられる音が聞こえ、目の前に手入れのされていない大自然が広がるのだ。
 
私が住んでいた土地の人たちは、同級生や近所の人との結婚&出産を繰り返し、ガラパゴス化していた。おそらく、同時代の都会の人間の体型と比較すると、伊藤みどりと浅田真央ぐらいの約20年の開きがあった。
その当時に初めて見た手足の長い外国人は衝撃的で、同じ人間だとは思えなかった。飼いたいとは思わなかったが、まさに『飼育』の僕のように、目の前に突然飛び込んできた異文化だった。
 
黒人兵が食事をするということは、下からも排泄しなければならない。人間だって動物だ。生きている限り臭いを発している。大江はこの場面を容赦なく突き付ける。まるで、読者に嗅げと言っているように。
 
参加者からは、「現代の衛生観念に合わず、途中で挫折しそうになった」との感想も出たが、先生曰く『飼育』は臭い立つような描写を書いているのが特徴だという。
 
現代はどこも清潔で、無臭の世界を私たちは生きている。
参加者でもあり、スタッフの城取さんは、私より15歳は上だと思うのだが、「子どもの頃は学校にバキュームカーが来てね」と言っていて、聞けば出身は長野だという。
私の田舎の場合は、ハイソな横文字は使わず「汲み取り屋」と呼んでいた。長野の田舎に敗北感を感じた。しかし、上には上がいて、「私が子どもの頃は下肥を使っていましたよ」と、現在80歳で新潟育ちの先生は言った。
 
臭さは嫌悪の対象ではあるが、無臭の時代となった今、この作品は嗅覚にノスタルジーを与えているのかもしれないと感じた。
同じく田舎で育ったというスタッフの湯川さんも、『飼育』を読んで、「子どもの頃の夢を見た」という感想を言っていたので、田舎育ちの人々が懐かしさを感じる作品だというのは間違いないだろう。
 
ある日、町からの通知を伝えに来る左足の無い《書記》が血を流しながら村へやって来た。来る途中に転んで義肢が壊れ、村の人に助けられたという。
僕は、書記が黒人兵を連れてくるために来たのなら、「いっそ誰にも助けられずに餓死すれば良かったのに」と思うのだ。
黒人兵は書記の義肢を修理したのをきっかけに、僕と黒人兵は接近しはじめる。鎖もはずしてやり、黒人兵と僕は、友人の兎吉と弟と遊び始める。大人たちもそれを咎めない。
 
ある日、黒人兵は県に引き渡されることになり、危険を察した彼は僕を人質にとって地下倉に立てこもる。
最後には黒人兵は大人たちに鉈で打ち殺され、一緒に僕の左手も打たれたが解放される。
 
私はこの裏切りを書いた大江健三郎を素晴らしいと思った。
物語でも、実生活でも人間は人間に期待しすぎている。
愛情を持って尽くせば、相手も自分に愛情を持ってくれると期待したり、悪人が実は良い人なのではないかと期待したりと、人間が人間に求めることが多すぎるのだ。
私はこのように期待する人間が嫌いだ。他人が自分の期待通りにしなかった場合、なぜか彼らは怒りをぶちまけてくる。独りよがりで迷惑なのだ。
人間や物語に期待する読者は、黒人兵と僕との友情を期待するが、見事に裏切られる。何かスカッとした気分になる。人間なんて所詮は動物で、自然の一部なのだと教えてくれるのだ。
 
これを先生は「少年期は終わり、生々しい俗世間が露呈され、つきつけられた」と表現した。大人になるということは裏切られるということでもある。
小説の中の僕も、この事件の後に「僕はもう子供ではない」と考え始めたところで物語は終わる。
 
大江健三郎は芥川賞の他に、94年に日本人二人目のノーベル文学賞も受賞している。阿刀田先生は、日本ペンクラブの会長も務めていたこともあり、ノーベル文学賞にも詳しい。各国のペンクラブの会長は一票を投じる権利があるのだ。
 
最近は毎年のように村上春樹が騒がれているが、「このことは日本文学にとっては決して喜ばしい出来事ではない」と先生は言った。村上が獲らない限り、糞づまり状態なのだ。彼を飛び越えて誰か他の日本人が獲るわけにはいかないという。
補足だが、ノーベル文学賞は選考委員会が候補作を決めているのではない。なので、毎年村上が騒がれているのは、欧米の予想屋が掛けの対象として、単に予想しているだけである。
 
ノーベル文学賞受賞者。この結果が多くの読者を悩ませる。「大江の文章を理解出来ない自分は馬鹿なのではないか」と、以前から感じていた参加者もいた。
関係代名詞的な文章(悪文ともいう)や、その難解さで大江の文章は理解しにくい。今回の『飼育』でも「彼らは集落の長の家の集落共有の種牛が道を来ると......」と、名詞を乱発した文章を書くのだ。非常に英語的である。良く言えば、英語に訳しやすい文章。
だから、ノーベル賞を獲れたとも考えられると阿刀田先生は言う。
 
しかし、この『飼育』は読みやすかった。大江もこんな文章が書けるのだ。読んでよかったという感想が多かった。
難解ながらも、ユニークな比喩を使っていて、なかなか楽しいのだ。例えば、黒人兵の厚い唇を「受胎した川魚の腹のように丸い」と表現している。目の前に唇が子持ちシシャモの人間が現れそうな比喩だ。
 
阿刀田先生の一番のファンであるFさんは、以前から「大江健三郎が大嫌い」と言っていたが、『飼育』を読んで書いてあることを理解できたことに感動したという感想を寄せていた。
Fさんによると、ノーベル文学賞受賞後に雑誌『ダカーポ』が「大江健三郎はすごいのか」という特集号を出したそうだ。その中で大江の担当編集者だったという人が、「(大江は)初校はいたって普通の文章なのに、第二稿、第三稿となるにつれて、訳のわからない文章になる」と言っていたらしく、大江はわざと文章をわかりにくくしているのではないかと思ったそうだ。
 
講座に参加している人は知的好奇心の多い方がほとんどなので、学べるのは先生からだけではない。感想を述べ合っているうちに、好奇心が違う方向へと派生し、新たな学びが生まれるのもagoraの良いところだ。
 
他にも、この話を「フィクションだとは思えない」という感想もあった。そこは大江の特徴とも言える部分で、現実と虚構が入りまじった世界に読者はいつのまにか引き込まれる。
 
私が大江を読むことになったきっかけは、伊丹十三監督の映画が好きだったからだ。一番初めに読んだのも『取り替え子』で、これも名作で伊丹の死をテーマに描かれている。私は、大江の作品がまるで私小説のような読ませ方を読者に強いるのは、伊丹十三や、宮本信子、大江ゆかり、光など華麗なる一族にいるのが大きいと思っていた。
しかし、今回『飼育』を読んでみて、考えが変わった。どんなテーマでも、まるでノンフィクションを読まされているような錯覚を読者に与えるのだ。こういう作家は現在日本には大江以外はいないと言い切れる。
 
大江は難しいと思っていたが、こんな読みやすい作品もあるのだと多くの参加者にとって、良い短編小説との出会いだったようだ。
 
今回の「ヒトを飼う」に引き続き、次回は「ヒトを喰う」がテーマの武田泰淳著『ひかりごけ』だ。重いテーマではあるが、初めて読む作家なので楽しみにしている。
 

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