●はじめに
初めて見た外国映画は何だったのか、思い出そうとしても、どうにも思い出せそうにない。ただし、字幕は戸田奈津子さんだったように思う。多分そうだ。
あれは高校生の頃だっただろうか、それまでに何本かの外国映画を見ていた私は、その日も映画館に行き、画面に出る名前を見てふと気が付いた。「あれ、今日も『戸田奈津子』だな」と。
以来、見る映画見る映画、いずれもが戸田奈津子さんによる字幕翻訳で、一体どんな人なのだろうとぼんやりとした興味を覚えた。あの手書きのようなフォントは不思議と画面に溶け込んでいて、外国映画に後から日本語が付け加えられたとわかってはいても、違和感がなかった。
今思えば、あの違和感のなさはフォントよりも字幕の的確さがそうさせていたのだろう。こう気が付いたのは、ずっと後になってからのことだ。
今回、 あの戸田奈津子さんのお話を直接伺えることに、私は静かに興奮していた。

●日本人全員が映画ファンに
戸田さんは、焼け野原となった東京の風景を今も覚えているという。つまりは戦前の生まれだ。
戦後は皆が飢えに苦しんだ。食料だけのことではない。文化的な楽しみも娯楽もなかった当時は、誰もが精神的にも渇いていた。
そこに、マッカーサーの指示で映画が入ってきたというのだから、誰もが飛びついたことは想像に難くない。
「日本人全員が映画ファンだったと思いますよ」とは、戸田さんの言葉。決して大げさな表現ではないだろう。
かくいう戸田さんも小学生の頃に初めて映画に出会い、「一瞬にしてファンになった」そうだ。根っからの映画少女となった戸田さんの熱は、以来一度たりとも冷めることなく70代後半となる現在まで続くことになる。

●「字幕」は少数派!?
さて、「外国映画=字幕」と思うのは、実は日本特有のことらしい。多くの国々、とりわけ先進国では、外国映画といえば「吹き替え」が一般的だそうだ。
なぜ日本だけが字幕文化を取り入れ、定着しているのか。

戸田さんの分析によると理由は二つ。
一つは、日本人の「本物志向」。声も重要な演技の要素であり、本物を聞きたいという日本人の要求が、字幕文化を定着させたという。
そしてもう一つの理由が、日本人の識字率の高さである。「日本ではホームレスも新聞を読んでいる」と海外から来たスターが驚いたというが、この識字率の高さが字幕を受け入れる土壌として当初からあったのだろう。
なお現在も途上国で字幕の映画が見られるが、これはコストの問題とのこと。吹き替えは複数の声優を使う必要があり、字幕のほうが安上がりなのだ。

「日本は、お金があるのに字幕を望むユニークな国なのですよ」と会場を見渡した戸田さんは、少し残念そうにこう付け加えた。
「最近では字幕版と吹き替え版の両方の上映があり、若い人たちは吹き替え版のほうに多く行くようです。せっかくのユニークな文化が消えていくのは淋しいですね」。
確かに、私も残念に思う。

●映画字幕のクリエイティビティ
この日の講演では、映画字幕翻訳の技術的な面にも触れられた。
「セリフ1秒につき字幕の文字数は3~4文字が基準」。
そう言われてもなかなかピンとこない来場者に向かい、戸田さんはいくつかのセリフの翻訳を出題した。
私自身も挑戦してみたが、これはとても難しい。求められるのは、英語よりも日本語の能力だ。

例えば、映画「007」の中で、捜査に行き詰った状態のジェームズ・ボンドに上司から電話がかかってくる場面。ボンドの足元には死体が転がっているというシチュエーションで、「捜査はどうなっているの?」との上司からの質問に、ボンドは答える。
"It's dead-end."
(直訳すると"(捜査は)行き詰っている"という意味)

セリフはわずか1秒。つまり、字幕は3~4文字に納めなければならない。
さらに、このセリフにはシャレが効いている。足元の死体と、dead-endの"dead"とをかけているのだ。3~4文字のなかにこのユーモアも表現しなければならない。
さて、なんと表現したものか?

会場では何人かが挙手をして挑戦した。
・来場者1「三途の川の前だ」
・戸田さん「意味がわからないわね」
・来場者2「袋小路だ」
・戸田さん「それでは『死体』の意味が含まれない」
いくつかのやり取りのあと、戸田さんは「私はこう訳しました」といって、ご自身の訳を教えてくださった。

「脈なしだ」

私は思わず、うーーーーーん、と唸ってしまった。
これは極めてクリエイティブな行為だなと。単なる翻訳ではなく、凝縮した言葉のなかに様々な意味を込めなければならない特殊技術であり、高度に磨き抜かれた 言語能力が求められる、ある意味で芸術的な領域なのだということを今回初めて理解した。映画字幕翻訳の奥の深さは、私の想像を遙かに超えている。

●少年の夢が世界を変えた
この数年で映画の世界は大きな変化を遂げた。決定的な二つの技術革新があったからだ。
一つはCG、そしてもう一つは3Dの登場である。

CGの始まりは、ジョージ・ルーカス監督による「スターウォーズ」。この映画は、エピソード4→5→6→1→2→3という順で制作されたが、この順番には訳がある。エピソード1~3はCGを使わなければ制作できない内容だったから、後に回したのだ。
ルーカスは少年の頃からこの映画の構想を温めていたという。そして、CG開発に取り組み、人並み外れた情熱でそれを実現させた。
一方の3Dはジェームズ・キャメロン監督の映画「アバター」に始まるが、これもまた、彼の夢を叶えたものだ。「映像を立体的に見せたい」というティーンエイジャーの頃に描いた構想を持ち続け、「タイタニック」で大成功を収めたあとは3Dの開発に没頭、ついに実現させた。

「二人の少年の夢が、世の中を変えてしまった」と戸田さんは言う。そして、「世界上の『地(面)』はすべて地図に描かれているが、インテリジェンスの『知』には未開の場所がたくさんある。パイオニア精神を持ってぜひ切り拓いてほしい」と会場に呼び掛けた。

●「好き」に賭けるギャンブル

前述の二人の少年がまさにそうであったように、「好き」というモチベーションは何よりも強いと戸田さんはおっしゃった。戸田さんご自身も「映画が好き」という情熱を持ち続け、10年近い下積みを経ても夢を曲げることなく字幕翻訳の道を歩み続けてきた人だ。

この話の続きで私が思わず苦笑いしたのは、戸田さんから出たこんな発言。
「『好きなことがありません』という人に会うと、私は苛立ちを覚えます。そういう人は、自分を見失っている人だと思います」
好きなことがない、わからない、というのは最近よく目にする言葉だ。この延長に「自分探し」がある気がする。私もどうもこの「自分探し」とか「ここではないどこか」的な話が苦手で、そんなものは道には落ちてないよと心の中で毒づいたりする。何かがうまくいかない理由を「本当の自分ではないから」「ここは本来の居場所ではないかも」などと言う人を見ると、どこにいってもダメだよ、と言いたくなる。
・・・などと偉そうに言ってはみたものの、では自分が何が好きかと聞かれると、答えに少し躊躇するのも事実。迷いもなく「映画が好き」と言われ、その道一筋に歩まれてきた戸田さんが正直羨ましく、眩しい。

戸田さんのお話でハッとしたことがある。
「映画翻訳の道を選ぶことに迷いはなかったが、うまくいくという確信はなかった。それはギャンブルだから50/50。うまくいかなくても構わないという覚悟はあった。それでも飢え死にすることはないと思った」

足りないのはここかもしれないな、という予感めいたものが頭に浮かんだ。
私を含む多くの人はきっと、「好きなことをする」ことと「成功する」こととの間で揺れ動く。好きなことをしたい。成功もしたい。これは紛れもない本心だ。
好きなことをしてもうまくいかないとき、「本当は好きではないのかも」と言い訳をして別の道を選ぼうとする。そして自分探しに迷い込む。あるいは、特に好きではないけれど成功しそうな近道が見えると、「あっちが本当の自分かもしれない」といって飛び移る。
客観的に見ればなんとも軽薄な方法を、私たちはつい選んだりする。足りないのは、失敗した人生を引き受ける覚悟かもしれない。

好きというモチベーションは強い。しかしうまくいくという保証はない。ジョージ・ルーカスも、ジェームズ・キャメロンも、成功が保証されていたわけではない。好きだから勇気をもって突き進んだ。戸田さんも、好きだからこそ字幕翻訳としての道を切り開いた。
彼らは幸運にも結果がついてきたのだが、ここから「好きなことを選べば成功する」という方程式を描くのは誤りだ。正しく言い直すと、本当に好きなことを選べば長い間夢中になれるだろう。それでうまくいくかどうかはギャンブルだ。賭けるかどうか、決めるのは自分次第。

「保育園児に聞いてごらんなさい。好きなことがないなんていう子どもは一人もいませんよ」と戸田さんはおっしゃった。どうしても好きなことがわからない人は、幼少期の姿を思い出すのもひとつのヒントかもしれない。好きなことが見つかれば、突き進むか、進まないか。
それはアナタ次第だ。

むすび
先日あるテレビ番組を観ていたら、ある有名人の愛妻家ぶりが話題になっていた。夫婦がお互いを信頼している様子が紹介され、それを聞いたコメンテーターが「最良のパートナーに出会えてよかったですね。人生で最も素晴らしいことじゃないですか」といった趣旨の発言していた。
私はこの発言に違和感を持った。その人の言い方は、「最良のパートナーに、幸運にも、偶然に、めぐりあった」とでも言いたいような感じだった。
恐らく、事実は違う。
その夫婦の話は本当に素敵だったが、二人は多分、この人と添い遂げようと「決めた」のだ。そして、何があっても支え合おうと覚悟したのだろうと思う。そして時間をかけて信頼できる関係を育んできたのだろう。
運命の人に出会って雷に打たれた、なんていうエピソードは素敵だけれど、それを期待してはいけない。

仕事も同じだ。
好きで選んだ仕事につまづくこともあるし、裏切られることもある。失敗することも、絶望することだってあるかもしれない。それでも続けるかどうか。失敗を引き受けるかどうか。覚悟を決めるかどうか。

その先に成功が待っているかどうかは誰にもわからない。
確率は50/50。
仕事とは、人生とは、なんとスリリングで、素敵なギャンブルなのだろう!