引き裂かれたワタシの逃げ場所/松田慶子

会議の休憩時間中、共に出席した同僚がこんな一言をつぶやいたら、あなたはどう思うだろう?

「私、『日本狼アレルギー』かもしれないんです」

私なら、「!」が頭の中で小刻みに点滅を始めるだろう。
・・・危ない。結構ヤバい。
もし彼女が真顔で言っていたとしたら、「疲れているみたいだから、仕事を少し休んだら?」とアドバイスするかもしれない。

あるいは、こんなケースはどうか。
満員電車の中、すぐ後ろにいる男性が小さな声で囁いた。

「鈴虫の匂いがする」

背筋が寒くなる。軽く戦慄が走る。ちょっとしたホラーだ。
私なら次の駅で降りるだろう。多少無理をしてでも、満員電車の人込みをかき分けて離れた場所に移動するかもしれない。自分の背中に、かすかな熱を帯びてくる感じがする。

「私たちは、みんなが同一の、あるいは単一の世界の中に生きていると思っていたが、本当は、それぞれに異なる『世界像』のなかで生きている」

講師の穂村弘さんは、講演で繰り返しこう話された。
そして、それぞれの人が生きている「世界像」のありようは、その人の「言葉」から理解、あるいは推測ができるのだと。

この日、数多の具体例を挙げて説明してくださった穂村さんのお話の中から、いくつかをピックアップして紹介してみよう。

ケース1
「日本人じゃないわ。だって、キッスしてたのよ」


すれ違いざまに聞こえてきたオバサマの言葉を聞き、穂村さんは考える。
「それは多分日本人だろうな。だけど、それを説明してこの人を納得させるのは難しいだろう」

まず重要なポイントは、キとスの間に入る小さな「ッ」。
キスではなく「キッス」。この一言だけでも、彼女が生きている世界像が推測できる。
古き良き時代を生きてきた人。最近のドラマや小説をあまり読んでいないのかもしれない。最近のもので「キッス」と表現されるものは稀だろうから。
そして、日本人は人前ではキスなどしないという貞操観念。節度。少し前の時代像が、いまなお現在の彼女の世界像であることがわかる。

ケース2
「ああ、あたしはおじいちゃんに生まれなくてよかった」


小さい女の子が発した言葉。
この子の世界像の中では、小さな女の子ははじめから小さな女の子として生まれ、おじいちゃんは生まれたときからおじいちゃんなのだ。
大人になってしまうと二度とこういう世界像には戻れない。なんとも愛おしい、子どもならではの世界像がこの一言に現れている。

ケース3
「外国人風デザインカット......6300円」


ある床屋の看板である。かなり可笑しい。突っ込みどころ満載。
外国人ってどこの国のことだろう?とか。外国人がお客さんだったらどうなるんだろうとか。日本人風デザインカットもあるのか、とか。

でも、言いたいことはわからなくもない。この床屋さんが生きている世界像が、この看板から理解できるのだ。
昭和、それも前半の昭和を今も生きているのだろう。その頃の典型的な日本人の髪型というのがあり、そうではない外国人風の髪型というのが存在していたのだろう。その時代の空気を、今もって自分自身の世界像としているに違いない。

人が何気なく発する一言に、その人の世界像が凝縮される。
私たちは、相手の言葉から相手が生きている世界像をたちまちのうちに想像する。意識的にも、無意識にも。
言葉とは、それぞれの人間が生きる世界像を現すもの。これが言葉の正体である。

◇ ◇ ◇

さて、私たちの世界像は、残念ながら自由に形成されるわけではない。
様々な経験や現実が世界像を矯正、あるいは強制していく。ケース2で出てきた子どもの世界像は、大人になってからは二度とは創造できないだろう。
さらに、どうしようもなく私たちを強力に束縛するのが「物質」と「お金」。つまりは経済のバイアスである。

ケース4
娘の友達の名前「ユミちゃん」は覚えられないのに、
ユミちゃんのお父さんの職業「○○株式会社の財務部の課長代理の娘」は明確に覚えられる。


この事例は非常によくわかる。
「ユミ」というたった二文字は、経済的には意味をなさない単なる音。ゆえに覚えられない。
「○○株式会社の財務部の課長代理」という(二文字よりもずっと)長い言葉は、経済を生きる私たちにとってある具体的な意味を持つ。年収はこれぐらいだろうとか、将来は相当上にいくだろうとか、あるいは自分の社会的ポジションよりも低いだとか、自分の世界像に関係する要素なのだ。

「物質」と「お金」に関係のある要素は自分の世界像の内側に入り、関係のない要素は世界像の外側に追いやられる。悲しい性とも言えようが、自分に照らしてみても、なんとも腑に落ちる話である。

ただし、私たちは、純粋に経済の世界像の中でだけ生きている訳でもないようだ。

ケース5
「でも、さっきそうおっしゃったじゃねえか!」


これはもう、説明するまでもなく、痛い程に心情がわかってしまう言葉だ。
自分より強い立場の人間に対して相当に腹を立てている。
さっきと話が違うじゃないか。でも、ここはこらえなければ。ここでブチ切れてしまっては、経済的な損害を生じかねない。上司にも怒られるに違いない。会社にだって迷惑をかけるだろう。それは、弱い立場の自分には、許されることではないのだ。

「・・・おっしゃった」まではギリギリこらえた。こらえたのだが、もはや我慢も限界。
「・・・おっしゃったじゃねえか!
心の叫びが発露された瞬間だ。
あ~あ、やっちゃった。ゲームアウト。始末書ものかな。上司からはしこたま怒られるでしょうね。可哀そうに...。社会人失格。我慢が足らないでしょ。バカじゃないの?

・・・でも、愛すべき言葉だとクスリと笑ってしまうのも事実。なんとも愛おしい。わかるわかる。よくがんばった。そういうこともあるよ。ま、飲みに行こ。
こう言ってあげたくなるのも紛れもない真実だ。

私の中に、物質や経済に縛られないもう一人のワタシがいるのだ。恐らく、誰の中にも引き裂かれた自分がいる。
経済的な社会の中で、あるいはそうした中で自ら形成した世界像の中にあって、もう一人のワタシの影は、いつも限りなく薄い。亀のように首を引っ込め、石ころのように気配を消す。
でも、確かにいる。そのことを私たちは知っている。

経済活動の中でしっかりと歩く私と、経済には全く貢献しない、しょうもないことばかり考えちゃうワタシ。
多重人格として二人の「わたし」が存在するわけではなく、二人は混ざり合っている。配合の割合は人によって異なるだろうが、日常の中では、しっかりとした「私」がいつも前面に出て生きている。
では、もう一人のワタシは一体、どこに行けばいいのだろう?家庭の中?友人との会話?旅の空の下?
ほかに、ワタシが生きる場所はあるのだろうか。

◇ ◇ ◇

冒頭の話に戻ろう。
自分は「日本狼アレルギーかもしれない」と考えた女性は、こんな短歌で表現した。

ケース6
「私は日本狼アレルギーかもしれないがもう分からない」


会議の休憩中に呟かれたら瞬時にヤバいと判断してしまいそうなことも、短歌の三十一文字におさまると、なんだかいい感じだ。微笑ましくさえもある。
この短歌を詠むときの心情は、経済の「私」ではなく、しょうもない「ワタシ」のほうだ。こちらのワタシは、ヤバいどころか、かなりユニーク。鋭いとさえ思う。

そうか、ここは逃げ場になるんだなと、私は講演を聴きながらふと気が付いた。
逃げ場。別の言い方をすれば、私ではないワタシが生きる場所。私たちには、逃げ場所が必要なのかもしれない。

ケース7
「鈴虫の匂いがする」


これは満員電車の男性ではなく、ある舞台劇の冒頭で役者が発したセリフなのだそうだ。一瞬にして舞台に引き込む、秀逸な、余韻がたっぷりとある一言だと思う。
創作の世界では、ワタシは生き生きと、伸び伸びと、手足を存分に広げて生きていけるのか。

私たちは、小説を読んだり、絵画を眺めたり、舞台を観たりしているときに、ギラッとした狂気に触れることがある。そして、その狂気に共感したり、時に安堵さえ覚えたりもする。
これは、もう一人のワタシが、ほらここにいるよと存在を主張する瞬間なのかもしれないというのが、今回の講演を聴いて感じたことだ。
いわばワタシの逃げ場所。ワタシが存分に生きる場所。

だから短歌を詠みましょう、小説を書いてみましょう、という安直な結論に逃げるつもりはないけれど(やってみても悪くはないのでしょうが)、
しょうもないワタシが、今まさにここにいる。
変なことを思い続けるワタシがひっそりと、しかし図太く生きている。
こう認められたことは、素晴らしく大きな収穫となった。


ついでにいうと、穂村さんはかなりヘンテコな人だった(すみません)。
歌人という肩書きから、繊細で、雅やかで、やんごとなき人物像を勝手に想像していた私は、見事にそのイメージを裏切られた。
でも、その相当の変さ加減が、私たちに大いなる逃げ場所を提供してくれているという訳だ。穂村さん自身、経済の「私」からかなりの部分で解放された「ワタシ」を生きている。
そう認識したら、尊敬と羨望とが混じる、眩しいようなものを見るような思いでステージを眺めざるを得なかった。
穂村さんに、心からの拍手を。

 

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