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半藤一利氏 『幕末史』

昨年の3月から12回に渡って開催した夕学プレミアム半藤一利史観『海舟がみた幕末・明治』の講義が本になりました。

『幕末史』新潮社

半藤さんの人柄が滲み出るような言い回しまで、そのまま紙上に再現されていて、講義を思い出しながら、一気に読ませていただきました。

今回の講義=この本の主旨は、幕末~明治の歴史を語る時に、暗黙の前提として刷り込まれている「薩長史観」に一石を投じ、「反薩長史観」で歴史を読み解こうということでした。明治維新などと言うと、聞こえは良いが、その実態は、薩長による「哲学なき暴力革命」で、新しい国を作ろうなどという高邁な理想は誰一人として有してはいなかった、と半藤さんは喝破しています。
東京生まれで、長岡に疎開し、高校までを過ごした半藤さんならではの視点ですが、けっして親幕府に偏った歴史観というわけではなく、極めてニュートラルな内容です。孝明天皇毒殺説、坂本龍馬暗殺説などにも、「自分はこう思う」という見解をきちと明言されていて、歴史学者には、けっして書けない分かり易い内容です。

日本の近代史全般について造詣が深く、大ベストセラー『昭和史』も著した半藤先生にとっては、日本を軍事国家に引きずり込む引力のような働きをした「皇国史観」や「統帥権問題」が、なぜ、どのように生まれたのかを語りたいという意志もおありだったようです。

近代日本の国づくりのための思想的な基軸に天皇を据えようという明確な意思が登場するのはもう少し先のこと、統帥権については、山県有朋によってその萌芽が生まれ始めた、というところでこの本は終わっています。

その続きをぜひ、ぜひぜひ聞きたい&読みたいと思います。

武士の世の終わり 『海舟がみた幕末・維新』第11回 その2

3月から続いてきた、半藤一利史観『海舟がみた幕末・維新』もついに最終回です。
思えば、黒船来航から西南戦争まで、幕末・明治、激動の四半世紀を一気に語り下ろしていただきました。
この講演をもとに、近々新潮社から本が出る予定ですので、皆さん乞うご期待。
また講演CD集も発売されることになっていますので、こちらもお楽しみに。

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明治四年(1871年)7月14日、廃藩置県の詔勅が下り、封建体制から天皇中心の中央集権体制への変革がなされました。新政府は、大きな課題のひとつを片付けたことになります。
その年の11月には、岩倉具視を全権大使とする使節団が米欧に向けて出帆します。
世にいう岩倉米欧使節団です。
木戸、大久保、伊藤らの要人46名に加え、中江兆民や津田梅子など留学生を含む総勢100名超の大使節団でした。
その目的は、
1.幕末以降の条約締結各国への国書の奏呈
2.不平等条約改正に向けた下準備
3.各国の近代的制度・文物の調査研究
でしたが、条約改正交渉は、早々に認識不足が露呈して失敗に終わり、結果的に、西洋諸国を視察しながら、新たな国づくりの構想を巡らすことが主目的となりました。
米国から欧州を巡回する、実に1年10ヶ月に及ぶ長期間の旅でありました。

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廃藩置県への道 『海舟がみた幕末・明治』第11回その一

鳥羽伏見の戦いに明けた慶応4年(1968年)は、九月に明治元年と改まりました。
翌2年の三月には、明治天皇の東京への動座も完了。春までには、新政府の主力メンバーのほとんどが東京に集まってきました。
とはいえ、その実態は混沌状態で、各自が自藩の利を考えて自己主張を繰り返すばかりで収拾が付かない事態となりました。
新政府の中核として重きをなすのは、下級武士層出身の志士と一部の公家だけで、政争には強くても政務には疎い者ばかり、目指すべき青写真があるはずもなく、混乱は深まりました。
本来、新たな国づくりの中心になるはずの、長州木戸、薩摩大久保の両有力者が、性格と考え方の相違から、意思疎通を欠きがちだったことも混乱の一因だったとのこと。
統制派の内務官僚タイプである大久保利通と八方気配り派の外務官僚タイプの木戸孝允では、水と油の違いがあったようです。

半藤さんが紹介された当時の狂歌の一節

「上からは、明治だなどといふけれど、治まるめい(明)と下からは読む」

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中央集権国家への胎動 『海舟がみた幕末・明治』(第10回)

1968年(慶應4年)3月14日、勝と西郷の直接会談により、翌日の江戸総攻撃の中止は決まりましたが、これですべての事が収まったわけではありません。江戸城無血開城という新たな難事がはじまりました。両雄は休む間もなく動き始めます。
まず西郷は、翌日には京都に向けて出立。5日後の20日は、二条城で岩倉、三条、大久保、木戸らと緊急会議を行います。
「徳川公大逆といえども死一等は免じるべき...」と語気強く迫る西郷のとりなしに対して、穏便主義の木戸孝允が賛同します。寡黙な西郷に代わり弁舌を振るい、岩倉、大久保等の強行派も折れ、会議はまとまりました。
西郷は、すぐに長駆、江戸に舞い戻り、準備を整えます。

一方、勝は、21日に英国外交官アーネスト・サトウと面談。西郷との会談の様子を伝え、「武力衝突回避」を第一義とする勝の主張を明かします。親薩摩のサトウの口から、西軍に情報が伝わることを想定しての動きでした。
さらに、横浜に押し寄せていた海軍先鋒隊の総督大原茂実を単独訪問します。
血気盛んな大原を押しとどめ、暴発を抑制するための行動でした。西軍側にも多くの知己を持つ勝海舟ならではの交渉といえるでしょう。
横浜では、翌日に英国公使館にパークスを電撃訪問し、夕方まで粘って会談に成功します。
この席で、勝は誠心誠意、現今の外交問題を説明し、西軍に対する自らの考えを正直に、しかし強い決意をもってを話します。
「慶喜の助命」、「幕臣の生活にメドをつける」 この2点を保障してもらえれば、一切戦うつもりはないこと。
ただし、これに同意をもらえない時には、江戸を火の海にしてでも戦う決意を持っていること。
いずれにしろ、外国の手出しは無用であること。

パークスは、勝の人間性、明晰さに感服し、それまで薩摩寄りだった姿勢を一転、万が一西軍が慶喜の命を狙う場合があれば、ロンドンに亡命させるという密事まで約しました。

最低限の要求事項は明確にし、あらゆる手段を講じて相手にそれを伝えつつ、不測の事態に備えた万全の対策を打つ。勝の名声が後世に残る理由となる大仕事でした。

勝に惚れ込んだパークスは、すぐに西郷宛の手紙を駿府に送り、江戸から戻る途中の彼を呼んで、徳川に対して苛酷な処罰を取らないように要請します。
パークスの意外な態度に、勝の動きを察知した西郷は、その政治力に舌を巻いたそうです。

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勝・西郷 運命の会談 『海舟がみた幕末・明治』第九回

1868年(慶応4年)1月6日深夜、戦意を喪失した慶喜は「江戸で再起を計る」と大阪城を脱出します。

追って7日には、新政府により徳川慶喜追討令が出されました。
ちょうどこの頃は、夏目漱石・幸田露伴・秋山真之など、明治を担う人材が次々と生まれた時期であり、そして、大阪を脱出する人々の中には太平洋戦争終戦時の首相、鈴木貫太郎の幼い姿があったそうです。

11日、慶喜が品川へ到着するところを、勝海舟が迎えます。
半藤先生によれば、勝はちょうどこの時、生活の糧を得るために乗馬を売ろうとしていたところで、使いの到着に、あわてて売るのをやめてその馬へ乗って品川に向かったとか。
不遇の時代を過ごしていた勝に、ようやく舞台が調います。

勝は慶喜に対し、強い口調で責め寄りました。
「なぜ大阪城に立てこもって戦わなかったのか」かなりガミガミと言う勝に心を打たれたか、慶喜は「この上は、頼るのはその方ただひとりである」とまで言いました。
勝の腹はこのとき決まったというのが、半藤先生の解釈。
そしてこの時代、「日本国」を見据えて事にあたったのは、勝海舟ただひとりであったということも。
徳川も薩摩も長州もない、ただ「日本国」のためにのみ力を尽くすという決意は、幕末のこの時期、他に見られることのない、勝なればこその先進的な考えだったのです。

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ひるがえる「錦の御旗」 『海舟が見た幕末・明治』(第八回)

1867年(慶応3年)10月、薩長が武力倒幕への道を強引に進めようとするのに対して、武力対決なしに、新国家を建設しようとする穏健派の動きも活発化します。その先頭に立ったのは土佐でした。
10月3日、土佐藩主山内容堂は、後藤象二郎を使いとして、慶喜に対して「大政奉還」を建議します。
「新政府綱領八策」と称されたその建議の内容は、6月に坂本龍馬が後藤に示した「船中八策」に基づいており、更に遡れば、かつて大久保一翁と勝麟太郎が、龍馬に語った構想にその原型がある、と半藤さんは言います。
・朝廷を中央政府として議会を作る
・幕藩体制を解体し、中央集権的な立憲国家をつくる
・その第一ステップとして、大政奉還を行い、徳川も一藩として、新体制に参画する
それが、「新政府綱領八策」の主張です。

後藤象二郎から事前にその内容を聞いていた薩摩(西郷、大久保)は、この案に断固反対の立場を取ります。すでに武力倒幕へとかじを切っていた薩摩にとって、徳川存続を前提とした穏便策は、許容できるものではなくなっていました。

10月6日、大久保一蔵と品川弥二郎の二人が、隠遁中の岩倉具視を秘かに訪ねます。
そこで幕府討伐にかかわる謀議が行われました。討伐の段取りと新体制、組織案と同時に、後に切り札となる「錦の御旗」の作製指示も伝えられました。

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討幕への気運高まる 『海舟が見た幕末・明治』(第7回)

1866年(慶応2年)6月7日、幕府の発意から一年間ももたついて、ようやく長州再攻撃の命が下りました。西国の各藩で構成されたものの戦意に乏しい幕府軍でした。
開戦と同時に、長州の近代兵器と巧みな戦術の前に敗走が続きます。
このとき、龍馬も長州軍に加わって、戦いに臨んだとのこと。また肺病が悪化していた高杉晋作は、血を吐きながらの陣頭指揮だったそうです。

折も折7月20日、大坂城で征長政策の指揮を取っていた将軍家茂が、22歳の若さで急死します。将軍の座を争った一橋慶喜による毒殺ではないかという噂が立つほどの急なことでした。糖尿病の悪化からくる脚気衝心によるもので、噂は、ひとえに慶喜の人望欠如から起きたものだろうというのが、半藤さんの解説でした。
家茂の遺言は「田安家の亀之介を後継に」というものでしたが、まだわずかに3歳、あとを継ぐべきものは慶喜しかいません。
しかし慶喜は、これを拒絶。
「徳川宗家は継ぐが、将軍は継がない」という奇策を弄します。
一方で、長州征伐には積極的で、自ら出陣すると勇み立ちます。
ところが、先述のような敗走の連続に、お得意の「二心(ふたごころ)」が顔を出し、急に戦意を失います。
8月16日には、5月に復職したばかりの勝隣太郎を呼びよせ、休戦協定締結の密使を命じます。後始末を任せられるのは、長州に知り合いが多く、胆力と交渉力のある勝しかいなかったのでしょう。
とはいえ、既に慶喜の口から休戦の意思を表明されてからの交渉ですから、勝もたいへんでした。高圧的な長州の要求に対して、頭を下げ続けながら、なんとか決着をつけ、帰坂して慶喜に報告しますが、慶喜の理解はまったくなし。逆に長州びいきをなじる始末でした。
自分の策に酔い、支えてくれる人々の気持ちを理解することができないお坊ちゃん気質の表れでしょうか。勝は大喧嘩のすえ、また免職になります。やれやれ。
8月20日、家茂の死を理由に、朝廷は休戦の沙汰書を布達せざるをえませんでした。

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「薩長同盟」成る。 『海舟がみた幕末・明治』(第6回)

1864年(文久4年)夏 第一次長征討伐により、長州の正義派(攘夷派)は、逃散を余儀なくされます。井上聞多は刺客に切られ重傷、高杉晋作は九州へ遁走、桂小五郎、伊藤博文も逃げます。
幕府追従の俗論派が主導権を握り、奇兵隊や力士隊など私兵隊には解散命令が下されました。
長州もここまでかと思われた12月15日夜半、高杉晋作が敢然と立ち、「たったひとりの反乱」を起こします。これに力士隊16人を率いていた伊藤博文が呼応し、遊撃隊も加わって、総勢は60余名。その日のうちに下関代官所を急襲して、独立政府を樹立してしまいました。

事実上の長州革命とも呼べるこの動乱を通して、長州の藩論は、これまでの攘夷第一から、倒幕・開国へと大きく転換し、再び幕府への抵抗姿勢を鮮明にしていきます。
これに対して、幕府は第二次長征軍の編成を決め、再度諸藩に出兵を促そうとしますが、幕府への牽制を意図する薩摩が猛烈に反対、時勢は混沌となります。

この頃、長州と薩摩による勢力争いを、苦々しく眺める立場にあった二人から、時勢を一気に動かす新たな構想が発案されました。
それが「薩長同盟」のはじまりになります。
発案者は、土佐脱藩の中岡慎太郎と、やはり土佐出身で、三条実美の側近として長州に逼塞していた土方久元の二人です。倒幕論者であった二人は、幕府に対抗する勢力の確立を目指していました。

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歴史というものの意志 「海舟がみた幕末・明治」(第5回)

1963年(文久3年)5月10日 長州藩は、馬関海峡を通る米商船ペンプローグ号に向けて発砲、その後も海峡を通る外国船に次々と砲撃を加えました。
長州に苛め抜かれて、一橋慶喜が苦し紛れに発した攘夷実行命令を、長州ただ一藩が実行したという皮肉な結果に形になりました。
この攻撃で長州の意気は上がります。京都でも、過激なテロや攘夷決行を促す詔勅偽造が頻発します。挙句の果てには、天皇を宮中から奪取し、攘夷戦の先頭に打ちたてようという真木和泉の策謀も発覚し、その過激さに孝明天皇は不快感を募らせていきます。
京での微妙な風の変化を受けて、薩摩の盛り返しも始まり、反長州の流れが勢いを持つようになりました。

7月2日、3日には、生麦事件の報復を理由とした薩英戦争が勃発。薩摩は奮闘したものの、7隻の英国艦隊により、薩摩市内を砲撃され、市内全域が消失する痛手を蒙ります。この戦いで薩摩は攘夷論を完全に放棄し、自らが中心となって公武合体を進めながら開国を目指す方向で一気に進み始めます。

反長州の動きは、「八月十八日の政変」として結実しました。
これは長州が握っていた朝廷の権力を奪い、京から放逐しようという長州追い出しクーデターでした。三条実美らの親長州公卿らも都を落ち延びていきました。

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追い詰められる幕府 「海舟がみた幕末・明治」第四回

文久2年(1862年)7月、薩摩の働きかけによって、幕府の政権は、一橋慶喜(将軍後見職)と松平春獄(政治総裁職)の二人に委ねられました。
慶喜、春獄コンビは、すぐに大胆な政治改革に着手します。

朝廷と大名に対しては、強調路線を狙う融和策。幕府内に対しては、積極的な人材登用が、その柱でした。
朝廷に対しては、それまで幕府が任命していた京都御所の九つの御門の警備に、朝廷の意向を聞くことや、皇室御陵の改修に費用を出すことを承諾します。
諸藩に向けては、隔年だった参勤交代を三年に一度に改め、江戸に留め置いた大名妻子の帰国を認めるなど、家光依頼の締め付け策を緩めていきます。
幕府内では、開国論者であった、大久保忠寛、勝麟太郎を大抜擢します。

矢継ぎ早で改革策を打ち出した二人でしたが、大きな勇み足もありました。
国事犯の全面的赦免を決定し、桜田門外の変、坂下門外の変などの襲撃犯までをも名誉回復をしてしまったことでした。
半藤さんは、この決定が「政治的なテロ行為も、いつかは赦免されるという認識を攘夷派に広める結果となり、天誅という名の暗殺行為を誘発する一因になった」と考えています。

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「玉」をめぐる暗闘 「海舟がみた幕末・明治」第三回

安政2年(1855年)、勝麟太郎の提案によって開校された長崎伝習所は、攘夷論の激化、財政逼迫等の理由により、安政6年(1859)年には閉鎖となりました。わずか4年の短い運命でした。
半藤さんは、わずか4年ながら、長崎伝習所が果たした功績は大きかったと言います。
近代兵学を修めたこの伝習所が、のちの日本海軍の黎明となったことはよく知られたところですが、それ以上に、各藩から集まった青年達にいくつかの意識変革を促した点で大きな意義があったと半藤さんは考えています。

1.藩を超えた日本という国家を意識させ、「世界の中の日本」という視点を自覚させたこと
2.西洋兵学の修養を通して、西洋の合理的思考に対する認識を深めたこと
3.人材登用への機運を盛り上げ、封建的身分制度の限界を認識させたこと。

軍艦操縦や大砲射撃という科学技術の粋を学んだことで、国家観、近代合理主義、民主的思想といった近代国家の礎となる知識と態度を96人の若者たちに植え付けたことが、後の世に対する大きな貢献となったわけです。教頭として彼らをまとめた勝海舟の果たした役割もまた、大きいものでした。

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わかりにくい安政時代 『海舟がみた幕末・明治』(第二回)

夕学プレミアム『海舟がみた幕末・明治』は21日(金)に第2回が行われました。
きょうのテーマは、「安政の大獄」です。
NHK放送文化賞の授賞式から駆けつけた半藤一利さん。
「きょうは、幕末で一番面白くない時代の話をします」と前置きしながら、いつものべらんめい調で講義が始まりました。

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幕府は予期していたはずにも関わらず、なんら対策を打っていなかったペリーの来航。
2度目の来航があった安政元年(1854年)の三月に日米和親条約が結ばれ、日本は新しい時代に船出することを余儀なくされました。
先延ばし戦術を取りながらも、なんとか混乱をさばいてみせた老中 阿部正弘は心労がたたって退任。幕府・諸藩・公家の混乱はピークに達します。

安政の年号は1859年まで約6年間続きますが、この時代は、「幕末で最も面白くない時代」(半藤先生談)とのこと。
言い換えれば、最もわかりにくい時代ということでもあります。
幕末・明治史は、「攘夷」か「開国」か、「討幕」か「佐幕」か、「富国強兵」か「征韓」かというように、明解に対立軸が語られる二元論に魅力があります。
それに対して、この6年間は、対立軸が複雑に錯綜しているところが「わかりにくさ」の理由です。

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天理にそむく罪 『海舟が見た幕末・明治』第一回

「夕学五十講」から生まれた新企画 夕学プレミアム 半藤一利 史観『海舟が見た幕末・明治』(全10回)がはじまりました。
「夕学五十講」と同様にブログでその概要をご紹介していきます。
きょうは、その第一回「ペリー来航 ~“終わりの始まり”告げる号砲」からです。


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東京湾を地図で見るとお酒の徳利をひっくり返した形をしています。湾岸の埋め立てがはじまる前は、今よりも徳利のお腹の部分がはっきりとした形状でした。
口元のくびれた部分、東京湾の一番狭いところを、東京湾フェリーが就航しています。三浦半島の久里浜港と房総の金谷港を35分間で繋ぐ高速フェリーです。
久里浜側のフェリー乗り場のすぐ横、小さな白い砂浜に面して、ペリー公園があります。

嘉永6年(1953年)の6月9日(太陽暦で7月18日)、この地にペリー提督率いる米国海軍の小隊が上陸したことを記念して作られた小さな公園です。
公園の真ん中には、伊藤博文の筆になる「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」と刻まれた大きな石碑が建立されています。
東京湾に直面し、周囲を睥睨するような威圧的な姿は、150余年前にペリーが見せたという尊大な交渉態度を彷彿させるものがあります。

夕学プレミアム 半藤一利 史観『海舟が見た幕末・明治』は、ペリー来航から西南戦争に至るまでの、幕末・明治の激動の時代を舞台に、作家の半藤一利さんが全10会合で語り下ろす連続歴史講義です。
第一回目は、上記の上陸日をはさんで、ペリー艦隊が浦賀沖に姿を見せた6月3日から、目的を達成して揚々と引き上げていった6月12日までの、9日間の混乱の様子が語られました。
半藤さんの名を高めた名著「日本の一番長い日」流に言えば、「徳川幕府の一番長い9日間」と言えるのかもしれません。
歴史の教科書では、「1953年、浦賀に黒船が来航する」と一行で終わる事件ですが、この9日間から日本の近代がはじまる、大きな出来事でした。

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