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    <title>慶應ＭＣＣ「夕学五十講」楽屋blog</title>
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    <updated>2008-07-17T06:02:25Z</updated>
    <subtitle>慶應丸の内シティキャンパス定例講演会「夕学五十講」担当者がお届けするblogです。</subtitle>
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    <title>「緑の東京へ一丸で」　猪瀬直樹さん</title>
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    <published>2008-07-16T05:55:12Z</published>
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    <summary>18:30東京着の新幹線を降り、駆けつけるように会場入りした猪瀬さん。 額には大...</summary>
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        18:30東京着の新幹線を降り、駆けつけるように会場入りした猪瀬さん。
額には大粒の汗、夏カゼで鼻もぐずつかせながら、「何から話しましょうか」とつぶやいて、早速マイクに向かいました。
講演は、都庁で開催中の夕張観光物産展から始まりました。市価の約半額というお買得感もあって、夕張メロンが1日に400個売れるほどの盛況イベントだそうです。切り盛りしているのは、都庁から夕張市の応援派遣されている二人の職員です。
財政破綻した夕張市の苦境は深刻だそうです。人口はピークの十分の一の12,000人、借金総額350億円、市役所職員も次々と辞め、行政も滞りがち、東京、北海道はじめ全国から10名近い応援職員を受け入れ、なんとか苦難を乗り越えようとしているとか。


        猪瀬さんは、昨年春の夕張市長選の結果に、夕張が抱える問題の本質を見たと言います。
再建を旗印に当選した民間人出身の現市長の選挙戦は、実は300票差の僅差での勝利でした。
次点は、戦国武将と同姓同名を名乗る某氏。話題の選挙ではおなじみのパフォーマーです。いつもの選挙では、泡沫候補でしかない彼がなぜそこまで肉薄できたか。
「当選すれば、俺は100億円を持ってくる」　彼が言ったという、そのひと言が理由です。

甘言にフラっと流される依頼心が市民の心に根付いてしまった。そこにバラマキ政治の恐ろしさがある。
猪瀬さんは、そう喝破します。

猪瀬さんが用意した「夕張氏の施設整備事業の状況」なる資料には、よくもこれだけ作ったものだとあきれるほどにハコモノ施設が列挙されています。
「世界の動物館」「ロボット館」「シネマバラード」「めろん城」「夕張鹿鳴館」「石炭の歴史公園」etc、夕張ゆかりのものから、何の脈略もないものまで、わずか20年の間に30近い補助金付のハコモノ施設が作られ、結果的に市の財政を破綻に追いやると同時に、市政に自律と自己責任の欠如を蔓延させてしまいました。


猪瀬さんは、地方分権改革推進委員として、改革に取り組んでいます。
昨年一年間で49回の会合が開かれ、官僚機構との戦いが続いているそうです。
例えば夕張のような場合、廃れたハコモノ施設の有効活用のための用途転換は誰もが考える選択肢でしょう。あるいは廃校になった学校を特養老人施設に転用したいとアイデアが浮かぶのも当然でしょう。
しかし、そのような場合、「国の基準と合わない」というストップが官庁から入ることがほとんどだそうです。強引に転用しようとすれば、補助金の返還や中止を迫られてしまいます。
お金がなければ、おさがりや仕立て直しを着ることは、伝統的な庶民の美徳だったはず、地方行政も同じです。ところが、一律基準で地方を縛る現在の行政システムが、ただでさえ少ない地方の選択肢までも奪っている。
「地方分権は、霞ヶ関の解体に他ならない」と猪瀬さんが主張する所以がここにあるそうです。

切っても、切ってもあらわれる「官僚印」の金太郎飴と、あえて戦い続ける猪瀬さんを、石原知事が補佐役として迎え入れたのは一年前でした。ここでも戦いの日々が続いているそうです。羽田空港国際化、参議員宿舎建設問題etc、猪瀬さんが「ちょっと待った」をかける場面は少なくありません。
官僚や議会との対立を辞さない猪瀬さんの姿に、強面でなる石原知事さえ「猪瀬は、俺より短気だ」と苦笑することも度々とのこと。

そんな猪瀬さんですが、副知事就任1年を迎え、これからの東京そして国のゆくえについて、何を考えているのか。講演の後半はそこに収束されていきました。

猪瀬さんの描くこれからのビジョンは「緑の東京」をつくることだそうです。
オリンピックを、そのためのエポックメーキングにするべきだと猪瀬さんは主張します。
インフラ整備と国威発揚を目的とした発展途上国型五輪は2008年の北京で終わります。2016年東京五輪は、地球温暖化に対する都市のあり方を問う問題提起型のオリンピックとすべきだということです。
既に、東京湾の埋立地に樹木を植林し、巨大な「海の中の森」を作ろうという「海の森」構想がスタートしています。他にも、50万本の街路並木を100万本に増やそうという計画や小中学校の校庭を全て芝生化しようという計画が立案されています。
緑の風溢れる新生都市「ＴＯＫＹＯ」を全世界に見てもらうこと、それが東京五輪になるという大構想です。
成熟国家の都市モデル、そこでの生き方を世界に提示すること、それは閉塞感に包まれた現代という時代でもがく若者に将来のビジョンを示すことにもなるはずです。

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    <title>武士の世の終わり　『海舟がみた幕末・維新』第11回 その２</title>
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    <published>2008-07-12T04:53:01Z</published>
    <updated>2008-07-17T06:03:06Z</updated>
    
    <summary>3月から続いてきた、半藤一利史観『海舟がみた幕末・維新』もついに最終回です。 思...</summary>
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        3月から続いてきた、半藤一利史観『海舟がみた幕末・維新』もついに最終回です。
思えば、黒船来航から西南戦争まで、幕末・明治、激動の四半世紀を一気に語り下ろしていただきました。
この講演をもとに、近々新潮社から本が出る予定ですので、皆さん乞うご期待。
また講演ＣＤ集も発売されることになっていますので、こちらもお楽しみに。

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明治四年（1871年）7月14日、廃藩置県の詔勅が下り、封建体制から天皇中心の中央集権体制への変革がなされました。新政府は、大きな課題のひとつを片付けたことになります。
その年の11月には、岩倉具視を全権大使とする使節団が米欧に向けて出帆します。
世にいう岩倉米欧使節団です。
木戸、大久保、伊藤らの要人46名に加え、中江兆民や津田梅子など留学生を含む総勢100名超の大使節団でした。
その目的は、
１．幕末以降の条約締結各国への国書の奏呈
２．不平等条約改正に向けた下準備
３．各国の近代的制度・文物の調査研究
でしたが、条約改正交渉は、早々に認識不足が露呈して失敗に終わり、結果的に、西洋諸国を視察しながら、新たな国づくりの構想を巡らすことが主目的となりました。
米国から欧州を巡回する、実に1年10ヶ月に及ぶ長期間の旅でありました。


        留守政府を預かったのは三条実美、西郷、板垣、山県等々。加えて勝海舟や山岡鉄太郎らの旧幕臣も呼び込まれ、総力を挙げて留守を守ることになりました。
使節団と留守政府の間には、留守中に大きな政策変更を行わない旨を約した十二箇条からなる約定が結ばれていました。ところが、西郷はこれを一切無視し、大胆な変革策を次々と実行していきます。
まずは、朝敵大名の特赦と旧東軍の大抜擢です。
徳川慶喜、松平定敬（桑名）、松平容保（会津）らが免ぜられ、函館戦争の責任者全員も赦免されます。のみならず、大鳥圭介、榎本武揚等を役人として登用する思い切った政策でした。
勝海舟は海軍大輔（海軍のトップ）の就任、大久保一翁も文部省で重用されます。
この時、陸軍大輔に就いたのが山県有朋でした。

更には、宮廷改革にも着手します。
公卿出身の侍従たちを次々と罷免し、後任には薩摩、長州等々の討幕派志士や幕臣の山岡鉄太郎等を送り込み、宮廷の雰囲気を一新させます。天皇を取り巻く女官の総免職も断行し、旧習も一掃してしまいます。
二十歳の天皇に対して、武術訓練を行うこととし、天皇自身もこれをいたく喜んだとのこと。
これら一連の改革は、西郷の名声と影響力を一段と高める結果にもなっていきました。

残された国内課題は、なんといっても徴兵制の実施でした。
徴兵制を中核とする近代兵制構想の立案者であった大村益次郎の後継者を自認する山県有朋は、陸軍を束ねる立場に就くと同時に、大村が描いた青写真の実現に向けて動き出します。徴兵制構想に対しては、全国四十万人の武士が猛烈に反対。特に西郷の足下薩摩には、桐野利秋、篠原国幹、別府晋介等、後に西南戦争を引き起こした武闘派が勢揃いしており、反対の急先鋒でもありました。
一方の山県は、汚職事件の容疑で窮地に立たされるも、持ち前のしぶとさを発揮して、西郷に取り入り、明治五年（1873年）11月には、徴兵告諭にこぎ着けます。

「後世の双刀を帯び武士と称し、抗顔座食し、甚だしきにいたっては人を殺し、官その罪を問わざる者の如きにあらず」

足軽出身で苦渋を嘗めてきた山県の恨みが込められた真っ向からの一撃であったと半藤さんは言います。
続けざまに全国六カ所の鎮台設置、国民皆兵の徴兵令の発布と手を打ち、平時3万人余、戦時4万6千人余りの動員が可能になる新体制が整いました。

これは伝統ある「士族の役割」を否定するものでもあり、大騒動が頻発しました。士族はもとより、徴兵される平民の間からも怨嗟の声が沸き起こり、世情は大混乱に陥ります。
これを治めてみせたのは、またしても西郷隆盛でした。
山県に陸軍大輔を辞任させて一応の始末をつける一方で、「これ以上文句があるなら俺が聞く」と宣言。この一言でもって事態を沈静化させてしまいます。　おそるべし西郷さん。
ほとぼりが冷めた翌6年6月には、西郷の推挙で山県が初代陸軍卿（陸軍大臣）に就任、山県の執念が実った瞬間です。これ以降、山県は陸軍のドンとして君臨し続けるのみならず、元老として政界に隠然たる力を持つことになっていきます。

徴兵制以外にも国内課題を片付けた西郷に、最後に残されたのが、朝鮮をめぐる外交問題でした。修好を求める日本からのアプローチを、朝鮮が拒絶したことを契機に、「朝鮮討つべし」の声が日本国内に沸き起こります。いわゆる「征韓論争」です。
この論争の事の起こりや経緯は、多く語られていますので、詳細は省きますが、半藤さんは、争いに敗れた征韓派が、西郷、板垣、江藤等の参議のみならず、近衛兵団や陸軍の指導者に至まで総勢三百人近くも辞めてしまったことに着目します。
本来、天皇を守るためにある近衛兵団や天皇中心国家の中軸であるべき参議が、さっさと使命を放棄してしまうあたりに、天皇中心国家観が実態を有していなかった当時の意識がみてとれるのではないかとのことです。

さて、征韓論の後、政府は大久保利通の独裁体制が形成されていきます。下野した反政府勢力は、次々と散発的な反乱を起こしては鎮圧され、鎮圧を通して、山県肝いりの徴兵軍団は経験を積み、近代兵器を整えていきます。
明治十年（1868年）、西南戦争が勃発。この戦いの最中に木戸孝允が病死、西郷は戦に敗れて自害し、大久保は翌年凶刃に倒れます。
三人の死は、武士の時代の終焉を告げるものでもありました。

維新の三英傑は、ここに全て姿を消し、後を継いだ山県有朋、伊藤博文によって、明治という時代が切り拓かれていくことになります。

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    <title>廃藩置県への道　『海舟がみた幕末・明治』第11回その一</title>
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    <published>2008-07-12T02:18:01Z</published>
    <updated>2008-07-16T05:14:09Z</updated>
    
    <summary>鳥羽伏見の戦いに明けた慶応4年（1968年）は、九月に明治元年と改まりました。 ...</summary>
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        <![CDATA[鳥羽伏見の戦いに明けた慶応4年（1968年）は、九月に明治元年と改まりました。
翌2年の三月には、明治天皇の東京への動座も完了。春までには、新政府の主力メンバーのほとんどが東京に集まってきました。
とはいえ、その実態は混沌状態で、各自が自藩の利を考えて自己主張を繰り返すばかりで収拾が付かない事態となりました。
新政府の中核として重きをなすのは、下級武士層出身の志士と一部の公家だけで、政争には強くても政務には疎い者ばかり、目指すべき青写真があるはずもなく、混乱は深まりました。
本来、新たな国づくりの中心になるはずの、長州木戸、薩摩大久保の両有力者が、性格と考え方の相違から、意思疎通を欠きがちだったことも混乱の一因だったとのこと。
統制派の内務官僚タイプである大久保利通と八方気配り派の外務官僚タイプの木戸孝允では、水と油の違いがあったようです。

半藤さんが紹介された当時の狂歌の一節

<strong>「上からは、明治だなどといふけれど、治まるめい（明）と下からは読む」</strong>

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        <![CDATA[当時の新政府が抱えている喫緊の課題は、1．天皇中心の中央集権体制をどう作るか、２．朝鮮を中心とする外交問題への対処の二つでした。
混乱を極めるなか、封建制度からの脱却に繋がる、ある提案が姫路藩主酒井忠邦から出ました。いわゆる「版籍奉還」です。
この案に、木戸と大久保が乗り、藩主を強引に口説いて道筋をつけます。
まず、薩長土肥の四藩主が率先して、土地と人民を朝廷に奉還することを宣言。これを受けて、二百六十余藩の版籍奉還が実現しますが、その内実は、激しい非難、憎悪の嵐に包まれていました。
政府は、藩主をそのまま知藩事として、中央が命名した行政官にスライドさせて決着を図り、建前としての封建制度はここに崩壊したことになります。
合わせて、身分制度も改革。公卿諸侯は「華族」、武士は全て「士族」、庶民は「平民」と呼ぶこととなりました。

事態が動きだしたところで、策士大久保が、動きだします。得意の寝技を発揮して、政治体制の刷新をはかり、うるさ型を排除した新体制を作ります。
更には、有力メンバーの寄せ集め集団であった親政府を機能分担型の官僚機構に変更すべく組織体制の変更を繰り返します。
その過程で、反対派（木戸派）を追い出し、自分の息のかかったメンバーを周囲に配置していきました。

また、新政府の統治機構を強化するために不可欠だったのが、政府直轄の軍事力の養成でした。知藩事に世襲を認めた当初策のままでは、彼らを武力で牽制する体制を確保しておかねば、またぞろ封建制度が復活するリスクがあったからです。
これについては、大村益次郎が、徴兵による国民軍の創設を主張しますが、大久保がそれに反対し、木戸は徴兵制の意義を認めつつも、現実策をとって大久保に同調します。
大久保等の考えは、薩長の兵を政府直轄の軍隊（親兵）に編成し直すというものでした。

大村が刺客に襲われると、事が動き出します。
まず、帝政ロシアを視察し、強固な政権の基盤には軍事力の裏付けが不可欠であることを痛感してきた山県有朋の動きです。彼はまた、大村益次郎の構想していた徴兵制を前提とした近代兵制度を引き継ぐ思想も持っていました。
山県は兵部少輔への任命を打診されるに際して、二つの条件を出しました。
１．兵制の統一
２．西郷の東京招致と軍政改革の首班へ指名
西郷という絶対的な存在を利用して、改革を進めつつ、大村が描いていた青写真を実現しようという目論見でした。
兵制改革、国軍設立、廃藩置県の大業を図ろうというものでした。
現実的には、故郷に帰った西郷が強化していた薩摩の兵力を、ご親兵として活用しようという目的もあったようです。
稀代の陰謀家と称されることも多い山県有朋ですが、半藤さんは、その構想力と政治力を高く評価しているそうです。

山県とともに、大久保、岩倉が薩摩に出向き、西郷担ぎ出しに取りかかります。
西郷は、この申し出を快諾し、長州、土佐にも声掛けをして、薩長土三藩の兵をもって御親兵を組織することを快諾します、その数一万人。中央政府直轄の最強近衛兵団が整いました。
明治四年一月、西郷は、この大兵団を率いて、再び東京へやってきました。
西郷の再登場は、維新がはじめて形になりはじめた瞬間でもありました。

これを期に再び政治体制が刷新され、西郷、木戸が参議に就任し、大久保は一歩後ろに引き下がります。
この新体制で、一気に「廃藩置県」の強硬策が具現化されていきます。いわば封建制度の完全廃止が宣言されたわけです。
これまでの経緯から諸藩主や封建制度論者からの猛反発が想定され、前途多難を苦慮する木戸や大久保を前にして、西郷は次のように言い切りました。

<strong>「貴公らに廃藩置県の手順さえついておるというのであれば、その上のことは拙者が全部を引く受け申す。暴動あらば、必ず鎮圧してお目にかけましょう」</strong>

大西郷の真骨頂と言える発言です。

西郷の迫力の前に、諸知藩事は沈黙し、明治四年七月十四日廃藩の勅令がくだり、二百二十余藩は、三府七十二県へと改まりました。
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    <title>意思決定の実際と対策　　長瀬勝彦先生</title>
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    <published>2008-07-11T03:08:40Z</published>
    <updated>2008-07-11T08:05:58Z</updated>
    
    <summary>随分と前のことですが、とある組織で人事部に配属され、新卒採用の仕事に携わった時期...</summary>
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        随分と前のことですが、とある組織で人事部に配属され、新卒採用の仕事に携わった時期があります。その時に、人事部長から、面接用の評価シートの修正を命じられました。
我が社の求める人材像をもとに、一般教養・知識、表現力、論理力、対話力等々いくつかの能力項目を設定して、それに見合う具体的な行動評価項目を洗い出しました（例えば、挨拶ができたか、笑顔の印象はどうか、時事問題に答えられたか、簡潔な自己紹介ができたか、志望理由に説得力を感じたか、厳しい質問にどう対応したかetc）
評価シートは、それらを10項目程度のチェックリストに仕立てて、5点法で点数化しました。もちろん重要な項目には加重をかけて総合点がでるようにしてあります。
ところが、人事部長は、実際の面接の際には、項目は一切チェックせずに、ただ総合点だけを付けて、横になにやら走り書きのメモを書き入れていました。
「使わないのなら作らせるなよ！」と腹を立てて、先輩に訴えたところ、「君の勉強のために作らせたのだよ」「でも、よく出来ているから僕は使うからさ」と慰めてくれたものです。
にもかかわらず、その先輩も実際は、まず総合点を書き入れて、あとで要素毎の点数を逆計算しながら記入していました．．．．

間違いのない判断を下すために用意された、さまざまな分析ツールが、実際に意思決定をする際には使われない。　この種の経験は多くのビジネスパースンが持っているものではないでしょうか。
頭で考えた理屈と実態の意思決定の乖離現象。それこそが、長瀬先生が専門とする行動意志決定論の研究領域です。


        <![CDATA[長瀬先生は喝破します。
<strong>「人間は、理性的に意思決定しているつもりでも、実際に決めているのは無意識であって、理性は事後的に自分の選択肢を説明するための理由を構築しているに過ぎない」</strong>
人間の意思決定は、「神の見えざる手」ならぬ、「無意識の見えざる手」に委ねられているのだということです。

しかも、無意識は、疲れを知らない働きもので、一生懸命何かを考えていると、意識的に思考しなくても、無意識が思考を続けてくれることがあります。
ニュートンが、リンゴの落下を見て、万有引力の法則を閃いたのは、リンゴの落下という情報に意味があったというよりは、その前提としてニュートンが無意識に思考を続けていたことが重要だったということです。
無意識は創造力の源泉でもあるのです。

そんなスグレモノの無意識の意思決定ですが、いくつかの致命的な欠点を持っています。
<strong>１．早とちりをしがち</strong>
（専門用語では「バイアス」と言われており、数十種類の「バイアス」が解明されているそうです）
<strong>２．融通がきかない</strong>
<strong>３．短期志向になりやすい</strong>
（人間は、本能として目の前の利益に飛びつく傾向がある）

無意識の意思決定は、過去の成功体験の影響を受けており、また、人間の本能的な傾向に引っ張られてしまうので、環境が大きく変わった場合に、思わぬ失敗に陥る可能性があります。
特に、経営上の意思決定ミスの多くは、ここに起因すると言われています。
講演では、具体的な「バイアス」例として、「埋没コスト」を紹介してくれました。
人間は、過去に注ぎ込んだ時間・労力・お金が多ければ多いほど、それにとらわれて、諦めた方がよいことに執着してしまうというものです。
浮上が見込めない赤字事業をズルズルと続けている企業の場合、経営者が、過去の「埋没コスト」に引っ張られて冷静な判断が出来ない場合がほとんどだと言います。

では、どうやって意思決定をすれば、よりよい意思決定が出来るのでしょうか。
長瀬先生は、意識と無意識の<strong>「折り合いの妙」</strong>をつけることだと言います。
端的に言えば、
<strong>まず、意思決定の現実を知ること</strong>
合理性・論理性の限界を知り、意思決定における無意識の働きをよく理解すること。
<strong>次に、無意識の欠点を知ること</strong>
無意識はどういう間違いを起こすのか（バイアス）を、あらかじめ認識しておくこと
<strong>最後に、欠点を補うこと</strong>
無意識の意思決定は必ず間違えるので、間違えを補正するための対策を事前に打っておくこと
になります。

例えば、赤字事業の撤退基準を決めておくこと、必ず批判ができる人物を意思決定集団に加えること、最終判断に第三者の意見を聞くプロセスを入れることなどが、それにあたります。
現在放映中の『篤姫』に、「一方聞いて沙汰するな」という母親の戒めを実行する場面がありましたが、まさに、こういう知恵が必要だということでしょうか。

最後に、長瀬先生は、意思決定をスキーに擬えました。
「スキーは自己流では上達に限界がある。上達するためには、後傾姿勢になろうとする本能に逆らって前傾姿勢を保たなくてならないのに、自己流ではそれに気づかないからだ」
上手く滑るようになるには、「向こう脛をスキー靴の押しあてる」とか、「谷足のヒザを山足のヒザ裏にくっつける」といった、ちょっとした、しかし実践的なアドバイスが有効なように、優れた意思決定にも「コツ」が必要です。

では、どんな「コツ」があるのか。
それは是非、ＭＣＣの<a href="http://www.keiomcc.com/program/dcm/index.html">『主観を磨く意思決定』</a>で学んでいただければと思います。
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    <title>冨田先生の夕学 ＜追記＞</title>
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    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.keiomcc.net/cgi-bin/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=1/entry_id=1162" title="冨田先生の夕学 ＜追記＞" />
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    <published>2008-07-09T01:14:19Z</published>
    <updated>2008-07-09T01:26:58Z</updated>
    
    <summary>7日（月曜日）の冨田勝先生の夕学で、藻から軽油をつくる研究について紹介がありまし...</summary>
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        <name>shirotori</name>
        <uri>http://www.keiomcc.com/</uri>
    </author>
            <category term="00300000 おしらせ" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.keiomcc.net/sekigaku-blog/">
        <![CDATA[7日（月曜日）の冨田勝先生の夕学で、藻から軽油をつくる研究について紹介がありました。
講演後の控室で、「実用化のメドはどんなものなんでしょうか」とお聞きしたところ、「5年～10年は無理、夢を追う話です」とおっしゃっていましたが、きょうの朝日新聞のは、デンソーが量産に向けた本格研究に着手すると発表したという記事が載りました。

「藻から軽油を量産へ　デンソー、年８０トン計画」
<a href="http://www.asahi.com/eco/NGY200807080010.html">http://www.asahi.com/eco/NGY200807080010.html</a>

記事によれば13年までには量産化体制をつくる計画とのこと。

「夢を形にする」というのはこういうことなんですね。

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    <title>バイオサイエンスの最前線　冨田勝さん</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.keiomcc.net/sekigaku-blog/2008/07/post_251.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.keiomcc.net/cgi-bin/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=1/entry_id=1158" title="バイオサイエンスの最前線　冨田勝さん" />
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    <published>2008-07-07T02:38:30Z</published>
    <updated>2008-07-08T02:50:28Z</updated>
    
    <summary>冨田先生が所長を務める、慶應の先端生命科学研究所は、ＩＴ主導のバイオサイエンスと...</summary>
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        <name>shirotori</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.keiomcc.net/sekigaku-blog/">
        <![CDATA[冨田先生が所長を務める、慶應の先端生命科学研究所は、ＩＴ主導のバイオサイエンスという新しい研究アプローチを取るユニークな研究所です。
ＷＥＢサイトの紹介文をみると次のように書いてあります。

<blockquote>当研究所では、最先端のバイオテクノロジーを用いて生体や微生物の細胞活動を網羅的に計測・分析し、コンピュータで解析・シミュレーションして医療や食品発酵などの分野に応用しています。本研究所はこのようにＩＴを駆使した「統合システムバイオロジー」という新しい生命科学のパイオニアとして、世界中から注目されています。</blockquote>

山形県鶴岡市という自然環境に恵まれた土地で、世界と戦う先端生命科学研究所のコアコンピタンスは二つある、と冨田先生は言います。

ひとつは<a href="http://www.iab.keio.ac.jp/jp/content/view/313/1/">、「メタボローム解析技術」</a>と呼ばれる分析技術です。
メタボローム解析は、“究極の成分分析技術”とのことで、対象となる物質の細胞がどのような成分で成り立っているのかを一度に分析してしまう「スグレモノ」だそうです。
先端生命研は、独自開発したCE-MS法というメタボローム測定のノウハウを有し、これによって得られたメタボロームデータの解析ソフトウェアおよび代謝物質データベースを武器に、さまざまな領域で応用研究に着手しているそうです。

もうひとつは<a href="http://www.iab.keio.ac.jp/jp/content/blogcategory/40/85/">、「E-Cell（電子化細胞）」に代表される卓越した情報技術</a>です。
コンピューターシミュレーションによる細胞メカニズムの再現技術など、ＩＴを駆使して生命活動のモデルを構築・解析する技術を10年以上も蓄積しており、これらによって得られた膨大なデータを用いて、生命現象の包括的な理解が可能になっているそうです。

この二つの武器を使って、どのような研究に取り組んでいるのか、そのいくつかを冨田先生は紹介してくれました。

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        <![CDATA[例えば、<a href="http://www.iab.keio.ac.jp/jp/content/view/314/1/">藻から軽油を生成しようという研究</a>。
特殊な微生物を含む「藻」が、窒素が不足すると、軽油の主成分と同じ脂肪成分を作り、体内に蓄積することに着目し、藻が効率よく油を生成する培養条件を解明しようという研究です。
既存のバイオ燃料の多くが、食糧との資源確保競争に陥り、食糧高騰を招いた一因になっているのに対して、藻はまったくのエサいらず、広大な海で培養すれば、低コストでエネルギーを産み出すことができるという夢のような研究です。


また、チリ共和国と共同で、<a href="http://www.iab.keio.ac.jp/jp/content/view/305/1/">バイオ技術を使った「銅」抽出研究</a>も進められています。
これは、微生物の働きを利用して、従来技術では活用できなかった低質の鉱石の中から銅を取りだそうという試みです。
現在の採掘技術で抽出できる銅の量は、全体の一部でしかないので、30年後には枯渇することが予想されているそうですが、この技術が実用化できれば、これまで瓦礫でしかなかった低質鉱石が宝の山に変わります。「錬金術」ならぬ、「錬銅術」とでも言えばよいでしょうか。

他にも、遺伝子を繋ぎ合わせて新しいゲノムを作り出すという「ゲノムデザイン」や、旧急性肝炎やアルツハイマー病などの診断をいち早く可能にする「バイオマーカー」など多彩な研究が平行して走っているそうです。
バイオサイエンスの成果は、医療・地球環境・食品・鉱業などあらゆる領域での適用が期待され、人類が抱えている課題・難題に対する解決の一助になることを期待されています。

冨田先生は、学部生を含めた学生達が、上記のプロジェクトの参画し、研究に取り組むことで学ぶという「リサーチベースドラーニング」を重視しています。
一般教養→専門基礎→専門研究という従来型のプロセスではなく、まず研究に関わることで、サイエンスの楽しさを体感し、同時に自分の知識不足を認識することが、基礎学習へのモチベーションになるはずだという信念に支えられています。

福沢諭吉は、開港間もない横浜を訪れた際、外国商館に掲げられた英語の看板がまったく読めなかったことに強い衝撃を受け、それまでの蘭学から英学への路線転換を決意したと言います。
「知りたい」という想いの強さがすべての出発点になるのかもしれません。

冨田先生が、先端生命研を作る際に、最も重要と考え、かつ苦労して実現したのが、ジャグジーとサウナの設置だったとのこと。
はたして、先端生命研育ちの学生達から、「現代のアルキメデス」と呼ばれるサイエンティストが生まれるか。
少なくとも冨田先生は、それを信じているに違いありません。
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    <title>ロボットを通して人間を考える　瀬名秀明さん</title>
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    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.keiomcc.net/cgi-bin/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=1/entry_id=1155" title="ロボットを通して人間を考える　瀬名秀明さん" />
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    <published>2008-07-04T05:13:17Z</published>
    <updated>2008-07-07T05:19:45Z</updated>
    
    <summary>東北大の大学院でミトコドリアの研究に勤しんでいた瀬名秀明先生が、バイオホラーの傑...</summary>
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        <name>shirotori</name>
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            <category term="00100000現在の夕学五十講" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.keiomcc.net/sekigaku-blog/">
        <![CDATA[東北大の大学院でミトコドリアの研究に勤しんでいた瀬名秀明先生が、バイオホラーの傑作と言われる<a href="http://item.rakuten.co.jp/book/4283331/">『パラサイト・イヴ』</a>でデビューしたのは、博士課程在籍中の13年前のことでした。
太古の昔に存在していた利己的遺伝子「イヴ」が、何億年に及ぶ生物寄生の眠りから覚め、ヒトに対して反乱を企てるというものです。
ミトコンドリアＤＮＡの解明にから導かれた、人類最古の人類が、数万年前に北アフリカに生まれた女性であったという最新知見をベースにしたホラー小説でした。

この作品を期にＳＦ作家としての活動もはじめた瀬名先生が、ロボットの世界に関心を持ったのは、文芸春愁から依頼されたサイエンスルポがきっかけだったそうです。
「ロボットは人間を越えられるか」をテーマに掲げ、ロボット研究の最前線を追った長期取材でした。

その取材をきっかけに、ロボット研究への理解を深めた瀬名先生が気づいたのは、ロボット研究が、ＳＦやアニメ等の空想世界におけるロボット文化と相似形をなしながら進化してきたという事実だそうです。

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        <![CDATA[瀬名先生によれば、ロボット研究には大きく二つの流れがあるそうです。
ひとつは、「人に寄り添い、近づくことを目指す」タイプ。いわゆるヒューマノイドと言われるもので、アニメでは鉄腕アトム、リアルワールドでなら、ホンダのアッシモに代表されるタイプです。
このタイプのロボット研究は、人の気持ちがわかることを究極目標に進化をしているそうです。
いまひとつは、「人間にやらないこと（やれないこと）をやる」実用タイプ。鉄人28号がアニメの典型で、現実の世界では、お掃除ロボットやレスキューロボットがこの流れに位置づけられるでしょう。
世界のロボット文化に多大な影響を与えたＳＦ作家の<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%95">アイザック・アシモフ</a>のロボット小説を丹念に読み込んでみると、この二つのタイプのロボットを巧みに描いていることがわかると瀬名先生は言います。

また、アシモフが残した<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%88%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E4%B8%89%E5%8E%9F%E5%89%87">「ロボット三原則」</a>は、ロボットとは何かを規定する意味で、その後のＳＦ作品に大きな影響を及ぼしたと言われているそうですが、瀬名先生によれば、アシモフは、最初から「ロボット三原則」を考えたわけではありませんでした。
上記の二つのタイプのロボットを空想しながら、ロボットと人間の共存のありようを、小説を書くことでスタディし、本質に近づいていったものだ、そうです。
アシモフがロボット小説を書くことは、人間とロボットの違いを見つける旅であり、それは取りも直さず、「人間とは何かを考えること」に他ならなかったというわけです。

アシモフの思考の変遷は、現代のロボット研究者の関心と重なるそうです。彼ら（ロボット研究者）は、いちように生命科学にも関心が高いそうです。それはロボット（マシン）が人間になりうるか、を考えることに通じるからです。

先日の夕学で、福岡伸一先生がいみじくも指摘したように、「生命とは何か」という命題には、いまも「機械論」と「動的平衡論」が並立しています。
生命科学の専門家でさえ、「生命」の定義をまとめることができないでいる深遠な問題でもあります。

ロボットとは何かを考えることで、人間とは何か、生命とは何かという崇高な思考の隘路にはまって動けなくなるとき、それをブレークスルーしてくれるのが、ＳＦやアニメの世界で創造力豊かに描かれる空想世界のロボットイメージです。
ロボットは、科学者やエンジニアが作ってはいるが、創造してはいない。
ロボットは、空想の世界で着想され、それを科学者やエンジニアが形にすることで進歩してきた。
瀬名さんは、そんなことをおっしゃいました。

だとすれば、ロボットの未来を考えることは、我々がロボットに抱く、期待と恐怖、違和感と親近感、恐れと憧れをしっかりと見据えることからはじまるのかもしれません。
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    <title>何が若者を苦しめるのか　本田由紀さん</title>
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    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.keiomcc.net/cgi-bin/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=1/entry_id=1153" title="何が若者を苦しめるのか　本田由紀さん" />
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    <published>2008-07-02T06:13:35Z</published>
    <updated>2008-07-02T06:24:34Z</updated>
    
    <summary>「若者と仕事」に関わる問題に対する識者の見解は、大きく３つに分かれます。 ひとつ...</summary>
    <author>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.keiomcc.net/sekigaku-blog/">
        「若者と仕事」に関わる問題に対する識者の見解は、大きく３つに分かれます。

ひとつは、「自己責任」を強調する論。
厳しい時代だからこそ、本人（若者）が強い意思と明確な目標をもって努力しなければいけないという論調です。ご本人がたいへんな苦労をして成功を掴んだ方に多い意見です。
いまひとつは、若者に寄り添いながら、彼らが意欲と希望をなくさないように温かいメッセージを送ろうというもの。
以前、夕学にも登壇いただいた玄田有史先生は、こちらに近いスタンスではないでしょうか。
三つめは、若者に寄り添うスタンスは同じながらも、彼らを産み出した社会そのものを厳しく糾弾する論
本田先生は、この立場ではないかと思います。実証的なデータに基づきながら、若者を疲弊させ、絶望させる何ものかを明確にしようという姿勢です。

本田先生が、各種データもとに「若者の働き方の変化」を分析した結果によれば、「全ての若者は苦境にある」そうです。
正社員は「過剰な労働」に、非正社員は「過少な賃金・安定」に、それぞれ押しつぶされていると言います。


        <![CDATA[この変化の模式図は、学校と仕事の結節点の変化を描いてみるとよく見えるそうです。
高度経済成長期から90年初頭まで、若者は、3/31付で学校を卒業すると、4/1付で就職をすることが当たり前でした。学校と仕事が隙間なく連結しており、そのまま受け渡しがなされていました。本田先生は、これを「赤ちゃん受け渡しモデル」と名付けています。たとえ若者が未熟でも、仕事の側が一から育てる責任を引き取ってくれるという意味を込めています。
ところが90年半ば以降、「赤ちゃん受け渡しモデル」に乗っかれる若者は、全体の7割程度で、残り3割の若者は、未熟なままで受け皿なき社会に放り出され、流浪者のように仕事の周りをさまよい歩くことになりました。
しかも、この「ダブルトラック化」の弊害は、両者が、相対立する原理で成り立っているゆえに、大きな移動障害・処遇格差となって表出してきました。
日本の場合は、正社員として就職するということは、会社という共同体の一員になることと同義なので、たとえ仕事内容がまったく同一であったとしても、正社員と非正社員は、それだけで、「共同体の内と外」という対立項に位置づけられてしまうからです。

また、「仕事－家庭－教育」という循環モデルが機能しなくなったこともあるそうです。
我慢して仕事をして家族を養う。家計を切り詰めてでも教育に投資をする。苦労して勉強すればよい会社に入れる。そんな典型的なサイクルが崩壊しています。
本田先生は、このサイクルが、ある「ゆがみ」を内包していたことに、問題をより深刻化させる要因があったと分析しています。
家族のため、子供のため、就職のため．．．
「仕事－家庭－教育」のいずれの段階でも、次への希望に過剰に寄りかかって、現在の満足を追究しきっていない点です。モチベーションの源泉が次への期待しかないとすれば、次への期待が絶たれた時に、いまの世界が崩壊することは自明なことかもしれません。

また、本田先生は、現在の「若者の論じられ方」にも強い違和感を持っているようです。
「働かない（働こうとしない）奴は駄目！」という前提のうえに、すべての言説が作られ、フリーターやニートという言葉が、ダメな人間の代名詞として流布しているのではないかと鋭い指摘です。
本田先生が把握できる実証データには、「働く意欲のない若者が増えている」という事実はなく、ニートの多くも、何もせずに悶々としているのではなく、何かしようともがいているのが実像に近いそうです。
にもかかわらず、彼らに貼られた「ダメな奴」のレッテルが自信を失わせ、意欲をそいでいることになりはしないかという問題意識が、本田先生にはあります。

<strong>スタートでほんの少し躓くと、リターンマッチが途方もなく難しくなる社会構造
躓いた人々に、ダメ人間のレッテルを貼り、更に意欲を減退させている人々の意識
「ここに一番の問題がある」本田先生は、そう考えているようです。</strong>

では、どうすればよいか。
本田先生は、学校と仕事の間に、ある種の<strong>「緩衝地帯」</strong>をつくることを提唱しています。
学校と仕事が隙間なくつながるのではなく、その間に緩やかで柔軟な中間地帯があって、ゆっくりと考えたり、いろいろな仕事を試したり、決めた進路を転換したりする。そんなイメージでしょうか。
政治家が口にする「強制ボランティア論」ではなく、もっと柔らかく、緩やかなものでしょう。
本田先生は<strong>「ほどほど感」</strong>という言い方をされました。
そこで若者が身につけるべきは<strong>「柔軟な専門性」</strong>だという方向性も指摘されました。
こちらの理解は、私も十分ではありませんが、やはり、ギチギチに決め込むのではなく、かといって、何でもありでもなく、途中変更可能な、前向きな意欲のきっかけとなる、入口としても専門性を磨くことだそうです。

本田先生の指摘は、私たち企業人にとっては、気持ちの良いものではないでしょう。
私たちが、心底に隠して気づかないふりをしている「弱み」を、チクチクと突いてくるからです。
「自分は弱者ではない」という傲慢さと、「自分の子供が弱者にならなければいい」というエゴの存在を、見透かされているような気になります。
こころのどこかで、「若者と仕事」の問題を、他人事として受け止めている自分への糾弾のようにも聞こえます。

本田先生は、ある世界が“まっとうである”ことを示す基準として次のようにまとめています。

<strong>ある時点で、不利な状態に陥った人がいつまでも不利でい続ける必要がなく、
人々ができるだけ不利にならないための準備や支援が幅広く提供されており、
人々が自分の尊厳と他者への敬意をもって生きていくことができる。</strong>

日本が“まっとう”な社会であって欲しいと願う気持ちに、誰も変わりはないでしょう。
「若者と仕事」の問題も、“まっとう”な社会を考える論点として理解する必要があるのかもしれません。

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    <title>部分という名の幻想　福岡伸一さん</title>
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    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.keiomcc.net/cgi-bin/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=1/entry_id=1152" title="部分という名の幻想　福岡伸一さん" />
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    <published>2008-06-27T03:22:30Z</published>
    <updated>2008-06-30T06:49:44Z</updated>
    
    <summary>三島由紀夫はかつて、柳田国男の『遠野物語』をして「これこそが小説である」であると...</summary>
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        <name>shirotori</name>
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    </author>
            <category term="00100000現在の夕学五十講" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.keiomcc.net/sekigaku-blog/">
        <![CDATA[三島由紀夫はかつて、柳田国男の『遠野物語』をして「これこそが小説である」であると激賞しました。
民俗学者であった柳田が、遠野出身の青年 佐々木喜善が語った山深い故郷の昔話を、聞き書きしてまとめたというこの本に、人を慄然とさせる文学の本質を、三島は見いだしたと言います。
柳田が『遠野物語』に込めたのは、「これを語りて平地人を戦慄せしめよ．．．」という前文の一節に代表されるように、忘れ去られた縄文精神の代弁者としての力強い宣言でした。

科学啓蒙書としてはもちろん、文学としても高い評価を得た『生物と無生物のあいだ』という本に、福岡先生が込めたのは、生命機械観の呪縛にとらわれ、途方もない過ちを犯しているかもしれない現代科学の世界に対する、強い危機感だったようです。

福岡先生によれば、「生命とは何か」という深遠な問い掛けに、ひとつの答ええを提示したのは、デカルトの<strong>「機械的生命観」</strong>だったそうです。生命とはミクロの部品から構成されるプラモデルのようなものだという認識です。
この思想は生命科学の基底に生き続け、20世紀の中頃には<strong>、「生命とは自己複製するシステム」</strong>であるという生命観に結実しました。
ワトソン・クリックが発見したＤＮＡの二重らせん構造は、生命が自らの中に、自己を複製する機能をもった、25,000種の遺伝子からなる高性能コピーマシンであることを証明したと言われます。

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        <![CDATA[しかし福岡先生は、「生命とは自己複製するシステム」という考え方は本当だろうか？という疑問を提示します。
そして、忘れ去られた最大の発見者として、ルドルフ・シェーンハイマーという科学者を紹介されました。
分かりやすい比喩に例えて説明すると、シェーンハイマーは、生命を構成する分子の動きを追いかけるために、事前に色を塗って識別可能にした分子を食物の中に混ぜ、それを食べたマウスの体内で、着色分子がどのような軌跡を描くのかを追跡研究しました。同時にマウス体重の微細な変化さえも記録していきました。
その結果、分子はマウスの体内に入ってまもなく、タンパク質に取り込まれ、体中のあらゆる部分に分散し溶け込んでしまいました。にもかかわらず、マウスの体重は一切増加しませんでした。つまり、かつて存在していた同じ量の分子が分解・排出されたことを意味します。
彼は、ここから、「生命とは絶え間のない流れである」とする<strong>「動的平衡論」</strong>を見いだしました。
我々の身体は、食物として新たな分子を外部から取り込み、それと同じ量の分子を排出することで均衡しつつ、数ヶ月もすれば、分子レベルは全て入れ替わっているというわけです。

では、絶え間ない合成と分解を繰り返しながら、生命体としての秩序が保たれているのはなぜでしょうか。
福岡先生は<strong>、「相補性」</strong>の働きを説明されました。
生命を、複雑に組み合わさったジグソーパズルとして考えたとき、一片のピース（分子）がなくなるとどうなるか。驚くことに、生命がなくなったピース（分子）と組み合っていた周囲のピース達（分子達）が、失われたピース（分子）の再生情報を有しており、見事に合成することができるのだそうです。

ギリシャ時代に、ヘラクレイトスが説いたという「万物流転の教え」や般若心経の「色即是空」にも通じる無常観とまったく同じ真理に、数百年も経ってようやく科学は辿り着いたことになります。

「科学の意味は、古くから人間が知っていることを、わかりやすく合理的な方法で説明することである」
福岡先生は、そんな、目から鱗的な科学観を口にされました。

「相補性」の教訓は、「全てはつながっている」ことを我々に示唆しています。
<strong>部分をいくら集めても、全体にはならない。
部分をいくら見ても、全体はみえない
部分は幻想でしかない。</strong>という真実です。

にもかかわらず、部分を切り取って、合成・複製を繰り返すことで全体性を再現しようとする「部分思考」を現代の科学はやろうとしていると、福岡先生は静かに糾弾します。
人間に備わっている高度な抽象的思考である「パターン認識」能力は、一部をみただけで、見えない部分を含めた全体を類推することを可能にしました。
その力は人間を人間たらしめ、多くの科学や思想を産み出してきましたが、こと生命科学においては、自然の摂理を破壊することにつながるのではないか、という強い危惧が、福岡先生にはあるようです。

その象徴が狂牛病だそうです。
肉骨粉を食べさせることで肉牛の早期生産を可能にした科学は、牛を草食から肉食に共生転換したとも言え、羊の風土病ウイルスを狂牛病として世界に蔓延したことにつながったのだという指摘です。
「部分思考」思考は、クローン技術や、遺伝子組み換え、再生医療、新薬創造と名を変え、あらゆる生命科学分野で、先端的研究として取り組まれています。
はたしてこれらの行き着く先にあるものはなにか。

「動的平衡」のメカニズムに、わずかな操作的介入を行うことが、「動的平衡」に取り返しのつかないダメージを与えることになりはしないだろうか。表向きの変化はすぐにはみえないとして、5年、10年、20年という年月を経て何が起きるのかはわからない。

『生物と無生物のあいだ』が多くの人々から高い評価を呼んだのは、このメッセージへの共感だったのかもしれません。
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    <title>中央集権国家への胎動　『海舟がみた幕末・明治』（第10回）</title>
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    <published>2008-06-27T01:15:58Z</published>
    <updated>2008-06-30T03:25:12Z</updated>
    
    <summary>1968年（慶應4年）3月14日、勝と西郷の直接会談により、翌日の江戸総攻撃の中...</summary>
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        <name>shirotori</name>
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            <category term="夕学プレミアム 「海舟がみた幕末・明治」" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.keiomcc.net/sekigaku-blog/">
        1968年（慶應4年）3月14日、勝と西郷の直接会談により、翌日の江戸総攻撃の中止は決まりましたが、これですべての事が収まったわけではありません。江戸城無血開城という新たな難事がはじまりました。両雄は休む間もなく動き始めます。
まず西郷は、翌日には京都に向けて出立。5日後の20日は、二条城で岩倉、三条、大久保、木戸らと緊急会議を行います。
「徳川公大逆といえども死一等は免じるべき．．．」と語気強く迫る西郷のとりなしに対して、穏便主義の木戸孝允が賛同します。寡黙な西郷に代わり弁舌を振るい、岩倉、大久保等の強行派も折れ、会議はまとまりました。
西郷は、すぐに長駆、江戸に舞い戻り、準備を整えます。

一方、勝は、21日に英国外交官アーネスト・サトウと面談。西郷との会談の様子を伝え、「武力衝突回避」を第一義とする勝の主張を明かします。親薩摩のサトウの口から、西軍に情報が伝わることを想定しての動きでした。
さらに、横浜に押し寄せていた海軍先鋒隊の総督大原茂実を単独訪問します。
血気盛んな大原を押しとどめ、暴発を抑制するための行動でした。西軍側にも多くの知己を持つ勝海舟ならではの交渉といえるでしょう。
横浜では、翌日に英国公使館にパークスを電撃訪問し、夕方まで粘って会談に成功します。
この席で、勝は誠心誠意、現今の外交問題を説明し、西軍に対する自らの考えを正直に、しかし強い決意をもってを話します。
「慶喜の助命」、「幕臣の生活にメドをつける」　この2点を保障してもらえれば、一切戦うつもりはないこと。
ただし、これに同意をもらえない時には、江戸を火の海にしてでも戦う決意を持っていること。
いずれにしろ、外国の手出しは無用であること。

パークスは、勝の人間性、明晰さに感服し、それまで薩摩寄りだった姿勢を一転、万が一西軍が慶喜の命を狙う場合があれば、ロンドンに亡命させるという密事まで約しました。

最低限の要求事項は明確にし、あらゆる手段を講じて相手にそれを伝えつつ、不測の事態に備えた万全の対策を打つ。勝の名声が後世に残る理由となる大仕事でした。

勝に惚れ込んだパークスは、すぐに西郷宛の手紙を駿府に送り、江戸から戻る途中の彼を呼んで、徳川に対して苛酷な処罰を取らないように要請します。
パークスの意外な態度に、勝の動きを察知した西郷は、その政治力に舌を巻いたそうです。


        <![CDATA[また、この会談で西郷は、徳川に対する穏便な処置を約束する代わりに、万国公法に照らして、英国の事態への不介入を求めます。
半藤さんは、ここで西郷が万国公法を口にしたことに注目します。
この頃すでに、万国法の遵守による諸外国との協調体制への意識が、新たな国づくりの基本思想の基底に流れていたわけです。
ちなみに、万国公法を最初にわが国で啓蒙したのは、長崎伝習所時代の勝海舟でした。彼が、いち早くその重要性に気づき、三百部を手配し、伝習所に人を派遣していた各藩に広めたものでした。このあたりにも勝の先見性が伺うことができると半藤さんは言います。

さて、勝と西郷の根回しが功を奏し、4月4日に勅旨が江戸城に入城、11日に江戸城引渡しがなされます。
西軍はこれに先んじて江戸市中に「告諭」を張り出しました。
これまでの事は咎めない、才能のあるものは幕臣であろうとも抜擢する、徳川時代の良い点はそのまま残す、庶民の仕事や暮らしは従来のままである等など、不安の頂点にあった徳川家臣団や江戸庶民を慰撫するための宣言でもありました。

とはいえ、断固戦うことを主張する強硬派は従わず、血気盛んな旗本を中心に3千人が上野の山にこもり彰義隊を結成します。
会津、長岡、米沢、仙台などの諸藩も西軍との一戦を覚悟して兵力を整えていきます。世にいう戊辰戦争です。
五月の上野の彰義隊との戦い。
七月には河井継之助率いる長岡城攻略戦。
九月には会津城攻防戦
翌明治二年の五月の函館五稜郭の戦い
と戦は続き、東軍は奮闘むなしく敗れ去り、ここに明治維新が完遂されることになりました。

戊辰戦争の間にも、新たな国づくりの構想は進められていました。
260年続いてきた徳川時代の日本の統治機構は、幕府が君臨する三百余藩の連合国家体制でした。これを、天皇を中心とした中央集権国家へと転換するのが基本方針でしたが、このパラダイムチェンジを理解できる人々は少なかったようです。
「やがて薩長は覇権をめぐって衝突し、諸藩も動いて再び天下をあげての動乱が始まるだろう」というのが当時の一般的な認識だったとのこと。世情は混乱していました。
そこで、作られたのが、<strong>「五箇条の御誓文」</strong>でした。
天皇親政の下でとられるべき基本方針を明らかにした、新政府の施政方針演説的な意味合いを持っていたといえます。

<strong>一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ 
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ 
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス 
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ 
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ</strong>

三月に出た御誓文に続いて、七月には江戸を「東京」へ改名すべく詔がでます。
「旧来ノ陋習ヲ破ル」象徴でもあったようです。
同時に東京への遷都策も、岩倉具視を中心に推進されていきました。戊辰戦争での、東北諸藩の強い抵抗をみての政治的な判断が働いた結果でした。
公家には、遷都反対派も数多くいたようですが、明治天皇の予行演習的な東京滞在も経て、明治二年の三月には、正式に天皇が東京に移ります。それに先立ち、二月には、太政官と称した新政府も東京に移り、名実ともに明治時代が始まりました。
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    <title>社会のための富の創出を　　スコット・キャロンさん</title>
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    <published>2008-06-19T03:04:35Z</published>
    <updated>2008-06-20T05:54:44Z</updated>
    
    <summary>1960年代、ＩＢＭ社員のお父上に伴って来日し、幼児期を日本で過ごしたというスコ...</summary>
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        1960年代、ＩＢＭ社員のお父上に伴って来日し、幼児期を日本で過ごしたというスコット・キャロンさん。本格的に日本語を学んだのは20年近く前、慶應大学の国際センターが主催する一年間の日本語集中コースだったそうです。
「その時の恩師が来ていたら困ります」とおっしゃっていましたが、なかなかどうして、微妙な言い回しや「どう言えばいいでしょうかね」と言い淀む感じまで、日本人そのもので、まったくストレスなく講演を聴くことが出来ました。

キャロンさんが、「なぜ、日本株に投資をするのか」という理由は、きわめて明解です。
ただひとつ「日本を愛しているから」
在日通算19年、子供4人を日本で育て、永住権も獲得して、日本に骨を埋めようと思っている。一人の人間として日本のために働きたい。その思いからだそうです。


        もちろん、感情だけでなく、投資家としてのロジックも明確です。
バリュー投資の観点に立てば、世界の株式市場で、日本が一番魅力があると断言できるそうです。成熟した安定社会、健全な国民性、高い技術力、進んだ法整備、どの点からみても日本の潜在的な価値は高いと言えるそうです。
にもかかわらず、企業価値（時価総額）が資産価値を下回っている企業が散見されるのは、ひとえに、資産効率の悪さに起因します。
ここさえ、改善できれば経済・文化大国に相応しい価値を、世界から認めてもらうことができる。だから日本人の一人として、これを改善したい。それがキャロンさんの基本姿勢です。

「もの聞く株主」というスローガンも、この姿勢の延長線上から生まれた発想のようです。
いちごアセットマネジメントを設立した2006年当時は、「もの言う株主」の時代でした。村上ファンドやスティールパートナーズが、株主利益の尊重の御旗を掲げて、強引な交渉姿勢で経営陣に迫るスタイルが耳目を集めていました。
キャロンさんは、会社は生き物だと考えているそうです。なんでも「株主のために」は通らない。30年、40年会社にコミットしてきた経営陣や社員に対して敬意を表すことが必要である。
だからこそ、まずは「もの聞く」ことから始めたいということです。

昨年、いちごアセットマネジメントが東京鋼鉄の統合案を大株主として拒否をした事例についても言及されました。
ニュースになった部分だけを取り上げれば「もの言う株主」と変わらないように見えるかもしれないという懸念からでしょう。
キャロンさんは、統合案が否決されるにあたって、多くの個人株主の反対もあったことに言及しました。突然の統合案で、どうみても不可解な統合比率に対して、納得できる説明がなかったことから、やむにやまれぬ行動であったと話されました。
健全な個人株主の利益を尊重する社会的認知を広めるために、日本を愛するがゆえの反対だったとのこと。

キャロンさんは、投資家と企業の社会的責任を次のように考えているそうです。

＜投資家の社会的責任＞
資金の出し手に対する「受託者責任」と、資本市場が産み出す富の受け手である「社会への責任」の両立を目指すこと。
両者をトレードオフの関係として捉えるのではなく、投資活動を通じて社会貢献をすること。

＜企業の社会的責任＞
対顧客への責任：付加価値の提供
対従業員への責任：質の高い雇用の創出とやりがいのある職場づくり
対株主への責任：社会のための富の創出
日本企業は、前二つは優等生、最後については課題が多い。

つまりは「社会のための富の創出」という点で、投資家の責任と企業の責任は一致します。
企業は社会から人材というリソースを得て、企業活動を行う。投資家は社会から「資本」の委託を受けて投資活動を行う。
ともにその成果を「社会のための富の創出」という形で実現する責務を負っている共同体であるとキャロンさんは考えています。
93年以降の米国株価の伸長と同じペースで、日本の株価が推移していれば平均株価は4万円台になる。それだけの「社会の富」が創出されていれば、消費税論議も必要なかったかもしれないとキャロンさんは言います。

最後にキャロンさんは、日本の資本市場の展望性を「明るい」と断言されました。
ROEの低さはまだ欧米企業と比して差が大きいが、それは分母の大きさゆえに致し方ない。企業の姿勢は確実に変わってきた。07年は配当額でも、自社株買いでも市場最高額を記録した。08年はそれを上回っている。資本効率の改善は間違いなく進んでいる、とのこと。

キャロンさんは、「私も仲間に入れてください」と遠慮がちに言いながら、「われわれ日本人がなんとかしないといけない」と繰り返しました。

「日本は外圧がないと変わらない」
「もう一度焼け跡にならないと変革できない」
という悲観的な声をプロパーな日本人？から聞くことも多いだけに、改めて「傍観者ではいられない」という気にさせてくれました。

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    <title>やみくもに守らない、やみくもに取り入れない　西尾久美子さん</title>
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    <published>2008-06-16T10:18:57Z</published>
    <updated>2008-06-17T10:29:58Z</updated>
    
    <summary>「祇園祭のお稚児さんが決まった」というニュースが先日ありました。 京都の街、特に...</summary>
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        「祇園祭のお稚児さんが決まった」というニュースが先日ありました。
京都の街、特に八坂神社から鴨川をはさんだ河原町通りまでの一帯は、7月17日の山鉾巡行に向けて、まつり準備が日々整えられていきます。一年のうちで、もっとも京都らしい季節の訪れかもしれません。
そんな京都の雰囲気を夕学の会場に持ち込んでいただいたように、西尾先生は、あでやかな着物姿で登場されました。
聞けば、学会を含めて重要な場での発表は、いつも着物と決めているとか。

柔らかな京ことばにのせて、京都花街の基礎知識をご紹介いただく姿は、西尾先生自身がお茶屋のおかみさんではないかと錯覚してしまうほど決まっています。
おそらくは意図的に披露されていると思われる、時折かいま見せる「いけず」な物言いも含めて、完璧な演出には恐れ入りました。京都を堪能した2時間でした。


        <![CDATA[さて、本題です。
西尾先生によれば、京都に限らず、全国の花街の全盛期は昭和の初頭とのこと。東京7500人、大阪5000人、京都には1800人の芸舞妓さんがいたそうです。
それが現在では、東京7500人→300人、大阪5000人→20人と激減し、多くの花街が消滅してしまいました。
その中にあって、京都の芸舞妓さんの人数は1800人→300人と減少幅が少なく、この10年に限っていえば、逆に微増ながらも伸びているそうです。
その秘密は何か、花街という特殊な世界の伝統から、普遍的な真理を導きだしたのが、西尾先生の<a href="http://item.rakuten.co.jp/book/4435727/">『京都花街の経営学』</a>でした。

花街のビジネスシステムは、戦略論的に、マーケティング論的に、地域開発論的に、さまざまの理解することができますが、私は、人材開発論として西尾先生のお話を聞いておりました。

企業の人材開発担当者風に言えば、花街の芸舞妓さんの「コア・コンピタンス」は<strong>、「座持ち」の能力</strong>にあるそうです。
<strong>お客様の気持ちや場の雰囲気を読み、適切な反応をできるかどうかにあります。</strong>
芸事の技能、立ち居振る舞い、話術等の専門性は、「座持ち」という基盤のうえで、状況対応的に出し入れされることで、はじめて意味を持ちます。
「座持ち」というのは、言い換えれば「場を読む」ことですが、最近の若者が“「命を掛けている（<a href="http://www.keiomcc.net/sekigaku-blog/2007/11/post_201.html#more">明治大学 諸富先生</a>）”という狭い概念ではなく、極めて高度な、「対人・対集団能力」と言えるでしょう。

西尾先生によれば、この「座持ち」の能力を、10代の女性が、短期間（2年程度）のうちに、獲得するためのノウハウが、あらゆる仕組みの中に埋め込まれているのが花街です。
これまた人材開発論的に言えば、「組織能力」としての人材開発力を、花街という有機体が蓄積しているそうです。

ひとつは、<strong>花街の疑似親子関係・姉妹関係</strong>です。
新人芸舞妓は置屋のお母さんと親子同然の契りを結び、全幅の信頼を寄せることになります。お母さんは、生活の面倒を見ることはもちろん、我が子への教育投資と同様に、新人舞妓の高額の着物を買い与え、芸事を習わせます。
また同じ置屋（場合によっては他の置屋）の先輩芸妓と「姉さん」の杯を交わし、公私にわたるＯＪＴの責任を担ってもらいます。

ふたつ目は<strong>、「女紅場」と呼ばれる芸舞妓さんの学校システム</strong>です。
花街の芸舞妓として必要な芸事を体系的に学ぶ学校が、花街の共有資産として設置され、技能育成の場になっています。

みっつ目は、<strong>技能発表の場としての「踊りの会」</strong>です。
春と秋に観光シーズンに行われる「都をどり」は、芸舞妓が、技能を披露し合い、競い合う場として機能しています。低コストの興行の側面持ち、花街全体の共通経費を賄う仕掛けにもなっています。
年に数回の晴れの舞台に向けて腕を磨く、いわゆるイベントペーシングの働きをしています。

そして、最大の特徴が、<strong>育成のための「評価」が、仕事の場に重層的に組み込まれている点</strong>でしょう。
座持ちの評価、芸事の技能評価は、置屋のお母さん、姉さんだけでなく、他の芸舞妓、お茶屋のお母さん、顧客等、あらゆる関係者が、その都度本人やお母さん・姉さんにフィードバックする習慣が、文化として根付いているそうです。
「言うてくれはる」ことの意義と重要性を、言う側も、言われる側も十二分に認識し、そこからリフレクションしていきます。
まさに「失敗経験から学ぶ」能力が磨かれるわけです。

また、売上評価という定量評価も、オープンにフィードバックされるそうです。
年のはじめに、年間売上ランキングが公表されることで、健全な切磋琢磨が起きます。
全ての評価が、評価のための評価ではなく、育成と結びつけて始めて意味を持つことの認識共有が、花街全体でなされていることが、それを促進しているそうです。

花街のビジネスシステムは、日本型経営の縮図とも言えます。
完全にクローズドではないけれど、完全にオープンではない。
仲間に入る以上は、長期的な関係を結ぶこと了解し、すべての論理がそれを前提に組み上げられています。
長期的な関係を前提にした合理性。それは、まぎれもなく日本的経営の特性のひとつです。

以前、夕学に登壇いただいた<a href="http://www.keiomcc.net/sekigaku-blog/2008/01/post_215.html#more">北海道大学の山岸先生の言</a>を借りれば、「安心社会」の典型でしょう。
山岸先生は、マクロな状況から見れば、日本は「安心社会」から「信頼社会」への転換を迫られていると言います。京都以外の花街が衰退した理由のひとつには、それがあるのかもしれません。

ただ、京都の花街は、自分たちの流儀を盲目的に守り続けるのではなく、長期的な関係を前提にした合理性に則って、意味があるものは残し、帰るべきものは大胆に変える、したたかな強さがありました。
新人の芸舞妓を、ネットを駆使して全国から募ることに積極的な一方で、顧客に対しては、「一見さんお断り」の流儀を頑として変えません。
しかもその判断を、特定のリーダーに委ねるというのではなく、業界全体の叡智として意思統一させている点に、もうひとつのしたたかさがあります。

<strong>やみくもに守らない。やみくもに取り入れない。</strong>

飛躍的な成長は望めないけれども、特徴ある商品・サービス・業界を維持・発展させるために、どのようにして時代と付き合っていくべきか。素晴らしいヒントが隠されているのではないでしょうか。
京都1200年の叡智なのかもしれませんね。
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    <title>戦いを終えて見える風景  出井伸之さん</title>
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    <published>2008-06-13T05:39:15Z</published>
    <updated>2008-06-16T05:46:19Z</updated>
    
    <summary>「イチローや松井に、今からゴルフに転向しろと言っても、まず変わらないでしょう」 ...</summary>
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        「イチローや松井に、今からゴルフに転向しろと言っても、まず変わらないでしょう」
「企業も同じです。一流になればなるほど変わりにくくなるものです」

出井さんは、『迷いと決断』という、ご自身の著書を示しながら、ソニーと格闘した10年の日々を総括することからはじめました。
たとえＣＯＥと言えども、自分で動かせることが如何に少ないかを痛感した10年だったそうです。
そこには、どうすれば良いかは見えていても、その道に組織を引導していくことができなかった忸怩たる思いを、静かに振り返る達観した心境が見てとれたような気がします。

1995年に出井さんがソニーの社長に就任した際に、社員と危機感を共有化する目的で示した有名な図があります。
人々が天真爛漫に泳ぎ回る“自由闊達、愉快なる理想工場”という池からは、ネガティブキャッシューフローという川が流れ出ていて、その川はやがて“倒産という滝”に注いでいるというものです。
ソニーの経営陣にあっては珍しいタイプの分析的な戦略家であった出井さんには、社長就任時のソニーは、いつまでも夢だけを追い求めてはいられない危機的な状況に映ったようです。
        
10年間の出井時代のうち、前半の5年は、折からのＩＴ時代に向けた、いち早い舵取りが効を奏し、VAIO、プレステといったヒット商品に恵まれた時期だったように思います。
後半の5年間は、出井さんの目指す改革スピードが時間の流れに追いつかず、やりたいこと、やるべきことをやり切れないうちに、「ソニーショック」を迎え、内外の批判にさらされながら苦闘した日々ではなかったでしょうか。

出井さんの眼に映ったソニーの実像は、夢のある新製品を次々と打ちだし、市場を創造してきたエレクトロニクス企業ではなく、金融、コンテンツ、ゲーム、半導体などなどビジネスモデルもマネジメントのあり方も時間軸も異なる事業体から構成される複合コングロマリット企業でした。もはやソニーは、まったく別の会社に変わっていました。
にもかかわらず、社外はもちろんのこと社内でさえも、その変化を心の奥底では受け入れることができず、古きよきソニーへの郷愁を捨てきれなかったこと。それが最後まで出井さんが克服しきれなかった壁のような気がしました。


さて、出井さんが考えるこれからの日本はどのようなイメージでしょうか
出井さんは、世界は、本格的な多極時代を迎えたと認識しています。米国・ＥＵといった巨大帝国、中国・ロシアの新興帝国、日本・英国などの成熟中小国、韓国、マレーシアなどの新興中小国、シンガポールやドバイなどの都市国家。
世界の秩序が、何かを中心を求めたり、対立軸に則って構成されるのではなく、それぞれが個別の論理で動きつつ、全体が調和されていく時代です。

資本主義の形態もひとつではなく、従来のイデオロギー対立ではなく、資本主義同士の勢力争いが起きている時代です。
米国の金融資本主義、韓国の生産資本主義、中国・ロシアの国家主義、日本の官僚資本主義etc。さまざまな資本主義が存在し、それぞれに異なった問題を抱え、課題を設定し、対策を打っています。
それが複雑に絡み合いながら世界経済を形作っています。

日本は「陰の時代の末期」だと出井さんは言います。
いまはまだ暗いけれども変わる寸前の時期で、先行きはけっして暗くない。変わりはじめさえすれば、一気に変わるはずだ、とのこと。

2020年に向けた出井さんの提案は次の通りです。
・アジアとの共生に向けた外交政策
・先端技術への戦略的な投資政策
・東京を金融都市として再生させるための税制改革、規制緩和
・農業の近代経営化
・イノベーションを生み出すプラットフォームづくり

いずれも20世紀の規制改革の延長線上で捉えるのではなく、21世紀の新しい技術と社会にフィットする新しい規制を作るの「クオンタムリープ＝非連続の飛躍」が必要だというものでした。

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    <title>人の数だけ「ひとり」がある　山折哲雄さん</title>
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    <published>2008-06-10T03:39:45Z</published>
    <updated>2008-06-12T05:01:16Z</updated>
    
    <summary>意外なことに、山折先生の講演はオリンピックの話題から始まりました。 「オリンピッ...</summary>
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        <![CDATA[意外なことに、山折先生の講演はオリンピックの話題から始まりました。

「オリンピックというのは、スポーツの祭典であると同時に、世界中の人々の精神世界がぶつかり合う場でもある。そこでは、必然として「日本人とは何か」という想念が浮かび上がってくる」

山折哲雄さんは、いかにも宗教家らしく、オリンピックをエンタテイメントとして楽しむだけでなく、日本人のこころが凝縮して表出される「日本人精神発露の場」としてご覧になっているようです。

トリノ冬期五輪の期間中、過去の日本選手の活躍の軌跡を振り返る映像が放映されたことがあったそうです。そこで流れた<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%95%91%E7%A7%80%E5%AD%90">前畑秀子さん</a>（ロサンゼルス五輪銀メダル、ベルリン五輪金メダルの水泳選手）のインタビューに、山折先生は注目しました。
出発にあたって送り出してくれた「母の言葉」を胸に刻み、「死ぬ覚悟」を秘めてスタート台に立ち、スタートの号砲に「神様」と叫んでプールに飛び込んだと前畑さんは振り返ったそうです。
山折先生は、このインタビューで語られた<strong>「母の言葉、死、神様」</strong>の三つのキーワードに着目し、恐らくは、当時の全ての日本人の精神構造の中に共有化された意識と価値観を見いだします。だからこそ、アナウンサーの「前畑ガンバレ！」の絶叫が、いまだに心に響くのだと。

]]>
        <![CDATA[現代の選手が口にするのは「自分らしく、楽しく、笑顔で」という言葉。「母、死、神様」とはおよそかけ離れたように見えるが、精神の価値観が70年程度で変質するとは思えない。実は彼らも、こころの奥底で、無意識のうちの「母、死、神様」と叫んでいるのではないか。だとすれば、彼らにその言葉を口にすることを躊躇させたのは何なのか。それをしっかりと見定めなければならない．．．．　山折先生は、そう言います。

同じように、我々が失いつつある「日本らしさ」のひとつに<strong>「寛容の精神」</strong>があると山折先生は感じています。
凶悪犯罪の報道に対して沸き起こる厳罰主義、極刑主義の世論にそれを感じるそうです。
名作<a href="http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/496_19866.html">『恩讐の彼方に』</a>で菊池寛が着目したのは、親の仇でさえ、理由によっては許すことができるという日本人の精神性でした。
山折先生は、更に思索を広げて、菊池寛が『恩讐の彼方に』とほぼ同時期に書いた<a href="http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1341_19214.html">『ある抗議書』</a>に思いを寄せていきます。
こちらには、姉夫婦を無惨に殺された主人公が、牧師の教誨を受けて安らかな心で極刑を受け止める犯人に対する押さえきれない怨嗟の声が綴られています。「寛容の精神」とは対極にある心境です。
「肉親を殺される」という、決して合理では解決できない大きな問題に対して、菊池寛は、ほぼ同時期に、まったく異なるスタンスの二作品を世に問うていたことになります。しかも、『恩讐の彼方に』では仏教を、『ある抗議書』にはキリスト教を絡ませながら、寛容と怨嗟を対峙させています。
この複眼思考、多義性こそが、「日本人のこころ」ではなかったか。それを我々は忘れてはいないだろうか。
山折先生は問い掛けます。


現代社会に蔓延している<strong>「漠然とした殺意」</strong>の存在についても、山折先生は気になるところだそうです。
殺意が外に向かえば、秋葉原のような悲惨な事件を引き起こし、自分に向かえば、ネット自殺の急増につながり、抱え込めなくなると“うつ”として表出してしまいます。

「漠然とした殺意」を増長する背景問題は二つあると山折先生は言います。
ひとつは、「人生80年」の人生モデルに対応する、こころの知恵・手当てを見つけられないでいることです。
「人生50年」の人生モデルでは、生と死が直結していました。ゆえに「死生観」が発達しました。そこの宗教の意義もありました。
生と死の間に「老、病」のふたつが割り込んできた今、我々はこれに対応する、こころの手当てを有していないことが不安を増長しています。

もうひとつは、人間関係の関係軸が変容したことです。
親子関係、師弟関係、友人関係。それぞれに独立していた関係軸が、いつのまにやら似通ってしまい、際がなくなってしまったことが不安につながっているとも言えます。

現代社会で盛んに使われるようなった「個」「個の自律」という言葉にも山折先生は危うさを感じているそうです。西洋近代社会が作り出した「個人」という概念を、深く考えることなくそのままの形で輸入してしまっているのではないかという問題意識です。
「個人」という概念を、日本社会の文脈の中で位置づけするという作業をするうえで、山折先生は、<strong>「ひとり」</strong>という大和ことばを教えてくれました。

西洋の「個人」に相当する、大和ことばの「ひとり」には、ひとつの定義にくくれない多義性があります。

例えば、柿本人麻呂の「ひとり」
<strong>「あしびきの　山鳥の尾の　しだり尾の　ながながし夜を　ひとりかも寝む」</strong>この歌中にある「ひとり」には、たとえ一人ではあっても、心の中で待ち人とつながっていること信じる歌人の成熟した精神を感じます。

例えば、親鸞の「ひとり」
歎異抄に綴られた親鸞の言葉には、厳しい修業を通じて、阿弥陀如来と直接つながろうと志した親鸞の強い決意が垣間見えます。西洋のプロテスタンティズムに通じる、強い「個」がそこにはあります。

例えば、放浪の俳人 <a href="http://www2.netwave.or.jp/~hosai/">尾崎放哉</a>の「ひとり」
<strong>「咳をしてもひとり」</strong>
肺を病み、幾ばくもない生命を噛みしめながら、それでも全宇宙と対峙し、自然の中に包み込まれようとする現実を、ひとりで受け止めようとする潔さがあります。

例えば、<a href="http://www.kyoshi.or.jp/j-index.html">高浜虚子</a>の「ひとり」
<strong>「虚子ひとり銀河と共に西へ行く」</strong>
俳句の道を究めることで、人間とは何か、生きるとか何かを考え続け、ついには自己の内面世界に広がる広大な宇宙の存在に気づいた虚子。
西行、芭蕉、良寛にも共通する、聖（信仰）と俗（芸術）の人生の二股道をあえて同時に歩もうとする、生き方のダイナミズムがそこにあります。

人の数だけ「ひとり」がある。
「ひとり」という大和ことばに、多義性を込めて紡ぎ繋いできた日本人の営み。
それを噛みしめないで「個」を語ることの無意味さを山折先生は指摘してくれました。
「個の自律」を口にしながら、自律するためにどうすればよいか、その答えを他者に求めようとする自己矛盾に気づいていない私達。

山折先生が繰り出す、禅問答のような問題提起的お話を聞いて、まずは、私にとっての「ひとり」を見つけることからはじようと思った夜でした。
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    <title>勝・西郷　運命の会談　『海舟がみた幕末・明治』第九回</title>
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    <published>2008-06-09T10:29:25Z</published>
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        1868年（慶応4年）1月6日深夜、戦意を喪失した慶喜は「江戸で再起を計る」と大阪城を脱出します。

追って7日には、新政府により徳川慶喜追討令が出されました。
ちょうどこの頃は、夏目漱石・幸田露伴・秋山真之など、明治を担う人材が次々と生まれた時期であり、そして、大阪を脱出する人々の中には太平洋戦争終戦時の首相、鈴木貫太郎の幼い姿があったそうです。

11日、慶喜が品川へ到着するところを、勝海舟が迎えます。
半藤先生によれば、勝はちょうどこの時、生活の糧を得るために乗馬を売ろうとしていたところで、使いの到着に、あわてて売るのをやめてその馬へ乗って品川に向かったとか。
不遇の時代を過ごしていた勝に、ようやく舞台が調います。

勝は慶喜に対し、強い口調で責め寄りました。
「なぜ大阪城に立てこもって戦わなかったのか」かなりガミガミと言う勝に心を打たれたか、慶喜は「この上は、頼るのはその方ただひとりである」とまで言いました。
勝の腹はこのとき決まったというのが、半藤先生の解釈。
そしてこの時代、「日本国」を見据えて事にあたったのは、勝海舟ただひとりであったということも。
徳川も薩摩も長州もない、ただ「日本国」のためにのみ力を尽くすという決意は、幕末のこの時期、他に見られることのない、勝なればこその先進的な考えだったのです。


        慶喜の処分に埒のあかない議論が繰り返されている頃、勝の身分は一足飛びに上がります。17日、海軍奉行並み。さらに23日には、陸軍総裁に。
ぐらぐらしていた慶喜の気持ちも19日頃にはようやく固まり、以後徹底して恭順の姿勢を崩すことはありませんでした。
幕府側で主戦論と恭順派がせめぎ合うこの時期、半藤先生は、大日本帝国の1945年8月15日が想起されると言います。
つまり、戦いの終わりを模索する姿が、勝海舟＝鈴木貫太郎、小栗忠順＝阿南 惟幾というように重なると。

一方、薩長率いる朝廷側は。
2月15日には総数5万という大軍を率いて京都を出発します。鳥羽伏見の戦いでは5千でありましたから、大変な増員でした。
しかし見逃してはいけないのは、前月23日の大久保利通による「大阪遷都」。
これから戦争をしようという時期に、すでにその先の、新政府の青写真を描いていたのは、この時ばかりは大久保ただ一人であっただろうというのが半藤先生の見立てです。大久保はその点において「希有の人」でした。
そしてこの遷都が実現を見なかったのは、木戸孝允によります。
誰にもみえないものを描いてみせる大久保に対し、木戸はこういう時必ず正論を言ってのけ、中庸を歩むひとでした。駆け足で進む大久保を留めておくに最適の人材であったと言えるわけです。

さて、新政府が国債を発行してまで臨んだ江戸城総攻撃。
これを寸前で止めたのが、世に有名な、勝・西郷による会談でした。
会談に先立って、勝が示した手紙にははっきりと、「戦争はしたくない、しかしいざとなればやる」と書かれています。
劣勢の側の代表者の物言いとは思われない、堂々たるものです。

実際に会談が行われたのは3月14日、芝田町の薩摩藩倉屋敷でのことでした。
いまも会見の碑が残されています。当時はそのあたりまで海だったのですね。

会談と言うものの、話は驚くほどあっさりついたということです。
まさに「勝・西郷の阿吽の呼吸」と、「勝の気迫」によってなされた運命の会談であり、ここに、江戸城無血開城への大きな足がかりが出来たのです。

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