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「祈ること」と「働くこと」 その2

不協和・不安を合理化する心理装置としての「神」を持たない私達日本人は、「明日への不安」にどう向き合っているのだろうか。

dst11031408110028-p2.jpg3月14日月曜日の早朝、計画停電情報の迷走から、精緻なパズルの組み合わせで成立している首都圏の電車ダイヤは大混乱に陥った。にもかかわらず、多くの人々は「仕事」のために会社を目指した。
「こんな時に家族を残して仕事に向かおうとするなんてクレイジーだ」と外国人は言ったのだろうが、多くの人々には、戸惑いこそあれ、迷いはなかったのではないか。

他ならぬ私もその中の一人であった。
駅の構内を溢れ出す人混みの中に身を置き、顔を真っ赤にしてがなりたてる駅員の誘導に従いながら、ただじっと電車を待っていた。
海外のメディアは、その様子を見て、日本人の冷静な行動や精神の強靱さに驚嘆の目を向ける。
しかし、その見立ては必ずしも正しいとは思えない。

人々はけっして冷静ではなかった。冷静であろうとしていただけだ。冷静でいよう(見せよう)と自分の感情と行動を必死になって制御していたのである。
それは、自己の内なるものとの「精神の戦い」ではなかったか。
「明日への不安」にくじけそうになる「こころとの戦い」ではなかったか。
多くの人々にとって、その日の「仕事」は、「目には見えない戦い」ではなかったか。
黙々と働くこと、目の前に課題に集中すること、それが表に見える戦いの姿ではなかったか。

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「祈ること」と「働くこと」 その1

地震から2週間近くが経過した。
地震・津波の直接的な被害を受けられた被災者の皆さま、原発事故で甚大な影響を受けていらっしゃる方々に心からお見舞い申し上げるとともに、いま私達(関東地方に住む人々)が直面している心理状態について、キリスト教と関連づけながら考えてみたい。

2月8日のブログ(阿刀田高さんと読み解く【旧約・新約聖書とキリスト教】その2)で、私は次のように書いた。

「人間は、神に逆らい、善悪を知ること=知恵を得ることで人間になりました。そして、その代償として、けっして逃れられない苦難を繰り返し経験することを宿命づけられたのです。

人間が遭遇するあらゆる苦難は、人間が神に逆らった罰であり、神の意志に他ならない。

天災であれ、飢餓であれ、戦争であれ、疫病であれ、不景気であれ、人間の苦難・逆境・のすべては、かつて人間が犯した「原罪」の代償であり、神の意志である。

彼ら(西欧人)は、困難に遭遇する度にそう思うのでしょう。

いま思うと、なんと高慢な文章であったかと猛省せざるをえない。
未曾有の大惨事に遭遇する可能性は、世界のどこにいようが同じである。論理的に言えば人類のすべてに天災に見舞われる可能性はあった。
にもかかわらず、自分は安全圏において、慌てる下界(他者)を見下ろしているかのような書き方をしている。
自らの不明を恥じるばかりである。


さて、いま私達が直面しているものを、ひと言で言い表すとしたら「明日への不安」ではないだろうか。
つい先日まで、「きょうと同じ明日が来る」 誰もがそう思っていた。
それが3・11を期して大きく変わってしまった
「きょうと同じ明日が来る」という確信が、これほどまでに揺らいだことはなかった。
何がどうなっているのか。いつまでも不便が続くのか、はたして日本は大丈夫なのか。
私達は、答えなき不安、終わりなき不安に包まれている。濃い霧の中を浮き船で漂っているかのようである。

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阿刀田高さんと読み解く【旧約・新約聖書とキリスト教】その4

国家であれ、企業であれ、宗教組織であれ、ある社会システムが大きく発展するためには、二つの役割が必要になります。
ひとつは、身をもって、その精神を具現してみせる「象徴」の役割
もうひとつは、大きな絵を描き、道筋を示す「戦略家」の役割
イエス亡き後のキリスト教(正式にはイエスの死後にキリスト教が生まれました)が世界宗教へと拡大の道を進む上にも、二つの役割が必要となりました。

阿刀田さんによれば、イエスの弟子達のうち、「ペテロ」「パウロ」の二人がそれぞれの役割を果たしたそうです。
『新約聖書』の使徒言行録は、弟子達による布教・伝道の記録ですが、その主役ともいえるのが「ペテロ」と「パウロ」です。
ペテロ41ZPC2NX7BL__SL160_.jpg

ペテロは、イエス生前の十二人に使徒の筆頭格にあたります。リーダーにいち早く付き従い、たたき上げの最側近として仕えてきた人物です。
もともとガレリヤ湖の漁師で、知性派ではありませんでしたが、誰よりもイエスを信じ、誠実な人柄と行動で知られ、命懸けの布教を宿命づけられた使徒達の「象徴」にふさわしい人物でありました。
初代ローマ教皇に叙せられており、バチカンの法王庁はペテロの墓の上に立つと言われています。サン・ピエトロ広場(寺院)の命名も彼に由来します。

パウロは、十二人の使徒には入っていません。イエスの死後に頭角を現した人物です。
当時の知識言語であったギリシャ語に堪能で、ローマ市民権を持つ知識派のユダヤ人でした。ユダヤ教の信者として、キリスト教を弾圧する立場にいましたが、ある日、神の預言を授かり、生涯をキリスト教の布教に捧げることになりました。
キリスト教が世界宗教へと拡大できた理由は後述しますが、それに際して、パウロのギリシャ語の能力、ローマ世界への人脈は大きな武器になったと思われます。

二人は、さしずめ、創業社長亡き後の会社にあって、「社員の信頼が厚い、たたきあげの専務」と「MBAを持ち、英語にも堪能な外様常務」といった感じでしょうか。
二人が正面から権力争いをすると会社は崩壊しますが、外様常務がたたきあげ専務を立てつつ、巧みに役割分担をしたことで、株式会社キリスト教は発展をしました。

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阿刀田高さんと読み解く【旧約・新約聖書とキリスト教】その3

「イエス・キリスト 最後の12時間」

ショッキングなキャッチとリアルな拷問描写で話題になった『パッション』(主演メル・ギブソン)の公開は記憶に新しいところです。
あまりに悲惨なキリスト拷問の映像に心臓発作を起こした観客もいたと言われました。
パッション.jpgのサムネール画像

この映画が扱う「イエス 最後の12時間」、ユダヤの神を冒涜したとして十字架刑の判決を下されたイエスが、激しく鞭打たれた末ゴルゴダの丘で磔刑に処せられる場面と、それに続く復活劇は、『新約聖書』最大のクライマックスです。
イエス・キリストは、すべての人々を許し、すべての人々の罪を背負って死んでいきます。そして預言通りに3日後に復活をします。
これをもって「キリスト=神の子論は完結した」
阿刀田さんは、そう喝破します。


『新約聖書』が書かれたのは、AD50年頃から150年頃にかけて。イエスの弟子や孫弟子、曾孫弟子の手によって書き綴られていきました。
この頃、ユダヤ民族は苦難の時代を迎えていました。
AD70年に最後の籠城地マサダが陥落し、イスラエルはローマ帝国の支配下に零落します。
『旧約聖書』に記された「救世主」が現れ我々を救済してくれるはずだ。
そんな願望が、多くの人々の意識中に渦巻いていました。
この中で、イエス・キリストは生まれ、『新約聖書』の世界が展開されたのです。

『新約聖書』は、社会変革家イエス・キリストの伝記として読める。
これが阿刀田さんの解釈です。

『新約聖書』は、四つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)、12人の使徒言行録、ヨハネの黙示録の三部によって構成されています。
四つの福音書は、有名な「受胎告知」から始まってイエスの生涯を記述するもので、いわば『新約聖書』の教義部分と言えるそうです。
使徒言行録は、ペテロ、パウロを中心にした弟子達のキリスト教布教・伝道の記録にあたります。
黙示録は、神が考える(と思われる)死語の世界の小説風表現であり、キリスト教の終末観を表しているそうです。

阿刀田さんは、『旧約聖書』同様に、阿刀田流『新約聖書』論を展開し、社会変革家イエスの生涯と、彼は如何にして神の子になったのか、持論をお話しされました。

「受胎告知」と言えば聞こえはよいけれど、父母(ヨセフとマリア)による男女の交わりを経ずして生を受けたという意味では、なんらかの事情のもとに生まれた「庶子」ともいえる。
その影響か、若くして家を出たイエスは20年近い空白の時間を経て、30歳を過ぎて突如ガリラヤ湖に姿を現す。
この間、彼は当時各地にあったユダヤ教の密教的集団に属していたのではなかったか。その後の「奇跡」遍歴の記述を丹念に読むと、そういう推測が成り立つ。

という大胆な説です。
『砂の器』を彷彿させる推理構成力といえるかもしれません。

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阿刀田高さんと読み解く【旧約・新約聖書とキリスト教】その2

「私は、在って、在り続ける者だ」

この講座が始まる前に、ちょっとしたウォーミングアップのつもりで、セシル・B・デミルの『十戒』を鑑賞し直しました。8530436.jpg
『旧約聖書』の出エジプト記を題材にした名画です。
モーセ(チャールトン・ヘストン)率いるイスラエルの民が、海を割って出エジプトを果たすシーンや、モーセが神から十戒を授かる場面が有名ですが、私は冒頭の一言が妙に心に引っかかりました。・

エジプト王の子として育ったモーセは、イスラエル人を酷使する政策に憤り、エジプトを飛び出して放浪生活を送る中で、シナイ山の麓で「神の啓示」を聞きます。
あなたは誰ですかと問うモーセに対して、神が告げるのがこの言葉でした。

「在って、在り続ける者...」
いったい何のこっちゃろう? これで意味がわかる人がいるのかしらん?
強い違和感が胸に残りました。
自分で言うのも何ですが、いま考えてみると、この言葉に引っかかったのは、結構いいポイントを突いていたのではないかと思います。
なぜならこの言葉に、「旧約聖書」のコアがあると思うからです。

英語で言うと、「 I am that I am 」だそうです。
私は「ある」という者である...? もっと意味がわかりませんね。

実は、この言葉こそ「唯一絶対」「全知全能」の一神教を象徴する表現のようです。

神とは神なのだ。神はこの宇宙が生まれるずっと前から存在し、万物の創世主である。
神に造ってもらった人間が、神とは何かを問うこと自体がおかしい。
神に間違いなどない。矛盾もない。疑ってもいけない。
人間が遭遇する如何なる悲劇も、辛酸もすべて、神が人間に与えた罰であり、試練である。

そんな神と人間の関係を規定するのが『旧約聖書』に他なりません。

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阿刀田高さんと読み解く【旧約・新約聖書とキリスト教】その1

夕学プレミアム「agora」レポートの第二弾は、作家の阿刀田高さんによる「聖書とキリスト教」講座です。

阿刀田高さんと読み解く【旧約・新約聖書とキリスト教】

「西洋を知るための教養」として聖書を学ぶことを目的にした講座を、阿刀田先生にお願いした理由と経緯は、かつてのこのブログにも書いたことがあります。
この時の期待通りに、楽しく、興味深く「聖書とキリスト教」を学ぶことが出来ました。

阿刀田先生は、お人柄あくまでも温厚で、気配りの行き届いた人格者です。それでいて、身体の芯には、一本ピシッと筋が通っていて、作家として守るべき一線をしっかりと持っている方のようです。
人間としての「規矩」を持った人と言えるのではないでしょうか。

信仰を持たない人間が聖書の記述やエピソードを読むと、いろいろな疑問や不可思議な点がてんこ盛りに積み上がります。
「こんな変なこと聞いていいのかしらん?」という不埒な疑問も多いのですが、阿刀田先生を前にすると、「何でも聞ける」「何でも言える」という雰囲気になって、素直に愚問を口にすることも出来るから不思議です。

阿刀田さんには、大衆が抱く素朴な疑問や関心を上手に受け止め、その中からエッセンスを抽出する濾過器のような能力があるようで、どんな質問もウェルカムで、相手に寄り添いながら丁寧にお答えいただきました。

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