「祈ること」と「働くこと」 その2
不協和・不安を合理化する心理装置としての「神」を持たない私達日本人は、「明日への不安」にどう向き合っているのだろうか。
3月14日月曜日の早朝、計画停電情報の迷走から、精緻なパズルの組み合わせで成立している首都圏の電車ダイヤは大混乱に陥った。にもかかわらず、多くの人々は「仕事」のために会社を目指した。
「こんな時に家族を残して仕事に向かおうとするなんてクレイジーだ」と外国人は言ったのだろうが、多くの人々には、戸惑いこそあれ、迷いはなかったのではないか。
他ならぬ私もその中の一人であった。
駅の構内を溢れ出す人混みの中に身を置き、顔を真っ赤にしてがなりたてる駅員の誘導に従いながら、ただじっと電車を待っていた。
海外のメディアは、その様子を見て、日本人の冷静な行動や精神の強靱さに驚嘆の目を向ける。
しかし、その見立ては必ずしも正しいとは思えない。
人々はけっして冷静ではなかった。冷静であろうとしていただけだ。冷静でいよう(見せよう)と自分の感情と行動を必死になって制御していたのである。
それは、自己の内なるものとの「精神の戦い」ではなかったか。
「明日への不安」にくじけそうになる「こころとの戦い」ではなかったか。
多くの人々にとって、その日の「仕事」は、「目には見えない戦い」ではなかったか。
黙々と働くこと、目の前に課題に集中すること、それが表に見える戦いの姿ではなかったか。

