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教養として読む「聖書」

秋からはじまるagoraで、作家の阿刀田高さんをガイドをお願いして、「聖書」「キリスト教」を考える講座を開催する。

阿刀田高さんと読み解く【旧約・新約聖書とキリスト教】

agoraをはじめた2年前からやりたかった企画である。
欧米の思考・価値観の根底には、ギリシャ・ローマの思想とキリスト教がある。従って彼らを理解するためには、その二つをを学ぶ必要がある。
ギリシャ・ローマを大づかみで理解するなら、塩野七生さんの『ローマ人の歴史』という絶好のテキストがある。やっかいなのはキリスト教、さらには源流であるユダヤ教である。
だからこそ、「異質な他者への理解を促進すること」を目的のひとつに掲げるagoraで取り上げるには相応しいテーマであろう。

ずっと適任の講師役を探していたが、なかなか「これは」と思う方が見つからなかった。
キリスト教を解説してくれる宗教学者は大勢いる。
キリストの教えを説き聞かせてくれる神父様や牧師様も多い。
でも、もっとニュートラルな立場で、わたし達の抱く「なんでだろう?」という素朴な疑問に寄り添って話してくれる人がいないだろうか。
そんな欲張りな思いで探していた。

「それなら、阿刀田先生がピッタリですよ」
私の問いに間髪いれずに答えてくれたのが、光文社出版局長の古谷俊勝氏であった。
彼には、昨年から折りにふれてagoraの企画を相談させていただいていた。

不覚にも私は知らなかったが、阿刀田さんには、『旧約聖書を知っていますか』『新約聖書を知っていますか』というベストセラーがあるという。
早速読んでみると、これが面白い。

冒頭の書き出しからしてユニークである。

まず胸一杯に空気を吸い込み、 「アイヤー、ヨッ」 と叫んで欲しい

「アイヤー、ヨッ」の合言葉を頭に入れれば、旧約聖書の世界が一気に開けるのだという。実際に、その言葉で聖書の重い扉がスーッと軽くなるから不思議である。
(種明かしは、本を読んでお確かめください)

阿刀田さんは、キリスト教信者ではないが、若き日に西洋文学に傾倒し、西洋を理解するツールとして聖書を読んだという。
教典としてではなく、欧米の文化、思考、行動原理を理解するための教養として聖書を学ぶには、最高の導き役と言えるのではないか。

・ユダヤ人は、拠るべき国家のない2000年もの年月を、なぜ乗り越えることが出来たのか。
・アダムとイブが口にした禁断の果実とは何だったのか。
・モーゼに預言を与えたという「在って在り続ける者」とは何なのか
・土と石に覆うわれた不毛の大地で生まれた宗教は、如何にして西洋世界を席捲したのか。
・彼らの信ずる全智全能の神とは、いったいどのような存在なのか。
・ユダヤ教、イスラム教、キリスト教は、いつ生まれ、どうやって共存し、如何にして戦ってきたのか。

欧米人のモノの見方・考え方の根底を知るために、聞いてみたい、考えてみたいテーマはいくつもあろうかと思う。

英語社内公用語化もいいけれど、言葉だけでなく背景にある歴史・文化・価値観を理解することも、同じくらい、いやそれ以上に重要だと思うが如何であろうか。

阿刀田高さんと読み解く【旧約・新約聖書とキリスト教】


大人の選句教室

正岡子規は、「近代俳句の革新者」と言われている。
限られた風流人がプロトコルに則って、知性と技術を競い合う「芸」として扱われてきた俳句を、誰もが自由な感性にまかせて思うままにうたうことができる「芸術」へと認識転換を促したことが、革新者たる所以だとされている。
つまり、俳句は、自分が「感じたまま」「見えたまま」を自由にうたうものなのだ。
話題になっている「俳句甲子園」も、感受性の鋭い高校生のみずみずしい感性がほとばしるからこそ、詠み人を夢中にさせ、聴衆に感動を呼ぶもののだろう。

さて、問題は大人である。リンボウ先生に言わせれば、とりわけ男性諸氏である。
どうやら女性陣は、年齢に関係なく、すぐに自由になれるのだという。

私も含めて、世の男性諸氏は、知らず知らずのうちに、裃や鎧を幾重にもまとっており、自分が「感じたまま」「見えたまま」を屈託なく表現することを大の苦手としている。何かといえば、知識、理屈、意味といった調味料をたっぷりと塗してしてしまい、「感じたままま」「見えたまま」が見えなくなる。
自戒を込めて言えば、調味料のつけ過ぎで味覚麻痺がおきているのかもしれない。
自己弁護をすれば、長年に渡って、如何にして調味料を探すか、つけるかという勝負を余儀なくされてきたのだから、いまさら「素」を味わえと言われてもなぁ、と避けて通りたくなる気持ちもなくはない。

しかし、どうやら世の中の風向きは変わってきたらしい。
なぜなら、心豊かに生きるためには、「素」を楽しむことが....。
危ない危ない、また調味料を使うところであった。
理屈はどうでもよい。格好悪くて何が悪い。
自分が「感じたまま」「見えたまま」を自由に表現する。そういう体験を味わうことに挑戦してみるのも一興ではないだろうか。

そこで企画したのが
夕学プレミアムagora 林望先生とワークショップ【大人の選句教室】である。

「どんな言葉がより鮮明に風景を伝えうるのか、どんな場面を切り取れば美しいと感じるのか、どんなリズムが琴線に触れるのか。
闇雲に自分の内面を探るのではなく、鏡に姿を映すように、あなたが選びとる句を通してあなた自身を発見する、大人のためのワークショップです。」

リンボウ先生は、そう誘っている。
俳句を作る前に、すこし敷居の低い「俳句を選ぶ」という行為からはじめるようだ。
対象となっている、夏目漱石、北原白秋、久保田万太郎、永井荷風は、近代を代表する文人・芸術家ではあるけれど、俳句の専門家ではない。いわば素人である。
リンボウ先生の配慮を感じる人選である。

大人の選句教室。
そのこころは、俳句そのものを楽しむことではない。俳句を通して、自分の感性・価値観を再確認する楽しみである。
感性のみずみずしさでは負けるけれど、高校生には見えないもの、聞こえない声、感じられない質感を理解できる感性を、われわれ大人は持っている。

夕学プレミアムagora 林望先生とワークショップ【大人の選句教室】

「論語」に興味があれば「大学」から

「論語」がブームだと言われている
アマゾンで「論語」をキーワードにして検索すると、なんと1339冊がヒットした。その中で、岩波文庫の『論語』(金谷治著)や渋沢栄一の『論語と算盤』といったロングセラーや、渡邊美樹氏(ワタミ社長)や斎藤孝(明治大教授)などのビッグネームの書いた論語本を抑えて、売れ行きNo1に座るのが田口佳史先生の『論語の一言』である。(2010年9/17現在)

何度かこのブログでもご紹介したが、昨年秋MCCで開催した田口先生の講義を書籍化したのが、この本である。
夕学プレミアムagora 田口佳史さんに問う【論語に学ぶ人間力】

今春は、田口先生に「老子・荘子」を講義していただき、こちらも書籍化が進んでいるが、第三弾の今秋は、『大学』を取り上げる。

夕学プレミアムagora 田口佳史さんに問う中国古典【大学の道】

「大学」と聞いてお分かりになる方は、教養人といってよい。論語や孔子、孟子の名前はほとんどの方がご存じだろうが、「大学」を知っている方は多くはいない。私も2年前までは知らなかった。
『論語』を含む「四書五経」と呼ばれるものが、儒家思想の基本教典である。かの有名な科挙の試験も、「四書五経」から出題された(四書全部と五経から一つを選択)。
『大学』は、四書のうちの入門編とされ、その後論語、中庸、孟子と進んでいくのが通常だったという。
入門編とはいえ、簡単というわけではなく、他の書に比して短いだけある。言わば、儒家思想のエッセンスを凝縮したモルトウィスキーのようなものだ。

田口先生によれば、『大学』の魅力は、その汎用性にあるとのこと。
いくつになっても、誰が読んでも深く学ぶことができる。
江戸期の人々は、町の寺子屋に入ったばかりの七歳の童も読めば、昌平坂学問所(幕府直轄の教学機関、その系譜は東京大学文学部へ連なる)に学ぶ当時の知的エリート集団の教材でもあった。その総長を務めた佐藤一斎(江戸期を代表する儒学者)も座右の書として繰り返し読んだと聞く。
現代でいえば、小学校一年生から東大総長までもが読む、恐るべき教典であった。

普遍の原理というのは、誰が、いつ読んでも、その人が直面する問題に応じた示唆や気づきを与えてくれる力強さがある。
『大学』は、その最たるものといえるだろう。
「論語」や「孔子・荘子」は、長文ゆえに、6回の講座では、その抜粋を学ぶことしかできなかったが、『大学』は、6回で一冊丸ごと学ぶことができる。

『論語の一言』がヒットしている所以も、田口先生の恐るべき汎用的対応力にあると思う。
大企業の社長にも、シリコンバレーのIT技術者(外国人)にも、教師を目指す若者にも、政治家にも、小学生にも、どんな人の、どんな質問・疑問に対しても、中国古典の教えを繙きながら、相手の状況に応じた言葉と文脈で語り説くことが出来る。
田口さん自身が、中国古典における『大学』的存在と言えるのかもしれない。

上質のシングルモルトをじっくりと味わうように、噛みしめながら中国古典を読み、考えてみたい方に、是非お奨めしたい。

夕学プレミアムagora 田口佳史さんに問う中国古典【大学の道】

ドラッカー「再発見」の旅

慶應商学部の菊澤研宗先生が、ブログでドラッカーについて再三言及されている。
菊澤研宗のブログ ダブルKのブログ

実は、秋の夕学プレミアムagoraで、菊澤先生にドラッカーを講義してもらう。
菊澤研宗教授による【ドラッカー再発見】

ドイツ経営学の出身で、経営哲学学会の会長も務める菊澤先生が、なぜ「マネジメントの発明者」ドラッカーなのか、しかも「再発見」と銘打っている。
そこがこの講座の“キモ”である。

昨今のドラッカーブームは、凄まじいものがある。
「もしドラ」は100万部以上を売り上げたというし、ビジネス街の大書店には、ドラッカーコーナーが設置され、ずらりと著作が並んでいる。その中には、「なんちゃってドラッカー」とでも言うべき怪しげな本も混じっている。
茂木ブーム、勝間ブーム、池上ブームと続いた一連の「一本かぶり」現象が、ドラッカーブーム行きついた感がある。
ドラッカーがこの世を去って5年。いまが「神様」化の旬の季節なのかもしれない。

ブームの意図をあえて要約すれば次のようになるだろう。
「混迷の時期にこそ、マネジメントの発明者ドラッカーが説く原理原則を再確認しよう」
というものだ。
アマゾンでドラッカー本(本人著以外も含む)の売れ行きランキングをみると、
1位:「もしドラ」、2位:「マネジメント 基本と原則」、3位「ドラッカー365の金言」
という順番になっていた。さもありなんという印象である。

この講座は、上記のようなイメージに彩られたドラッカー像の「再発見」を企図するものである。
経営の原理原則を説くコンサルタントとしてのドラッカーではなく、経済社会のあり方と個の自律を謳い上げた思想家・哲学家としてドラッカーを読み解いていく。

ドラッカー29歳の処女作『経済人の終わり』(1939年)は、ヒットラー全盛期のドイツで暮らしていた若き日のドラッカーが抱いた、ファシズムへの強烈な危機感から生まれた。
「絶望した大衆が選び取った“魔法の杖”、不可能を可能にしてくれる劇薬、それがファシズムであり、その行く先には蜃気楼しかない」
ドラッカーは強い口調で、全体主義を攻撃しつつ、絶望した大衆に提示するべき「代替思想」を必死になって模索した。

彼が、何冊かの著作を通して創出した代替思想が、自由な経済社会であり、その主役としての企業であり、企業の論理と個の自律を統合するツールとしてのマネジメントであった。

「ドラッカーを読んだら、企業の社会的責任ついて書いてあって、ちょっとビックリ」という感想をよく聞くし、私もそう思ったが、よく調べてみると当たり前である。
彼は、よりよい社会はどうあるべきかを考え抜いた末に、その主役が企業経営であるべきだという結論に行き着いた。
ドラッカーの考えるマネジメントとは、経営のノウハウではなく、組織を通して社会をより良くするためのノウハウなのだ。企業に社会的責任があることは自明の理であろう。

ドラッカーブームの多くは、ドラッカーが辿り着いた結論だけを見ている。
この講座では、むしろ結論に行く着くまでの思想の変遷と熟成に目を向ける。
その思索の旅のガイドには、カント、ウェーバー、ポパーに精通し、哲学・経済学・経営学が交差する関連領域を専門とする菊澤先生が最適任に違いない。

ちなみに、この講座で取り上げるドラッカーの著作は次の三作である。
『経済人の終わり』 『産業人の未来』 『現代の経営』
先述の売上ランキングは、それぞれ52位、64位、12位となっている。
『現代の経営』は別としても、その他の二作品を読んだことがある読者は、ドラッカーファンの中でも少ないのではないだろうか。

ドラッカーは読んだことがないけれど、資本主義とは何か、自由とは何かを青臭く考え直してみたい人。
ドラッカーは大好きだけれど、昨今のブームには違和感を感じるという人。
もちろん「もしドラ」で、はじめてドラッカーを知ったという人も(上記をご承知という前提で)。

ドラッカー再発見の旅にご一緒しましょう!!

agoraの講座から本が出来ました。

昨秋開催した夕学プレミアムagoraの講座 「田口佳史さんに問う【論語に学ぶ人間力】の講義内容をベースにした書籍が出来ました。

『論語の一言』(光文社)
書店に出回るのは来週早々ではないでしょうか。

著者の田口先生は、「はじめに」の中で次ような主旨のことを書いていらっしゃいます。

近年の『論語』に対する世間の関心が高まっている理由は、 「生きていくうえの、ぶれない軸が欲しい」 というものだと思います。

人間の行動や考えを支える「根っ子」を知ることが「ぶれない自分」をつくる軸になります。
この「根っ子」をは、人間なら誰もが持っているものなのです。
大事なのは、その「根っ子」に自ら気づくこと。そのために必要なのが『論語』なのです。

agoraの講義は、まさに「根っ子」に気づくための、田口先生との論語問答でありました。この本には、そのエッセンスが見事に凝縮してまとめられています。
是非、ご一読ください。


今春には中国古典シリーズ第二弾として、「田口佳史さんに問う中国古典【老荘思想】」がはじまります。
(こちらは、既に満席になり、申込受付を締め切っております)

この講座も書籍化の構想が進んでおり、『老荘の無言』(仮称)というタイトル案まで決まっているそうです。

「論語」(儒家)と「老荘」(道家)という中国古典の二大思想を、「一言」と「無言」という対比で表現されるのが、田口先生のすごいところです。

暗夜を照らす燈火を、「一言」に凝縮して伝えてくれるのが「論語」なら、
言葉は、真理の痕跡でしかないと喝破し、「無言」の教えを示すのが「老荘」。

そんな思いが込められたタイトル(案)ではないでしょうか。

「自分を知る」「自分を表現する」「誰かと繋がる」

山田ズーニーさんとワークショップ【伝わる・揺さぶる!文章を書く】http://www.sekigaku-agora.net/course/yamada_zoonie.html

昨秋開講以来、大人気の講座です。
すぐに満席になり、急遽追加開催を行いましたが、それも満席。
大好評にお応えして、春にも開催することになりました。お陰様でこちらも、たくさんのお申込をいただいており、またまた満席御礼の見込が濃厚となっております。

この講座には「卒業課題」がありまして、論文でも、エッセイでも、小説でもなんでもいいので、読み手の心を打ち、揺さぶる作品を書き、皆でシェアをするというものです。
私も、課題集を見せていただきましたが、原稿用紙にすれば50枚を越えそうな短編小説を書いた方も何人かいらして、圧巻でした。

自分の根本思想にフォーカスし、それを言葉や文章に置き換える作業というのは、極めて個人的な内的な営みですが、かといって、それを誰かに伝えたいという欲求も、自然なものではないでしょうか。
自分としっかりと向き合い、それでいて独りよがりにならずに、読み手の心を揺さぶる文章に仕立てるという行為を通して、

「自分を知る」「自分を表現する」「誰かと繋がる」

といった人間の知的・社会的欲求を満たしていくことができると思います。

ズーニーさんは、いたって気さくなお人柄で、終了後も毎回のように受講者とご飯を食べにいかれているとのこと。

そんなアットホームは雰囲気も、講座の魅力のひとつです。

「心に届く言葉」を探して

昨年の夕学で、谷川俊太郎さんにご登壇をお願いした時のことです。

「ボクが最も信頼する若い仲間で、覚和歌子さんがいるんだけど、彼女と一緒ならお受けしましょう」

谷川さんは、そうおっしゃって、覚さんを強く推薦されました。
当日、覚さんが開拓されたという「朗読するための物語詩」をお聴きして、衝撃を受けました。
「言葉の力」をまざまざと感じさせてくれたからです。
覚さんから発せられる言葉は、三百人の聴衆を一気に惹きつけ、物語の情景や登場人物の息づかいまでをも、実感させてくれました。
かつて「言霊」を信じ、言葉を通して神と繋がることが出来ると考えた古代人の神性な気持ちが理解できるような気がしました。

今回のagoraでは、覚さんと谷川さんにお願いして、詩の講座を企画しました。

覚 和歌子さん・谷川俊太郎さん【詩の教室】

覚さんは、自作詩の朗読ステージを全国各地で展開する一方で、『千と千尋の神隠し』の主題歌『いつも何度でも』の作詞や、平原綾香、Smapへの歌詞の提供など、幅広く活躍しています。
詩の創作や朗読を通してこだわっているのが、「心に届く言葉」を創り、伝えることだそうです。

一般に暮らしとはかけ離れたところで語られがちな詩ですが、日常のコミュニケーション言語について、人の心に届く言葉について考えたとき、詩人はそれを語るに最もふさわしい存在かもしれません。

覚 和歌子さん・谷川俊太郎さんという稀代の詩人お二人のナビゲーによって、詩作と朗読に挑戦するこの講座。

大切にしている「モノ」への思いを込めて、
自分の中に潜む「子どもの心」を取り出してみて、
絵画を言葉で表現する試みを通して、
等々、いくつかの課題を通して、詩作に取り組み、「心に届く言葉」を探していただきます。

詩をつくることを通して、自分自身を見つめ、味合う。そんな講座になると思います。

覚 和歌子さん・谷川俊太郎さん【詩の教室】
http://www.sekigaku-agora.net/course/kaku_wakako.html


心を震え動かす「強い映画」

李鳳宇さんと語らう【強い映画】

この講座に関心を寄せられた方は、すでにご存じかと思いますが、講師をお願いしている李鳳宇さんが設立され、社長を務めてきた株式会社シネカノンが、先月末に民事再生法の申請をしました。
映画ビジネスの難しさは、誰もが知っていることではありますが、「パッチギ!」「フラガール」など数々の名作を世に送り出し、独立系でありながら、制作・配給から劇場経営までを手がける稀有な存在として知られていたシネカノンが経営危機に陥ったことは残念でなりません。

申請後に李さんからいただいたメールには、再生への道が茨の道であることを認識しつつも、「私たちが植えた木が決して枯れることのないように、これからもあらゆる方法で“映画をやっていこう”と考えています」
とありました。

立場は変わったとしても、映画ビジネスにかける情熱はいささかも衰えることなく、シネカノンの再生や、映画プロデュース事業に全力を尽くそうとする強い決意を感じました。
この講座についても、昨年同様に、責任をもって担当していただくことになっております。


苦境の中で、過ごした年末年始に、李さんが観たのが、ジョン・フォードの名作『静かなる男』だったそうです。
失意を抱えて、両親の故郷アイルランドにやってきたアイルランド系アメリカ人の主人公(ジョン・フォード)が、故郷の人々の荒っぽい、それでいて素朴で温かい人間性と愛情に触れて、魂の再生を果たしていく物語です、
クライマックスは、町中の人々が喝采を送る中、男二人の激しい殴り合いが延々と続き、拳を通して互いを理解しあった二人が、ビールを酌み交わします。

『パッチギ!』のラストで、日本の高校生と朝鮮高校生が、鴨川の河原で繰り広げた集団決闘のシーンを彷彿させる場面です。

李さんは、人生の節目節目で『静かなる男』を、何度も観てきたといいます。
それは、この映画が、李さんの心を震え動かす力を内包する「強い映画」であるからに他なりません。


李さんは、ご自身が『静かなる男』に勇気づけられてきたように、自分の作る・紹介する映画を通して、人々の心を震え動かすべく、映画の道を歩んできました。

この講座は、そんな映画人 李凰宇さんが選りすぐった「強い映画」を鑑賞し、各自が「映画ノート」を書き、それをもとに、李さんを交えて議論をするという講座です。

かつて李さんは、フランス留学中に500本以上の作品を「映画ノート」に書き留め、感想や創作のアイデアをつづりました。この「映画ノート」にならい、一人ひとりがオリジナルのノートを作成し、映画を観おわった後に湧く、喜・怒・哀・楽・愛・勇気といったさまざまな想いや感想をつづります。

「映画ノート」は批評や優劣をつけるのではなく、自分を見つめ直すとともに、それぞれの味わい方を認め、感動や気づきを共有するきっかけとなり、自分自身も気づいていなかった価値観に出会うことができます。

課題映画は、『静かなる男』を含めて、下記の5本
『アクトレス』(仮題(2009年韓国)
・『静かなる男』(1952年アメリカ)
『This is it』(2009年アメリカ)
『西鶴一代女』(1952年日本)
『ミルコのひかり』(2005年イタリア)

古典から未公開(現時点)の新作まで、いずれ劣らぬ名作が揃います。

一本の映画が、新しい扉を開いてくれる。
一本の映画が、気づかずにいたあなたの力を引き出してくれる。

そんな素敵な知的感動を、是非ほ体験ください。

李鳳宇さんと語らう【強い映画
http://www.sekigaku-agora.net/course/lee_bong_ou.html

老荘思想を学ぶ

孔子・孟子に代表される「儒家思想」と老子・荘子の「道家思想」。
約ニ千五百年前に生まれた古代中国の二大思想です。

社会の中で社会を考え、社会秩序のより良い形成を願う「儒家思想」と、社会の外から社会を考え、社会そのものの、より良いあり方を謳う「道家思想」は、同じ山をまったく異なる方法で登ろうとすることに似ているのかもしれません。

40年以上に渡って、中国古典研究と普及に従事してきた田口佳史さんは、この二つの思想を自由に使い分ける思想の多様性こそが、東洋的な視点であるといいます。
尋常一様でない現実に向かい合い、融通無碍に思想を乗り換えながら、複雑な現実に対応していくこと。いわば“思想を楽しみながら”、直面する問題を受け止めていくことが必要なのでしょう。

昨年のagoraでは、二回に渡って「論語」を取り上げてきました。

・佐久 協先生と読み解く【現代に活かす『論語』と『孟子』】

・田口佳史さんに問う【論語に学ぶ人間力】

今春は、満を持して、老荘思想に向き合うことにしました。

・田口佳史さんに問う中国古典【老荘思想】

「老荘思想」は、茫洋とした物事の全体性をそのまま受け止め、身体や経験で吸収することを重視します。
「見えないものを見る」、「骨の髄で学ぶ」と評されます。
わかったようでわからない、なんとも怪しげな思想であります。
しかし、「全体性」や「包括性」といった概念は、量子物理学や生命科学でしきりに議論されているトピックでもあります。

対象を要素分解し、原因-結果の因果律で理解しようとする分析型のアプローチや、全てを二元論的なフレームワークで分かり易く分類してしまう考え方では解決できない複雑な問題に直面する時、人間だけが持ち得るという「包括的な視点による直観」が求められるのかもしれません。

あなたも「老子」「荘子」の深淵な宇宙世界を旅してみませんか。

今だからこそ「経済古典」 竹中平蔵さん

“我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか”

ゴーギャンの最高傑作と言われるこの作品は、禁断の木の実を食べてしまった人間がその代償として引き受けなければならない永遠の桎梏を表現をしていると言います。

ゴーギャンの問い掛けは、混迷の時代に生きる私達に、そのままあてはまるのではないでしょうか。
近代資本主義が登場して二百年余、私達は、資本主義がもたらしてくれた「豊かさ」に骨の髄まで染まってしまいました。物質的な「豊かさ」が、精神的な「豊かさ」と同義ではないことを理解しつつも、私達は、その呪縛から逃れることは出来ません。

不完全で、脆弱な存在ではあっても、上手に付き合い続けていかねばならない。
それが、私達が選択した資本主義というシステムかもしれません。

そうだとすれば、私達は、原点に立ち帰って、資本主義経済システムの原理を、しっかりと理解する必要があります。
幸いにして私達には、アダム・スミス以来の経済学古典という素晴らしい知的資産があります。
それを、いま一度学び直したいと思います。

竹中平蔵教授が講義する 【問題解決スキルとしての経済古典】

講師は、竹中平蔵先生にお願いしました。
政治の現場からアカデミックな世界に戻って以降、竹中先生は「Policy watch & warning」をスローガンに、政府の経済政策に対する見解表明をされています。
・慶應義塾大学グローバル・セキュリティ研究所
・ポリシーウォッチ

その活動を通して感じることは「経済システムや政策の意義を深く理解すること」の必要性だと言います。

政局の動きや表層的な事象を追いかけるマスコミの論調に惑わされることなく、「本質は何か」を冷静に、論理的に理解する「経済リテラシー」を持った市民が増えることが、なによりも求められるはずです。


今回の講座では、経済古典を再発見しながら味わう、いわば「問題解決のスキル」としてのケインズやシュンペーター等を探索する知的冒険を行います。
スミス、ケインズ、シュンペーターなど古典と謳われた経済理論を取り上げ、狭義の学問としての古典学習ではなく、経済の本質を見る目と、困難な問題を解決する基本力を高めることに焦点をあてて、講義を行っていただきます。

竹中先生によれば、経済学は本来「社会の問題を解決するスキル」として、まさに「実学」として発展してきたそうです。
そうだとすれば、社会的問題解決の当事者でもある私達こそが、経済学を学ぶ意義があるはずです。

講座では、こうした観点から、「思想が生まれた時代的背景」「人物像」「基本文献に示されていること」「今日的意義」について、講義をしていただきます。

平易な語り口と分かり易い解説で世に知られ、卓越した説明力を持つ竹中先生です。
難解で分かりにくいと評される「経済古典」を、現代の経済や政策のあり方に結びつけて、どこまで分かり易く講義してくれるのか。

見逃せない講座です!!


春からのagora

今期の「夕学五十講」も終わり、ホッとしているうちに、1週間経ってしましました。
来期の案内を開始するのは3月2日になるので、それまでの間は、恒例の夕学プレミアム「agora」の話題を中心に、ブログを書いていきたいと思います。

昨年春から始まった「agora」は、“人間力を磨く”ことを目的に、文学、歴史、芸術、身体論、社会、サイエンスなど、多彩なテーマを掲げ、少人数でじっくりと学ぶ連続講座です。

これまで10講座を開講してきましたが、従来のビジネス・経営系のプログラムとの違いは、「受講される方の90%が、個人での自費参加である」ことです。
もちろん、従来から個人の方はたくさんいらっしゃいましたが、比率でいうと30%程度でした。
それゆえに顔ぶれも多彩です。
企業にお勤めの方を中心にしつつも、お医者さん、弁護士さん、主婦、学校の先生、セカンドステージを勉強に燃える方等々多士済々です。
バックボーンのまったく異なる方々が、同じ土俵で、学び・議論し、新たな気づきを提供し合えるのも「agora」ならではないでしょうか。
私も、立場を越えて(?)、いくつかの講座には、受講生として参加させていただきました。
お陰様で、交流の幅も、ずいぶんと広くなりました。

このブログでもご紹介したことがありますが、私は「weak taies 」という理論が大好きです。
人生を大きく変えるきっかけになるような、劇的な気づきや発見は、職場や家族、親しい友人といった同質化集団からもたれされるのではなく、交流範囲の辺境に位置する異質な人々から得られる「弱い繋がり」の中から得られる、という考え方です。

「agora」が、あなたの、新しい「weak taies 」を繋げる機会になるかもしれません。


来期は下記の5講座を開講します。

竹中平蔵教授が講義する【問題解決スキルとしての経済古典】
  4月17日(土)開講・全5回

田口佳史さんに問う【論語に学ぶ人間力】
  4月20日(火)開講・全6回

李 鳳宇さんと語らう【強い映画】
  4月24日(土)開講・全6回

覚 和歌子さん・谷川俊太郎さん【詩の教室】
  5月15日(土)開講・全6回
  
山田ズーニーさんとワークショップ【伝わる・揺さぶる!文章を書く】
  4月17日(土)開講・全6回


これからは、それぞれの講座について、ご紹介していきたいと思います。

仏像と対話する

今春開催された国立博物館の「阿修羅展」は、95万人の入場者を記録しました。
興福寺の参加者が年間100万人程度だといいますから、たった2ヶ月で本家本元の一年分に匹敵する人が、阿修羅像を見たということになります。

空前の「仏像ブーム」と言われる所以ですね。
モデルのはなさんや、イラストレーターのみうらじゅん氏など、仏像ファンを自認する芸能人も多く、仏像の魅力は多くの人に広まっているようです。

その「阿修羅展」を手がけたのが、金子啓明さん(現興福寺国宝館館長)です。
金子さんは、慶應大学院で美学を修め、長らく国立博物館で仏像彫刻の研究や企画展示に携わってこられました。
昨年は「薬師寺展」も企画され、こちらも大きな反響を呼びました。

慶應アート・センターとの共催講座として、金子さんに仏像をテーマにした講座をお願いします。
「慶應義塾大学アート・センター【アート深耕! 仏像―祈りの造形―】」

私は、「阿修羅展」は残念ながら見逃してしまいましたが、昨年の「薬師寺展」は1時間半の行列待ちに耐えて、観てまいりました。

お寺に置かれた仏像は、堂内の光量や拝観者との距離もあって、お姿をじっくりと拝見することは出来ません。阿修羅像のように、宝物館に収められているものも、ケースに隔てられていたり、他の所蔵品と肩を寄せ合うように置かれていることもあって、見物するのに限界があります。

「薬師寺展」の時は日光・月光菩薩の展示が目玉企画でしたが、仏像に触れることができるような間近な距離で、しかも三百六十度ぐるりと廻りながら見ることができました。
少し離れた場所には、普段見上げるばかりの仏像を、少し上から見下ろすように鑑賞できる通路も用意をされていて、こころゆくまで堪能することが出来る仕掛けになっていました。

「薬師寺展」「阿修羅展」に見られるような、仏像とのインタラクティブな鑑賞法は、金子さんが提唱しているものだそうです。

「仏像と対話する」

金子さんは、そう呼んでいます。

例えば、興福寺の阿修羅像の場合は、3面の顔は、闘争の神である阿修羅の成長を表現していると言います。少年-青年-壮年へと変化する様子を、目鼻の位置や顔の大きさを微妙に変えることで表しているそうです。
こういう繊細な部分は、間近でじっくりと鑑賞することでしか確かめることができないでしょう。

今回の講座で取り上げるのは、白鳳時代から天平時代前期、大陸や朝鮮半島からの影響を受けつつも、日本独自の造形表現が刻まれるようになった時代の仏像を取り上げるそうです。
阿修羅像はもちろんのこと、中宮寺の弥勒菩薩や、法隆寺の阿弥陀三尊、薬師寺の薬師如来像etcなどをじっくりと勉強&鑑賞します。

仏教伝来から2世紀近くが経ち、松岡正剛氏が「日本という方法」と呼んだ、日本ならではの外来文化咀嚼法が、仏像造りの世界でも花開き始めていたのかもしれません。

古代にあって、上記のような仏像芸術を作ることは、莫大な金銀と最新の技術を必要とする一大事業でありました。時の権力者が、権勢の象徴として造作を命じたに違いありません。
しかし、若き仏師達は、もっとしたたかに、自分の仕事に打ち込んだのではないでしょうか。
ひょっとしたら、発注者である当時の権力者には見えないように、何百年後の未来のオーディエンスに向けて、何かのメッセージを埋め込んでいるのかもしれません。

彼らが、仏像に込めた祈りの造形とは何なのか。
まさに仏像と対話するようにして、数百年前に仏師達が、蝋燭の炎だけを頼りに作りだし、仏像に込めた造形表現の意味を問い掛けていくのが、新しい鑑賞法なのかもしれません。


実際に国立博物館を訪れ、文化財の新しい鑑賞法であるミュージアムシアターを体験するフィールドワークも組み込まれています。

秋の夜長を、仏像を拝みながら過ごすのも一興かと思います。

いまのあなたにしか書けないことがある

あなたには書く力がある。

いまのあなたにしか書けないことがある。

あなたが書くものを待つ人がいる。

秋のagoraとして、山田ズーニーさんに文章表現ワークショップをお願いした際に、ズーニーさんが提案してくれた企画案の冒頭三行に記された短い言葉の中に、この講座のコンセプトが的確に表されていました。
どこかで聞いたことのあるような理屈を、あれこれとこねくり回すことを一切せずに、ストレートに、しかも相手のこころに響く表現で伝える。

“言葉の産婆”を自称する文章表現のプロならではの技を見せていただいたように思います。

「山田ズーニーさんとワークショップ【伝わる・揺さぶる!文章を書く】」

さて、この講座、コンセプトはすんなりと共鳴したのですが、進め方については、少しばかり議論をすることになりました。

進研ゼミの小論文編集長として文章表現の世界に入った山田ズーニーさんは、独立後、有名になった「ほぼ日刊イトイ新聞」の連載をはじめとする文筆活動の一方で、大学生(慶應大、九州大など)を対象としたライティング技法講座や、企業研修のコミュニケーション研修も数多く手がけられています。

その経験から、100人近い大人数を対象とした講座の方がよい、という考え方を持っていました。
同質化しがちな集団の場合、ある程度の人数を対象とすることで異質性を取り込むチャンスを増やすことができるという経験則に基づいたものでした。

「自分にしか書けないもの」を見つける作業というのは、ひとりで行う孤独な作業ではなく、他者との会話の中で発見・醸成されるものだという信念をお持ちだということもあります。

私達は、その有効性は理解できるものの、「agora」は年齢も、職業も、置かれた環境も異なる受講生が集う異質な集団であることから、少人数での関係性にこだわりました。
ズーニーさんと受講者個人が、そして受講者同士が、顔の見える関係性の中で、「自分にしか書けないもの」を紡ぎ出すプロセスを大切にしたいと主張しました。

結果的には、ズーニーさんも私達の主旨に賛同してくれ、24名定員のワークショップになりました。
毎回の各自の文章作成課題に目を通していただくので、ズーニーさんには随分と手間のかかる仕事になってしまうかもしれません。
その分、皆さんに提供できる価値は上がると信じております。

ズーニーさんは、「自分にしか書けないもの」を探す行為を「深層心理の海に潜る」と表現されます。
自分の内面に広がる、深くて暗い海に、何度も繰り返しダイビングをして、岩の陰や砂地の下に潜んでいる「自分の想い」を掴みだし、言葉に変換する行為。そんな深層心理との交信作業のことを、「考える」と言うのではないか。ズーニーさんはそう言います。

「考える」ための道具が、「問い」であり、繰り返し潜るということは、何度も自分に問いかける「自己問答」に他なりません。

文章が上手くなりたいと思う人は多いでしょう。
文章が上手くなるためのスキルやコツを説く解説書も巷に多く存在しています。
しかし、人を感動させる、人を動かす文章というのは、単なるテクニックではなく、自分でも気づかずにいる「内なる何か」を、熱いパッションと冷静な表現で伝えることです。

4時間×6回のダイビングを通して、深層心理の海の中から、キラリと光る何かを見つけ出してもらえたらと思います。


自分なりの歌舞伎の楽しさをみつける

私が歌舞伎を観るようになったのは、中村勘三郎さんの襲名披露公演の年ですから、4~5年のことです。世紀の襲名披露とのことで、随分と大騒ぎをしていたので、どんなものだろうかと歌舞伎座を訪れたのが最初です。
以来、年に3~4回程度は観ていますが、いつも思うことがあります。
「なぜ、自分と同年代の人(男性)が少ないのか」
ということです。
女性は若い方からご年配の方まで幅広い客層であるにもかかわらず、男性は仕事をリタイヤされた大先輩の姿ばかりが目立ちます。
男ばかりの芝居ですから女性客が中心なのはわかりますが、演目内容には、大義と私情の相克に悩む話なんぞも多くて、「組織人の悲哀」に通ずる世界観に満ちています。
ゴルフに行く回数を減らして歌舞伎を観てもいいのになあと、いつも思います。

日本を訪れる海外の知識人は、必ず歌舞伎を観るといいますから、グローバルコミュケーションの一助として、日本のビジネスパースンも歌舞伎について多少は語れるというのもよろしいのではないでしょうか。


そんな思いで、agoraの歌舞伎講座を企画いたしました。

日本の伝統芸能を愛でる・楽しむ【Fun!歌舞伎】
講師は、京都造形芸術大学の田口章子先生にお願いしました。
北白川瓜生山にあるキャンパスを訪れて、いろいろとお話しましたが、歌舞伎ファンが高じて歌舞伎の研究者になったという筋金入りの歌舞伎好きです。
幼い頃、お祖母様に連れられて歌舞伎をはじめて観た時に、「なんて綺麗な着物だろう」と感動したというのが、最初の歌舞伎経験だそうです。

学習院で歌舞伎を研究し、京都造形芸術大学には、市川猿之助さんのご推薦で移られたと聞きました。
キャンパスには、猿之助さんが監修したという素晴らしい劇場があります。花道や廻り舞台も設置され、本格的な歌舞伎公演も出来るようになっています。
田口先生は、この劇場を使って、歌舞伎や文楽などの公演を開催するプロデューサー的な役割もしているアクティブな方です。
夕学にも登壇いただいた若手の注目株 市川亀治郎さんは、亀治郎の会と称する独自公演を開催し、評判になっていますが、最初の頃は、こちらの劇場を使って開催していたといいます。

今回の講座は、「比べて楽しむ」というコンセプトで田口先生が構成してくださいました。
・同じ芝居を役者の違いを比較しながら観る。
・江戸歌舞伎と上方歌舞伎の違いを観る。
・同じ演目を文楽と歌舞伎で比べてみる。
等々の趣向を凝らします。

義太夫狂言で重要な役割を果たす竹本と呼ばれる歌舞伎義太夫の実演者も招いて、プロの芸談もじっくり聴くことができます。

最終回は、都内で開催されている、その月の歌舞伎を皆さんで観劇するミニーツアーもセットされます。

きっと、歌舞伎を何度観ても楽しめる、面白さを発見できる「自分なりの楽しさ」を見つけられるのではないでしょうか。

プロ倫を通して資本主義を考える

前期の夕学では、「資本主義はどこへ行く」というテーマで6回の講演を行いました。

中谷巌さん
佐高信さん
今北純一さん
竹森俊平さん
原丈人さん
上村達男さん

お陰様で、このテーマは多くの皆様からタイムリーな企画であると評価をいただきました。
これからの世界経済、そして日本の行く末に、皆様の関心が高いことを再認識した次第です。

6回の講演を終えて、あらためて必要だと感じているのは、本質的な議論をより深く掘り下げてみることの必要性です。

私達は、数十年間に渡って「自由と資本主義」を標榜してきました。
そしていま、それが内包する矛盾や脆弱性にも気づきはじめています。
とはいえ、たとえ不完全ではあっても、代わりがない以上、上手に付き合っていかなければならないことも事実です。
だからこそ、「自由と資本主義」とは何かを真っ正面から考えてみたいと思い、agoraで下記の講座を企画しました。

古典を通して考える【自由と資本主義】

コーディネイターは、慶應商学部の菊澤研宗先生にお願いしました。
経営哲学学会会長を務め、組織や戦略を考える際にもそれを支える思想や哲学が重要だと考える先生です。
菊澤先生も、この講座をたいへん楽しみにされ、力が入っています。

「自由と資本主義」を考えるにあたって、よいテキストはないものか。いろいろ考えた末に、行き着いたのがマックス・ヴェーバーの名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(通称『プロ倫』)でした。

ヴェーバーはこの本で、英米の資本主義発展を支えたエートス(精神)としてプロテスタンティズムを指摘しました。
そしてエートスを失った時に起きるであろう、資本主義の暴走を暗示したとも言われています。

同じキリスト教社会でありながら、大航海時代の先進国であったスペインやポルトガルでは、産業革命以降の近代的な資本主義が発展せず、英国やドイツ、そして米国が資本主義の主役に躍り出たのはなぜなのか。
その理由を、ヴェーバーはプロテスタンティズムに求め、神と直接繋がろうとした彼らの仕事観・労働観が資本主義の発展を支えたと論じています。
資本主義とは何かを考えるうえで有用な古典として、あまりにも有名な本ですが、私もふくめて、実務家の皆さんで、この本をじっくりと読んだことにある方は多くはないのではないでしょうか。
 
ヴェーバーがこの本を書いたのは約100年前です。
20世紀の米国の著しい発展、英国病とサーチャー革命、更には新自由主義の興隆と今回の金融危機まで、一連の流れを考えながら読んでみると、なるほどと思える点、疑問に思える点、いろいろと出てきそうです。

今回の講座では、前半3回はプロ倫を読み解き、後半はプロ倫を離れて、ハイエクや東洋思想、そして近代日本の資本主義思想として、渋沢栄一と福澤諭吉へと、範囲を広げて考えていきます。

学生時代に戻って、骨のある古典に取り組み、自分のビジネス経験に照らし合わせながら、議論を楽しんでみる。
そんな講座にできればと思います。

自分の心で「論語」を読む

2009年前期「夕学五十講」が終了したことと、夏休みその他もろもろがありまして、しばらくブログをお休みしましたが、きょうから復活したいと思います。

きょうからしばらくは、この春から始めた新企画 夕学プレミアム「agora」について書きます。
5講座でスタートしましたが、お陰様で大好評のうちに終了いたしましたので、10月から秋シリーズを5講座開講することになりました。

きょうは、「田口佳史さんに問う【論語に学ぶ人間力】」についてです。
春のagoraでも論語講座を開講しまして、こちらはすぐに満席になりました。聞くところによると「論語ブーム」なるものも起きているそうで、そのお陰もあったのかもしれませんね。
個人的には、論語は、ブームと呼ばれる現象の対極にあるものではないかと思っています。
画期的なコンセプトや目新しい視点を提供してくれるのではなく、人間が長いこと向かってきた普遍的で抽象的なテーマを扱うものだからです。

でも、普遍的だからこそ、人々が強い関心を寄せたという見方もできるのかもしれません。
「明日から使える」「誰もがわかる」的な訴求をする書籍やセミナーは、相変わらず多いようですが、良識ある人々は、とっくに、その「まやかし」に気づいていることは間違いありません。
「論語」に関心を持つ人が増えているとすれば、「論語」の持つ世界観に“何か”を感じているのではないでしょうか。

以前も書きましたが、私は、「論語」とは何か?と問われれば、
「個の自律を謳いあげる書」ではないかと考えています。

「論語」と聞くと、戦前にあったという「修身」の授業や教育勅語、軍国主義を想起する人も多いかと思います。実際に、「論語ブーム」を支える人達には、右派的な思想に共鳴する人々が多いかもしれません。
「かつての「論語」の教えを、現代の文脈に置くこと」が重要だと考える人はそう思うでしょう。

私が「論語」に惹かれたのは、その正反対で、
「現代の文脈の中で、新しく「論語」を読み直すこと」が必要だと考えています。

今回、講師をお願いした田口さんはにその事をお話した際に、次の言葉を教えていただきました。

「心照故教」  ※ちなみにこれは論語ではなく、禅の教えだそうですが...
自らの見方・考え方を持って、古(いにしえ)の教え(=論語)を読み替えてみるという意味だそうです。

「論語」を、日本人が失った古き良き教えとして復活させるのではなく、いまの日本人が直面する課題として意訳してみることです。

混沌とした先の見えない時代にあって、行き先を示してくれる海図や羅針盤を欲する気持ちは、痛いほどよくわかりますが、突き詰めれば、自分の行く道は自分で決めるしかありません。

大航海時代に、ヨーロッパの冒険家達が、聖書を携えて、未知なる大海に漕ぎ出したように、先行きの見えない人生という航海に携えていく「個の自律を謳いあげる言葉」を論語の中に見つけ出せるのではないでしょうか。

ちょっとオーバーでしたか!?


アートが繋ぐ新しい絆

人類最初の芸術が生まれたのは、約1万5千年ほど前のヨーロッパ大陸だと言われています。「ラスコーの洞壁画」もそのひとつです。教科書でご覧になった記憶のある方も多いかと思います。
この壁画を描いていた人々が暮らしていたのは、近くに大きな森があり、鹿やバイソンが群れなす豊かな場所でした。彼らは岩場の日当たりのよい場所を選んで生活の場としていたと思われます。
しかし、壁画が描かれたのは、光溢れる生活の場ではなく、地中奥深くまで続く暗闇の洞窟の中でした。
中沢新一さんによれば、ある種のイニシエーションを受けた人々が、暗闇の洞窟で、わずかな灯りを頼りに、バイソンや鹿の姿を描いていたとのこと。
それは、限られた者達が、神と交流するための宗教的な儀式であったと考えられています。

こうした、暗闇の中の、未知の神との交信として始まった、絵を描く行為が、明るい陽の光の中で行われる行為へと変わっていった原動力は何であったのか。
夕学にもご登壇いただいた千住博さんは、著書『美は時を超える』の中で、古代ギリシャの詩人ホメロスの言葉を引用して説明しています。

「芸術とは、人に知らせたくなる行為のこと」

もっと明るい場所で「多くの人に見てもらいたい」という本能が、神の領域であった「美」を、人間の領域の「美」へと転換させていったのではないか、と千住さんは言っています。
多くの人の目に触れ、批評を受けることが、描く側の創作意欲を刺激し、次の作品が生まれていったに違いありません。
「描く」・「創る」と「見る」・「評価する」という相互作用のもとで、芸術は発展してきました。

さまざまな地域で、同じように発展した芸術は、やがて普遍的な見方・評価を伴っていきました。芸術観、鑑賞法とも呼ばれるものです。
それは、人間が、長い年月をかけて積み上げた芸術に関する「知」の蓄積でもあります。
美術館や博物館は、「知」の蓄積をもとに、多くの人に、芸術の楽しみ方を伝える装置です。
慶應義塾大学アート・センター所長の前田富士男先生によれば、美術館や博物館には、作品をより深く理解してもらうための文化的なコンテクスト(文脈)が用意されているそうです。

-たんに自分の好悪の感覚ではなく、大きな歴史や世界のひろがりに触れる場です。感性とは直接的な感情ではなく、コンテキストを踏まえた知覚、のびやかなイメージ理解の他なりません。それを身につける場が美術館です-

かつて私たちの祖先が、神と交信するための絵を描いたのは、陽の光の遮断された洞窟の暗闇でした。恐らく、神と繋がるためには、日常生活の場ではなく、非日常的な異空間を必要としたのかもしれません。
今日の美術館や博物館にも、非日常的な価値があります。日常の喧噪から隔絶した、静かで、大きな空間の中だからこそ、感性を研ぎ澄まし、作品と触れあうことができます。

「agora」で、前田先生をはじめ慶應義塾大学アート・センターの協力のもとに企画した「アート深耕! 芸術からはじまる新しい絆」では、美術館や博物館の楽しみ方を含めて、芸術を通した新しい人間の結びつきを目指しています。
“自ら美術品を選ぶ”ことを通して、作品と能動的に関わる出発点を発見して欲しいと思っています。
美術品を選ぶとき、そこには、選ぶ目的、基準、着眼点、方法など、作品を多角的にとらえる行為が欠かせません。それは同時に、美術品が持つ感性的価値を通じて自らの感性に気づき、それを表現する営みでもあります。
創作者、美術館長、学芸員、古美術商など美術の専門家の示唆に導かれながら、日頃敷居が高いと感じられるアートの世界との新しい対話を楽しみます。
“自ら美術品を選ぶ”ことで、相手のことを思い、目的を考え、場をイメージする。アートを通して、人と人、人と美術、人と場等など、新しい絆を見つけることができるはずです。

演劇を学んで何になる 

劇作家の鴻上尚史さんが夕学に登壇された際に、「この前、整体師の先生から聞いたのだけど...」と前置きされて、ユニークなボディワークを教えてくれました。

・椅子に座り、靴を脱いで、全身をリラックスさせる。
・5本の足の指を大きく開く(実際に開けなくても、開いた感じでOK)
・親指と小指を大地に着けたまま、残りの3本の足指を浮かす感覚をイメージする

というものです。
よろしければ試してみてください。こうすると(こうしようと努力すると)、ふくらはぎに微妙な力が入るかわりに、足裏全体から力が抜けて、軽い浮遊感のような感覚を得ることができます。
「通常では感じることができない不思議な感覚を知ることができる」
と鴻上さんは言います。

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古典を楽しむということ

西洋の文化的基盤、社会的規範は、古代ギリシャ・ローマの文化とキリスト教の二つから成り立っていると言われています。
しかしながら、ギリシャ・ローマの文化が2500年以上連綿と続いてきたわけではなく、8世紀から12世紀まで約四百年の断絶時代がありました。
7世紀にアラビア半島に生まれたイスラム教は、あっという間にその支配圏を広げ、8世紀には、イタリアはもちろんのこと、イベリア半島からピレネー山脈を越え、現在のフランスの大部分にまで勢力を広げることに成功しました。イスラム帝国の時代です。
彼らは、ギリシャ・ローマの文物を残らず収奪し、イスラム世界に持ち去ってしまったといいます。その後、ヨーロッパのキリスト教勢力は、長らく不遇の時代を過ごし、ギリシャ・ローマの歴史は遠い彼方に忘れ去られていました。
ようやく12世紀に入って、キリスト教社会は勢力を盛り返し、数世紀を費やした「国土回復運動」によって、イスラム勢力を駆逐し、かつての領土を奪い返します。
イスラム勢力が逃げ去った領土には、彼らが遺棄していったギリシャ・ローマの文物が残されていました。すでにアラビア語に翻訳されていた、それらの文物を通じて、キリスト教社会の人々は、改めてギリシャ・ローマの文化に触れたと言います。
彼らは、その時はじめて、アリストテレレスやプラトンを知り、その思想が自らの社会的規範の原型であったことに気づきました。
こうして、古代ギリシャで尊ばれていたという「リベラルアーツ」は、西欧文化の基礎として再編成され、西洋の古典として継承されてきました。


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「強い映画」

「映画産業の斜陽化」というフレーズは、テレビの登場以降、幾度となく使われてきましたが、『踊る大捜査線』の大ヒットをエポックとして、企画から興行まで、映画が全てにおいてテレビに依存せざるをえないという一方的依存体制が定着してきた感があります。
現在、興行収入10億円以上のメガヒットを狙うことができるのは、ジブリアニメかテレビ局製作ものだけで、老舗映画会社の作品は、漫画やベストセラー本の映画化で、安全パイを狙うという路線に安住しているようです。
その昔「5社協定」などという、いかにも日本的な護送船団方式を作り上げていた大手映画会社のうち、大映、日活が姿を消し、他社も往事の隆盛見る影なしといった状況です。

そんな映画界にあって、「agora」で映画の講座を担当していただく李鳳宇さんは、ひときわ光彩を放つ、異色の存在と言われています。

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論語のもつ自律的学習観

夕学プレミアム「agora」で論語講座をやろうと思い立ってから、論語をはじめとした東洋思想の本を、随分と読みました。
これまで論語や東洋思想については、まったく理解がなかったのですが、たいへん勉強になりました。
東洋思想・東洋的視点については、夕学で田口佳史さんがわかりやすくお話してくれましたが、個人的には、キャリア論、セルフリーダシップ、自由と自己責任など、90年代以降に人材開発の世界で盛んに取り上げられてきたテーマと近い部分があるという印象を持ちました。

論語は、近代に入って、教育勅語や修身教科書に取り込まれ、戦前の皇国史観や既成秩序維持のための思想教育に使われていたという負の歴史を持っています。
私個人としては、それを過剰に意識して、「食わず嫌い」で遠ざけてきたというのが、正直なところです。
「説教臭い」 「教条主義」 「右っぽい」etc。
そんなイメージを論語に抱いておりました。

ところが実際に、論語や東洋思想を勉強してみると、大きく印象が異なりました。
特に論語は、その自律的学習観に共鳴するところ大です。
なかでも、孔子の「学び」ついての考え方は、私が日頃から思っている「学習観」とピッタリ合いました。このブログでも度々紹介してきました。
2500年前、遠い中国で生まれた論語の教えが、現代の「大人の学び」の本質を語り得るというところに、時代を超えて生き抜いた普遍の真理を実感します。

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「人間力」を磨く

世の中には、「感覚としては分かるけれども、言葉にするとピンとこない」概念があるものです。
「人間力」という概念は、その典型かもしれません。

企業組織において、「人間力」と言う時には、知識・スキルといった表層的な能力ではなく、もっと奥底・芯にあるもので、人間として最も重要な、コアになるような力を意味することが多いようです。

数年前、政府の諮問会議において、若者就業問題を論じる文脈で、「人間力」という言葉が登場した際には、随分と批判が沸き起こりました。
その急先鋒の一人が、夕学にも登壇された本田由紀先生(東大)でした。
本田先生は、「人間力」をコミュニケーション力、問題解決力、決断力等と定義したうえで、それらが、家庭・幼児教育など環境の影響が大きく、本人の努力では如何ともしがたい能力であると言います。
そして、いたずらに「人間力」を強調することが、スタートに遅れてしまった若者達を、どうしようもなく追い詰めていると指弾しています。

また、「人間力」を否定的に捉える人には、使う人の恣意的な概念でしかなく、共通の定義や実測できる科学的な方法がない、あやふやなものにもかかわらず、あたかも人間に共通する根本的な能力のような使い方をすることの誤りを指摘する人もいるようです。
なるほど、その通りで、「人間力」を要素分解的に定義したものを見ると、どこかで目にした「○○力」「▲▲力」の集合体でしかなく、「なんか違うよナ~」という印象が否めません。

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夕学プレミアム「agora」を開催します

春から、慶應MCCの新しい試みとして、夕学プレミアム「agora」という講座を起ち上げます。
夕学をやっていると、この先生の講義を深掘りして聴きたいという声をよくいただきます。
夕学会場の丸ビルの隣にあるメインキャンパスでは、経営学系のプログラムを年間70本以上開催しており、このニーズに対応しているのですが、文化・教養系のプログラムは、未開拓領域で、昨年試験的に半藤一利さんの講座(「海舟がみた幕末・明治」)を開催しました。
お陰さまでこちらはたいへん好評で、昨年末には『幕末史』という本にまとまり、こちらもベストセラーに顔を出していると聞いております。

そこで、文化・教養系の講座に本格的に挑戦しようというのが「agora」です。
「agora」というのは、古代ギリシャのポリスにあった市民が集う広場のことです。「agora」には祭壇や泉が設けられ、市場が立つと同時に、政治談義や哲学論議が繰り広げられていました。
ソクラテスやプラトンも、ここで弁舌をふるったと言われています。
古代ギリシャには、プラトンが作ったという「アカデメイア」と呼ばれる学園があって、こちらが言わば「知の殿堂」であったのに対して、こちらは「談論風発の場」で言えるのかもしれません。

慶應MCCとしては、文学、歴史、芸術、身体論、社会、サイエンスなど、多彩なテーマを掲げ、同じ問題意識・関心を持つ、多様なバックボーンの人々が、「ひとつのテーマを深く掘り下げる」ことを通して、新たな知識を得ることを楽しみ、人間観・社会観・歴史観等を培い、感性を語り合いたいと思います。

慶應MCC夕学プレミアム「agora」
http://www.sekigaku-agora.net/index.html