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落合 陽一「ポストコロナを見通す」

落合 陽一

向かい合う時

私はグーグルマップを見ながら歩くことをしない。意識してこれをしない。自分の中に備わっている身体性が失われるような気がするからだ。できるだけ地図を頭に叩き込み、太陽や目立つ建物の位置、空間を把握するように努めて歩く。グーグルマップはいわゆる従来型の地図として時々見るようにする程度だ。そうでないと周囲の風景を見落としてしまうし、自転車や自動車に轢かれてしまう危険性もある。そんな私がメディアアーティストの講演を聴くことになった。どうなることか想像もつかない。

案の定、早口で怒涛の如く押し寄せるカタカナ語やデジタル用語にあっぷあっぷしていた。しかしそのうちに話の内容が聞き覚えのあることに気づいた。身体性、共悦、祝祭。人類学を研究する友人達が話す言葉にそっくりなのだ。言葉だけでなく中身も。

「顔が見える紙は粗末にできないです。」といって岐阜のおばあちゃんが漉く和紙に印画するワークショップ。ガンダムのプラモデルで生じた不要ランナーを用いて作った茶室。その作業を通して「茶室を作ることは昔の人にとってはコンヴィヴィアル(自立共生)かつサステイナブルであり、複数人で作り合ったことによる共悦を感じるもの」だったであろうと落合氏はいう。同氏がデジタルを軸にしているという点を除けば大学で人類学の教員をしている友人の活動と大変よく似ている。

とはいえ違う点もある。私たちは今や「第二の脳や第二の身体」としてデジタルを使っているそうだ。どういう意味だろう?例として落合氏はグーグルマップやカーナビがなければ生活できないことを挙げた。面白い指摘で「我々の体がデジタルの目に近づいているのではないか」という。冒頭で述べたようにグーグルマップの利用で私が恐れたのは正にその点だ。グーグルマップを覗きながら歩くことで私たちは周囲の風景、気配や身体に備わっている様々な感覚を自ら捨てて退化させている。デジタルはとても便利なのだけれど。

便利なデジタルで注意しなくてはならないのは「非言語のものはデジタルから抜け落ちてしまい、削ぎ落される」点だ。「非言語」のもの、落合氏が講演で挙げた映像だけでなく、醸し出される雰囲気や味わい、香りなどもそれに該当し、実際に場を共有しないと伝わりにくいものだろう。「質量のないものは忘れられていく」、特に人と人との関わりがSNSになっていく中、「自動的にはコミュニティがない」のでどうも退化や忘れ去られるスピードは心配している以上に早いかもしれない。だからこそ活動の中で共悦を作り出すように岐阜のおばあちゃんの元まで行って「顔の見える紙」を使ってワークショップを行うのだろう。

デジタルを追求していく程に真逆の人間の活動(アナログ)に関心を寄せていくようになる落合氏。夕学五十講で円覚寺派管長の横田南嶺老師が「坊さんだからといって古いことばかりに興味がある訳ではありません。最近の関心はAIです。」と話していたことが思い起こされる。

講演で落合氏は「身体性」という言葉を多用する。もしデジタルが身体性の補強、拡張、深化あるいは身体性を超越したものの創造を目指すのであるならば自ずと身体の主である人間について考察する必要があるのだろう。AIはその良い例で、あまりにも人間そっくりなものを見てひとしきり感心した後にふと思うのだ。「ここまでそっくりなら『人間を人間たらしめるもの、人間とAIの違う点』は一体何なのだろう。」AIを考えているようで実は人間を考えることになる訳である。進化したデジタルに向かい合う時、横田老師も落合氏もきっと同じように人間について考えざるを得ないのだ。

面白いことに落合氏も禅を追いかけていた時期があるらしい。スティーブ・ジョブズもそうだ。禅の人がAIに興味を持ち、反対にデジタルの側の人が禅に興味を持つ。面白い。けれどもこの両者には大きな違いがある。デジタルは何かの役に立つ「効能」を求めるもので「役割」や「目的」があり、それ故その役割と目的に沿うもの以外は削ぎ落とされるのだろう。一方で禅は「効能」を求めない。夕学五十講で禅について講演をいくつか聴いたけれども講師は皆、坐禅を含めてその「効能」を求めないよう言及することが多い。個人的な感想だが禅は「そこにあること」をそのまま認めるもののようだ。この違いを何らかの形で乗り越えてアナログの言葉で語り始めた時、落合氏のデジタルは大きく変わるのかもしれない。

(太田美行)