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伊藤 亜紗「身体論から考える利他」

伊藤 亜紗

身体のローカルルール

「自分と違う体から、世界はどう見えているのか?」という問いから出発し、おもに障害を持つ人たちとの対話を重ね、彼らの感覚や機能の差異から独自に編み出された驚くべき体の操縦法や、痛みとの折り合い方を聴取してきた伊藤亜紗氏。また介護や介助に携わる人たちの声などからケアの感性についても考察を広げ、それらの調査結果を、データ(数字)ではなく一人ひとりで違う「その人の体らしさ」「個別性=ローカルルール」の物語として全く新しい身体論・ケア論にまとめてきた。

その伊藤氏は、今、東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センターで長を務め、当面「利他学」を主題とする研究プロジェクトを率いる。「利他」を、宗教ではなく学問の文脈で系統づけられるのかといぶかしむ向きもあろうが、日本の理工系大学としてはめずらしくリベラルアーツに力を入れる東工大の試みときけば納得がいく。「ほんとうに必要とされている科学技術とは何か」を考えるとき、本来的に自己中に陥りがちな学問を相対化する倫理としての役割もあろう。むろん、パンデミック下で世に高まる排他的な自己責任論の大合唱を批判する立場として、利他学発信が急務となった背景もある。

触覚のポテンシャル

実際、ひとしなみに死が身近に意識されたコロナ禍では、誰もが「世界の見え方」の矯正を迫られたが、とりわけ感覚における「触覚」の境遇は激変した。ウイルス感染の可能性から、意識せず「さわって」いたあらゆるものが危険物へと変わり、「人類みんなが触覚の障害者になった」。つまり、不自由になったことで、各々が触覚に対し個別的に向き合わざるを得ない事態が出来した。そんな今こそ、触覚を介したコミュニケーションを考える好機。そしてそこには「利他」の萌芽が見出せると、伊藤氏はいう。

たとえば、視覚障害者ランナーと伴走者をつなぐ、あの小さな布の円環が秘める情報伝達能力を御覧じろう。伴走者が「あ、坂がある」と思っただけで、それがロープを通じて瞬時にランナーへと伝わり、明らかに「走路が見えてくる」らしい。実際に見たり話したりすることよりも、ロープを通した触覚から「伝わっていく情報量の方が圧倒的に多い」という驚き。言語コミュニケーションの絶対性など、甚だ疑わしくなってくる。また今度は一転、晴眼者の自分が目隠しをして走ってみたところ、「伴走者に命を預ける気持ちよさ」に衝撃を受けた。「信頼すればするほど、その人の情報が入ってくる」。「信じる喜び」とは、それほどの愉悦をもたらすものなのだ。

さわるから、ふれるへ

触覚コミュニケーションの解像度をさらに上げてみよう。ひとくちに触覚といっても「さわる」と「ふれる」では大きな違いがある。さわるという行為は、「医者が患者の腹部にさわる」のように、「発信者から他者へ一方的にメッセージを伝える」もので、そこには「安心」が担保されていなければならない。この安心というのは意外に冷たいやつで、「不確実性」を嫌い、相手を「管理」しようとするところからしかうまれない。

かたや、同じ触覚でも「ふれる」行為には、「傷口にふれる」「外気にふれる」といったように、「メッセージが双方向でやりとりされる人間的なニュアンス」が内包されている。前述したランナーと伴走者のように、「コミュニケーション生成モードが発動し、『信頼』にまで発展する」有機的な動きだ。

たとえば、ラグビーのスクラムを想像してみるといい。「敵なのに組み合って、敵の意向を感じながら、後ろからは仲間からも押され、どこに力を向けるべきかを確かめ合っている」。押し合いへし合いしながら「自他の境界はあいまいになり、受け取りながら与え、与えながら受け取っている」この状態が、まさに「利他」が胚胎する土壌だ。望むらくは、介助や介護といったケアにおいても、こんなふうに「能動と受動が混じり合う、『ふれる』コミュニケーション」がなされることが理想である。

利他の受け身性

してみると利他は、一方的に投げかけるだけの行為ではなく、「思ったよりずっと受け身なものかもしれない」。発信者が、前のめりになるあまり激しい思い込みから「相手もこう反応するはず」という態度で関わると、とたんに「思い」は「支配」へと転じ、利他は遠のいてしまう。

「支配」を避けるには、数値の裏付けを欲しがるのもNGだ。つまり利他は「つねに不確実性に開かれ」ていなくてはならず、あまつさえ「相手が想定外の行動を取ることで不利益を被る」こともいとわない。センターでは、そんな利他のあらまほしき姿を「うつわ」と表現している。

「ちゃった」ぐらいがちょうどいい

昨今は、受け取る側の意識にも変化がある。アンケートの結果からは、やさしくしてもらっても嬉しいと感じられない「受け取り下手」の若者が増えている傾向が見えた。おしなべて自己肯定感の低い男子は「自分はそんなことをしてもらうに値しない」と考え、女子は、受け取った瞬間に「すぐにお返しを」と思うあまり素直に好意を受け入れられない。そんなかれらにも、伊藤氏は慈しみ深く語りかける。

「与えようとして与えるものに、大したものはない。うっかり与え『ちゃって』いるものの方が大きい。(むしろ)まったく別の人に返してもいい」

何十年も前にかけられた言葉が人生に影響を与え続けた、という経験を持つ人が多いように、時間をかけて人を変化させるコミュニケーションというものがある。そんな風に、利他の時制も「与え手にとっては未来で、受け手にとっては過去」となる可能性がある。ゆったり構えればいいのだ。

いつ利他に通りかかられてもいいよう、受け入れるスキマを開けた「うつわ」を持つ。そこからお裾分けして与えちゃったりできたら、自分が「変わる」という余禄までつく。「うつわ」をどう成形するかは、あなた次第。

(茅野塩子)