« ヒトを人間たらしめるもの 長谷川眞理子さん | メイン | 夕学五十講2021年度後期 スケジュールをアップしました »

鴻上尚史氏に聴く、「同調圧力」と「エンパシー」

鴻上尚史.jpg

「どこでもいい、なにもない空間――それを指して、わたしは裸の舞台と呼ぼう。ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれを見つめる――演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ」
――ピーター・ブルック『なにもない空間』より

近著『演劇入門』の第一章を、作家・演出家である鴻上尚史氏は、イギリスの大演出家のこの言葉から始めている。
その定義は、演劇を、舞台装置や照明や音響などが完備されプロの俳優が演じる劇場空間から解放するものだった。
同時にその考え方は、演劇行為を、それまで演劇の場とは見なされなかった日常空間にまで拡張するものでもあった。

俳優ではない普通の人間が、劇場ではない市井で行う生の営みが、演劇たり得ること。すなわち、人生そのものを演劇行為と捉えること。
『演劇入門』の副題に、鴻上氏は『生きることは演じること』と添えた。俳優志望者向けの本なら『演じることは生きること』とするだろう。そうしなかったところに、いま、一般の人にこそ何かを伝えたい、という鴻上氏の想いが感じ取れる。

私たちは演じている。ある時は男/女を。ある時は夫/妻を。ある時は親/子を。ある時は上司/部下を。ある時は先輩/後輩を。ある時は教師/生徒を。ある時は教祖/信者を。

そして私たちは観ている。誰かの人生/演劇行為を。もしくは自分自身の人生/演劇行為を。
観客としての私たちは、何が起ころうと状況を見つめ続けることができる。もしくは目を背けることができる。
でも、声を掛けることもできる。駆け寄り、寄り添い、手を取って立ち上がらせることもできる。

大勢の人が行き交うターミナル駅。一人の女性がベビーカーを抱えて階段を登ろうとしている。助ける人はいない。先を急ぐあなたもその一人だ。
日本では珍しくもないこの光景は、多くの外国人の目には奇異に映る。親切で優しい日本人、というイメージとのギャップ。
だが、もしこの女性が、あなたの身近な知り合いだったらどうだろう。
どんなに急いでいても、あなたは相手の名を呼び、駆け寄って手を貸すはずだ。

知り合いであるかないかで関わり方が変わる。その違いを、鴻上氏は「世間」と「社会」という言葉で説明する。
「世間」は、自分と関係のある人の集合体。農耕民の共同体である「ムラ」に起源を持つ。
「社会」は、自分と関係のない人の集合体。明治時代の富国強兵政策に起源を持つ。
その女性が見知らぬ人である限り、「社会」を生きるあなたは、彼女の目の前を通り過ぎる通行人に過ぎない。でもその女性が知り合いとわかった瞬間、あなたは「世間」を生きはじめ、自ら女性に寄り添っていく。
「情」の「世間」と「法」の「社会」。二つの関係性は奇妙に同居しながら近代以降のこの国をかたちづくってきた。

「世間」は同質性を持った者で構成される。その同質性を維持するため、構成員は「協調性」に価値を置く。「世間」は弱者同士の相互扶助を促すセーフティーネットである。と同時に、全体の存続のためには個人の自由や尊厳を顧みない、しきたりと制約に縛られた集団でもある。
「世間」がもっとも強力に機能したのは江戸時代まで。その後、時代が下り、「社会」が徐々に浸透する中で、伝統的な「世間」は次第に弱体化してきた。といってすべてが「社会」に染められたわけではない。かつてのムラの性質は今も会社や学校といった組織に引き継がれているし、「世間」の流動化形態である「空気」は、日常のふとした場面に忍び込んでくる。
「空気を読め」。そう明示的に言われなくても、「圧」を感じる瞬間がある。それが同調圧力だ。

「同調圧力」をテーマに鴻上氏が評論家の佐藤直樹氏と対談したのは、コロナ禍が日本を覆い始めた頃のことであった(共著『同調圧力』所収)。その副題は『日本社会はなぜ息苦しいのか』。
同調圧力それ自体は、世界のどこの国にでもある。ただし日本の場合、その「圧」が極めて強い。
コロナ禍において、強権的な国家の指導者が強硬な手段で感染を抑え込み、民主的な国家でもロックダウン(都市封鎖)など強制力のある対策が実行される中で、この国の為政者は「自粛」の「要請」をすれば事足りた。あとは国民自らが"自粛警察"となって、「空気」を読まず「世間」の掟を破るものを取り締まってくれるからだ。

息苦しさを覚えるほどの同調圧力に、私たちはどのように対処すべきなのか。

ひとつは、強力な「世間」を逃れて「社会」に生きることだ。
「社会」は「多様性」を根本原理とする。「社会」に生きる限り、私は同調を強要されない。一方、私も、他の人に同調を強要できない。そして誰も私を無条件に護ってはくれない。
そんな「社会」を少しでも居心地のよい場所にするにはどうしたらいいか。それには、「社会」の構成者である異質な他者ときちんと対話すること、そしてそのためのスキルを磨くことだ。

「エンパシー(empathy」は、鴻上氏が、英国在住ライターのブレイディみかこ氏との対談の中で理解を深めた言葉である(共著『何とかならない時代の幸福論』所収)。「シンパシー(sympathy」と似ているが、違う。
「シンパシー」は、他人に同情する気持ち。
「エンパシー」は、他人の気持ちを想像できる能力。
「かわいそう」とか「よかったね」という言葉はシンパシーの表明。それは「世間」の中にあって響く、同調性を強める言葉である。
一方、エンパシーから発する言葉は「どうしてそんなことをしたのか」「自分ならどうするだろう」といったものになる。立場も価値観も異なる他者の心情に思いを馳せる力は、無数の他者との共同体である「社会」をよりよく生きるために必須の能力とも言える。

エンパシーを育てる手法のひとつにロールプレイがある。誰かの役割になりきって、その思考や心情を擬似体験すること。台本はなくてもいい。他者になりきるのが難しければ、自分は自分のままで、他者の役割を周囲の誰かに演じてもらってもいい。
刑務所での実践では、それまで被害者の心情を思いやれなかった受刑者が、「どうして私を殺したの?」という被害者役の受刑者仲間のセリフに心を動かされ、真に悔恨し始めた例がある。
理解できない相手の心情に立って相手を理解しようとすることは、同調圧力をかけてくる側の人間との、困難だが必要な対話の回路を開くことにもつながっていく。彼らは、私たち自身でもあるのだから。

生きることは演じること。演じることは生きること。
この息苦しい日本で、不安に覆われた世界で、「生きる」ことを少しでも取り戻すために、「演じる」ことから学べるものは多い。

まずは、あなたの目の前に広がる、なにもない空間に目を向けよう。そこを歩いて横切ろうとしている誰かに声をかけてみよう。どんな言葉でもいい、あなたがそこにいて、相手を見つめていることを伝えよう。そして、同じ舞台に上がろうとしていることを伝えよう。
どんなに上手な一人芝居も、見知らぬ二人がぎこちなく演じる芝居には決してかなわない。
理由は単純。一人では決してできないことも、二人ならできるから。どうしても掛ける言葉が見つからなければ、次のセリフを口にしてみよう。もとの戯曲では物語はここで終わるが、あなたの物語はここから始まる。

「おや、そこにいるね。さあ、握手をしよう」
――鴻上尚史『天使は瞳を閉じて』より

(白澤健志)