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宿題や定期試験をやめたら生徒が輝き始めた 工藤勇一先生

工藤勇一万雷の拍手の鳴り止まぬ中、ステージ下に駆け寄る受講者たち。見る見るうちに何十人もの列ができる。降壇後の講師にこんなにも多くの人が群がる様子を見たのは初めてだ。
気持ちは痛いほどわかる。感動が抑えきれなかったのだろう。この先生なら、学校を希望に満ちた場所に変えてくれるに違いない、と。

教育関係者なのか、子を持つ親なのか、今夜の講演を聞きに集まった人々は、みんな学校教育への止みがたい問題意識を抱えているに違いない。
かくいう私もその「親」のひとりだ。
今やメディアの寵児となった工藤勇一先生が校長を務める千代田区立麹町中学校。我が家はその学区内にあり、本来ならば我が子は麹町中学校に通っていたはずだった。

かつては「番町小・麹町中・日比谷高・東大」がピカピカのエリートコースと称された時代もあったが、我が子が就学年齢を迎えた頃には、公立校の評判は決して芳しいものではなくなっていた。そこで我が家は学区外の私立学校を選んだ。
やがてその子が中学に上がった2014年、工藤先生も麹町中学校に校長として赴任する。
まったく残念な話だ。あと1年でも遅く生まれていれば、我が子は、着任早々の校長が次々と巻き起こす改革旋風で脚光を浴びる麹町中学校に嬉々として入学し、幸せな工藤チルドレンのひとりになれていただろうに!

手段が目的化してしまっている

世の中には、大真面目に考えてやっているのに、なぜか本末転倒になってしまうことがよくある。

  • プレミアム・フライデーに早く帰るために、木曜まで連日残業する。
  • 営業に使う提案資料作成のため、何日間も営業に出ずデスクにかじりつく。
  • リフレッシュしたくて出かけた旅行で、予定を詰め込み過ぎて疲労困憊する。

こうした滑稽な本末転倒の"宝庫"、それが学校だ。

学力アップのための宿題のはずが、それを一律に課すことによって、既に理解している生徒には無駄な時間を強い、分からない生徒には分からないまま適当に埋めて出す愚を強いる。宿題をやらせることが目的化してしまっているのだ。

道徳や総合学習の時間は、生きる力を養うためにあるはず。なのに誰も読まない作文や壁新聞、心にもない"私の目標"を書かせることが目的化してしまっている。

ノートを取るのは生徒自身が授業の復習をするためのはずなのに、先生に点検・採点されるからという理由で、授業も聞かずに一心不乱に黒板を写している生徒たち。

体育や音楽や美術、これは学校教育さえなければ、みんな大好きだったはず。それを厳しく採点して順位をつけるからみんな嫌いになってしまう。

「服装や頭髪の乱れは心の乱れ」というスローガンのもとに行う服装検査。「意味がわからない。何の因果関係もない。いったい何のためにこんな無駄なことをしているのか」と工藤校長は嘆く。

「どれもこれも手段が目的化している。最上位目標がブレてしまっているんです」
工藤校長は講演中、このフレーズを何度も口にした。

ジョブズやスピルバーグをつぶす教育

学校が重要視する「礼儀、忍耐、協力」。これらは組織の歯車として黙々と働く人材を育成するには重要な要素だったのかもしれない。しかし時代は変わった。無駄なことに対して「こんなの必要ないじゃん」と意見の言える人材が必要だ。なのに教育現場では真逆のことをしている。

スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツなど、発達に特性のあるクリエイターが最も苦手とするのが、礼儀や忍耐や協力だろう。ノートをきれいに取れない子はダメ? ならばディスレクシア(識字障害)を持つスティーブン・スピルバーグやトム・クルーズはダメな人間なのか?

今の世の中に必要なのは、自分の力で転職や起業をしたり、新しい世界や価値観を創り出せたりする人材だ。であれば、学校にとっての最上位目標は、「自律的・主体的に行動できる生徒」を育成することであるはず。
なのに多くの学校は「きめ細かな教育」の名のもと、毎日たくさんの宿題を出したり、ノートをチェックしたり、校則でがんじがらめにしている。そうやって手をかければかけるほど、生徒は自分で考えることをやめてしまう。自律を失っていくのだ。そして自律を失った子は、何かうまくいかないことがあると誰かのせいにして恨み、手のかけ方が悪いと文句を言うようになる。

あらゆるサービスが過剰になった現代の日本では、些細なことでクレームをつけるモンスター○○が問題になっている。その原因を作っているのは学校だ、というのが工藤校長の見立てだ。「学習の仕方は人それぞれであるべき。ひとつの方法を全員に強制するのは、手段が目的化しているから。不毛な教育によって日本中が不幸になるスパイラルが生み出されている。日本の労働生産性が低いのも当然だ」と。

定期試験も宿題もクラス担任も廃止

2014年に教育委員会からの異動で10年ぶりに学校現場に戻った工藤校長は、着任するや否や、おかしいと思ったことを次々と廃止し、やるべきだと思ったことをどんどんと導入していった。

中でも特に世間の度肝を抜いたのは「定期試験、宿題、クラス担任、服装・頭髪指導の廃止」だ。
定期試験と宿題を廃止した代わりに、教科ごとの頻繁な単元テストや、年5回の実力テスト、テストへの再挑戦制度を始めた。これにより生徒たちはわからない所を周りに聞いたりして自主的に勉強するようになった。

クラスに固定した担任制を廃止した代わりに、病院のチーム医療をイメージした「チーム教育」による全員担任制に変えた。これにより教員間でクラス運営を競う必要もなくなり、生徒優先という目的が明確となって、全教員が本当の教育者となった。
服装・頭髪指導は廃止し、生徒会主催の私服登校期間を設けたり、PTA主催の制服リニューアルコンペを実施したりした。

いっぽう、新たに導入したのは「AIによる数学指導、クラブチームやプロに委託する部活動、企業やコンサルや大学等との連携による"社会に開かれた問題解決型カリキュラム"、生徒による購買経営や行事運営」などだ。

例えば3年次の修学旅行は「ツアー企画取材旅行」に変更。大手旅行代理店に向けて自分たちで企画した特色あるツアーを提案するという趣向で、その取材のために旅行に行き、足で集めた情報と自分たちで撮った写真とでパンフレットを制作する。このパンフレット編集ではプロのレクチャーを受ける。こうしてできあがった企画をプレゼンする場には、旅行代理店だけでなく下級生や保護者も併せて招く。お仕着せの修学旅行ではなく、生徒たちが自律的に考え、企画し、伝える力を養い、社会で通用するスキルを学ぶための機会として活用するのだ。

2年次のスキー合宿も廃止した。代わりに行われる「スキルアップ宿泊」ではビジネス研修さながらに、コンサルから「ブレーンストーミング」や「KJ法」を学ぶ。この合宿で、感情をコントロールする方法や問題を解決するスキルを身に付ける。

体育祭や文化祭についても、それまで行われてきた伝統的なプログラムはゼロクリアとし、完全に生徒たちだけで企画運営する形に変えた。校長から与えられるミッションはたったひとつ。体育祭は「運動能力に関わらず全員が楽しめること」、文化祭は「観客の皆さんを楽しませること」だけだ。いずれも中学生だけで作り上げたというのが信じがたいような、本物のイベントに様変わりした。

最上位目標は「自律した子を育てる」

かつての日本が明治維新による文明開化と殖産興業を成し遂げられた理由は、国民の基礎学力の高さにあったという話は有名だ。地方の農民に至るまで「読み・書き・そろばん」ができた。識字率70%というのは同時代の先進諸国と比べると驚異的な高水準だったという。

それを実現したのが寺子屋だ。江戸末期には全国に2万軒もあったといい、子供の就学率は70~80%に及んだという。だが意外に知られていないのは、寺子屋での学び方が「生徒同士の学び合い」だったということ。教師による一斉授業ではなかったのだ。義務教育制度もなかった江戸時代、国中の子供たちがこぞって寺子屋に集まり、互いに「読み・書き・そろばん」を教え合い、学び合うことに喜びを見いだしていた。

そんな寺子屋がなくなって約150年。「自律的に行動できる生徒を育成する」という最上位目標から一度たりともブレることなく工藤校長が推し進めてきた改革は、学びを再び子供たち自身の手に返すことに成功した。

産業も社会も人々の価値観も、根底から変わりつつある今。工藤校長の改革が日本の学校教育を立て直すことができれば、明治維新という大改革を国民の知の底力で瞬く間に成し遂げたように、世界に後れを取ってしまった令和の日本にも、再びスポットライトを浴びる日が訪れるかもしれない。

(三代貴子)