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茶道の美 千 宗屋さん

千宗屋今回の講師は、武者小路千家 家元後嗣の千宗屋さん。表千家・裏千家と並ぶ「三千家」のひとつである武者小路千家の次の家元だ。現在43歳というのだから、想像していたよりもずっとお若い。

私自身は茶道を習い始めて7年になる。7年というのはまだまだ初心者の部類で、広くて深い茶道の世界の入り口にやっと立てたかな、というところ。奥行きの広がりが見え始め、わかることよりもわからないことのほうが圧倒的に多いことがよくわかり、死ぬまで茶道を学んだところでどこまでたどり着けるのやらと、ふと思ったりもする。それでも私にとって、月に2回お茶を習う時間と空間は何にも代えがたい貴重なものだ。

お茶の稽古には少し不思議なところがあって、理屈をあまり教えてもらえない。例えば、茶碗は畳のへりから○センチのところに置く、とは教えられても、なぜそこに置くのかは説明されない。茶杓(抹茶をすくって茶碗に入れる道具)を持つ時には先端を少し下げるようにと教わるけれど、その理由はやはり説明されない。理屈や理由を教えてもらえればその分納得して動けそうなものなのだが、毎回教えてもらうのは、道具の扱い方や、扱う順番、それぞれの置く場所、手や足の所作など。人はこれを「型」と呼ぶのだろうが、なぜその型かという解説はほとんどない。
私の先生がたまたまそういう教え方なのかと思っていたが、近頃映画化されて話題になった『日日是好日』(森下典子著)にも同様のことが書かれていたので、どこのお稽古場でも似たようなものではないかと思う。
 
引き換え今回の講演は茶の湯の「解説」が比較的多く、私のような茶道を習う者からすると「なるほど、あれはそういうことだったのか」と得心するお話しが多かった。恐らく宗屋先生は聴衆の多くが茶道を学んでいない方々だろうと想定されて、詳しく説明されたのだろう。私にとっては、日頃の稽古ではなかなか聞くことのできない理屈の部分を教えていただくことのできる、貴重な機会となった。

講演では「お茶事」について詳しくお話をされた。お茶事とは正式な茶会のことで、スタートから終わりまでに3~4時間を要する。世の中で一般的に開かれる「お茶会」とはこのお茶事の最後の部分だけを切り取ったもので、私の茶道の先生はいつも「あれはデモンストレーションなのよ」と笑う。

お茶事は待合に入ることから始まる。それから茶室に入って炭の用意(炭点前)を拝見し、懐石料理やお酒をゆっくりといただき、その後にお菓子をいただく。もう一度外に出てからひと休みし、主からの合図をもとに一人ずつ茶室に入る。そして、濃茶をいただき、続いて薄茶もいただく、というところまでが一連の流れだ。
このお茶事の一連のプロセスのすべてが、一杯のお茶をおいしくいただくためにある。お茶事の形を完成させたのが、かの千利休という訳だ。

このお茶事の時間の流れについて、宗屋先生は「緊張」と「緩和」の時間が交互に訪れると解説された。知らない者どうしが集い、お茶室に入るまでが緊張の場面。火(炭)を囲んで主と客とが一体となるところから徐々に緊張が溶け始め、酒や料理をいただく場面ではかなりリラックスした雰囲気となる。これが緩和の時間。そこから一度外に出て、再び茶室に入ってくる時間では、もう一度場の空気がキリリと引き締まる。茶が点つまでは主客とも無言の、緊張の時間だ。主が茶を出し、客が一口飲んで初めて言葉が交わされて、そこから場は再び緩和へと向かう。
なるほどお茶事の時間の流れの中では、「空気感」までもが設計されていたのだなと、私は感心した。茶道の世界には、こんな風にまだまだ気づいていない仕掛けが山ほどある。

これはお茶を習った者ならば誰もが気づくことだろうが、茶道では五感のすべてが刺激される。掛け軸や花などのしつらえ、茶碗などの道具、料理や菓子を眺める「視覚」。お料理や菓子、お茶を味わう「味覚」。「聴覚」という点では、お湯を注ぎ入れるときの「ゴボゴボ」という音が水を注ぐときには「サラサラ」と乾いた音になるのは楽しい変化だし、着物の衣擦れや足袋が畳を擦る音にそっと耳を澄ませる時間も心落ち着くひとときだ。また、茶室の中では炭や香の匂いを感じる「嗅覚」も大切な要素。ちなみに先日、私が稽古場に行ったら畳が新しく張り替えられていて、その匂いは実に清々しいものだった。そして、茶碗を両手でいただくときの温度や肌触り、菓子を歯で噛み切るときの食感などを感じるのは「触覚」だ。

五感のすべてを研ぎ澄ますことで、一杯のお茶がますます美味しく感じられる。それが茶道だということは感じていた。でも、緊張と緩和という空気感までもデザインされていたことは意識していなかった。そうか、それらもすべて設計されているのだなと思ったら、私の茶道の世界がまた少し広がった。

茶道のすべてを理解することは不可能だ。全容を理解するには、お茶だけでなく、花の知識、器の知識、その他計り知れないほどの知識が必要となる。ただしそれらをすべて学ばなければいけないということもない。先生が理由や理屈を教えてくれないということは、そこに自分なりの発見をしたり意味を見出したりすることもまた許されているということでもあり、そうであれば無限の解釈が存在するということも言えるのかもしれない。つまりは、唯一存在する正解を理解するのが茶道なのではなく、定められた型に対し、どれだけの気づきを得、どれだけの想像力を働かせるかは自由ということ。「型」は一つ。解釈は無限。貪欲に知識を増やすのも自由、増やさずに感じるに任せるのも自由、ということか。

これも茶道を習った方なら同じように感じられると思うのだが、「型」というのは極めて合理的にできている。流派によってお点前に違いはあるだろうが、恐らく合理的という点においてはどこも共通だろうと思う。
どういうことかというと、動きに無駄がないのだ。手の動きは道具を大切に扱いながらも、基本的には最短距離をいくようにできている。道具を置く位置も、客からよく見える位置であるのと同時に、茶を点てる側からしても扱いやすくスムーズな導線を描くようにできている。

私に「美」を語る資格があるかどうかは甚だ疑問ではあるけれど、今回の講演タイトルである「茶の湯のかたちに見る、日本の美と心」というタイトルと関連づけて考えるならば、お茶の世界にある美しさは「究極のシンプルさ」にあると私は思う。足し算ではなく、引き算の美しさ。一杯のお茶を味わうために必要なものは何かという視点から、不要な動きや装飾を一つ一つ削り、削って削ってそれでも残さざるを得なかったものだけで出来上がっている世界、とでも言えようか。そうして削っていった先に生まれた余白を埋めるのは、それぞれの人間の想像力であり、心だということ。
今回の千宗屋先生のお話しで私が感じたのはそういうことだった。

千宗屋先生のお話しは、最後に「利休七か条」を紹介することで閉じられた。

茶は服のよきように
炭は湯の沸くように
夏は涼しく冬は暖かに
花は野にあるように
刻限は早めに
降らずとも雨の用意
相客に心せよ

裏千家ホームページより

この教えにもまたシンプルな美しさがあり、大きな余白がある。現代にも生きるこの教えを胸に、余白には自分なりの解釈や想像力を加えながら、自分だけのものにしたいと感じた。

松田慶子