« 人工生命研究からみる「わかり方」の未来 池上高志先生 | メイン | 銀座のママの圧倒的な人間力 白坂亜紀さん »

ビジョンと実現 辻 孝さん

ツジphoto_instructor_940.jpg「日本人には臓器移植よりも再生医療の方が合っていると思う」との話をかつて聞いた。10年以上前の話だ。それは日本人の思想や宗教観を基にした話だったように記憶しているが現在の再生医療はどのようなものなのか。身近な歯や毛髪をトピックとした辻孝氏の今回の講演を楽しみにしていた。しかし一方で不安も大いにあった。医療の専門的な話についていけるのかという、恐らくは会場の多くが持っていたであろう問題だ。この点について専門的な箇所もあったがスライドを含め辻氏は素人にもわかりやすく話されたと思う。とはいえ完全に門外漢の私がここで本講演について医療の観点から取り上げるのは読者にとっても恐ろしく退屈な、そして的外れで講演者の怒りを招くレビューになりかねない。したがってここでは違う面から辻氏の講演を論じたい。

それでは何を取り上げるかというと辻氏の姿勢や時代が求めてきているものの変化だ。講演初めの略歴紹介で文字の略歴には書かれないことも話してくれた。実社会での経験を積みたく修士課程修了後は製薬会社に就職したが、自身に哲学がないことに気づき博士課程に入り直したこと、その後就職するも「人生浪人」をした2年間のこと等、華麗な文字の経歴からは読み取れない「行間の経歴」だ。企業や大学、研究所での研究活動もしながら起業もして研究成果を実社会に広げる活動もされている。医療以前にこれまでの人生をそのまま講演内容にしてもいいくらいだ。講演を聞きに来ている知的意欲の高い人達もこの行間を含めた経歴を聴いて大いに思うところがあったようで、講演後には「モチベーションについて」、「実現するにあたっての阻害要因は何か」という、再生医療と同じくらい辻氏の来し方とそのありようにも質問が熱心に寄せられていた。

モチベーションについて辻氏は興味深い答えをしている。自分自身が考えているのは「天寿の全うであり、不老不死ではない。今をより良くしていくこと。そのための手段として生物、医学の研究をしている。」今の時代は未病、ヘルスケアといった豊かに生きることに焦点が当たっている(あるいは移行している)と言った。「自分に哲学がないことに気づき大学院に入り直し」て、講演中何度もQOLを口にした辻氏の事業には恐らくいつの日かメンタルヘルスやマインドフルネスも含まれるような気がする。心と体は密接に結びついているがため、身体のみでウェルネスは完成しないからだ。「今をより良くしていく」ためにはどこかの時点で幸福論や生き方論が関わってくるものであるし、医療の行き着く先(または伴走者)は死生観や生命論である。

時代が求めているものの変化について辻氏は、これからは感覚や感情的に訴える宣伝ではなく、消費者がデータ的なものやエビデンスを以てモノを買う時代にしたいと考えている。そのための手段の一つが毛髪で、健康診断時に求められる、あの前日夜からの飲食禁止もなく、上手くいけば1年以上前のデータですら採取できる。幸いにもヘアケアから法医学でも毛髪の分野では方法が既に確立されており、現在1万人規模のデータベースを目指しているとのことだ。こうしたデータ的なもの(それはつまり、より個々に適した製品とその結果情報でもある)を以て消費者が購入するということは、つまりテーラーメイド型の製品や市場になる可能性が高いということだろうか。そうはいうものの一方では市場自体については「二次元市場で陣取りゲームをしているようでは競争に勝てない」と言われ、「標準化」「フレームを作っていく(立場になっていくこと)が大事」と続けた。新市場を創造、つまりゲーム・チェンジャー(game changer)を目指しつつ、標準化できるように規模や方法、法を固めていくということなのだろうか。大変な作業だろう。さらには質問であったように情報管理をどうするかという問題もある。素人の私ですらこれが巨大なビジネスになることは想像に難くない。毛髪診断システムを例にとったスライドにはコンソーシアム及びそのメンバー企業、情報利用企業による製品開発提供、さらにそれにより国民の生活がどのように変わるのかの図解がなされていた。既に保険会社からのアプローチがある。その先にはQOL先進医療センター、高度健康診断センター、先端科学アーケード、QOL先端医療・健康センターの連携図があり、とてつもなく大きなビジョンが描かれている。前述の情報管理のように問題も山積みの途方もなく大きなビジョンだ。

そのビジョンを実現するため辻氏が一歩一歩大変な努力をされているのは、講演が大変印象的でわかりやすいことからも容易に想像がつく。プレゼンテーション手法についてもかなり研究されたはずで、そうでなければ賛同や資金は集まらないだろう。講演最後のスライド番号は133。実現のための努力の痕がよく伝わってきた。何事もビジョンと努力である。

太田美行