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「高野山-場の記憶-」飛鷹全法さん

10/3photo_instructor_959.jpg現代において何かを神聖視する考え方は限られた場合であることが多い。うっかりすると「アブナイ人」とも言われかねない。それでも日本人の中には自然や宗教施設などを神聖視する考え方が根付いている。那智の滝でロッククライミングが行われた「事件」が数年前に報道された時に驚いた人は多いと思う。だから高野山を神聖な場所として考えることはできるが、それでも今回の演題「高野山という思想」を初めて見た時には高野山を思想としてとらえるということがよくわからず戸惑いを覚えた。何か奇を衒った表現のようにも感じた・・・いや、これも飛鷹全法氏の狙いなのか。大学院在学中のITベンチャー立ち上げ、その後は海外で伝統音楽の舞台制作や経産省の海外富裕層誘客事業(ラグジュアリートラベル)の検討委員を勤めるなどの略歴を見て、今風の派手な人なのかと少し構えてしまった。

そうした先入観を若干持ちつつ講演を聞き始めたが、同氏の講演は学者のそれを聴いているかのようだった。落ち着いた話し方、高野山とそれを開いた空海について淡々と紹介する。一方、さすがIT企業を立ち上げた人だと思ったのがパワーポイントで、1枚目の霧の中に現れる高野山の写真は大変美しく印象的、途中で映写されたキーワードは、学者の講演でしばしば辟易とさせられるような長い文章ではなく、短くまとめられ効果的に使用されている。

空海(弘法大師)は774年に生まれた。書道に優れたことは「弘法筆を選ばず」でも知られているが、その他にも美術、土木技術にも優れていた。「それだけではない」と飛鷹氏は言う。空海は満濃池灌漑を作るにあたり最新の土木技術を中国から持ち込んだだけでなく、建設に参加した人々が「空海様のためなら」と喜んで作業に従事したと言われるように、それだけ人的魅力のある人物であった。湯川秀樹は空海のことを『不思議な人物』というエッセイの中で「最も万能な天才」「独自の思想体系を構築した最初の日本人」と絶賛しているそうだ。その空海は異例の速さで勅許を得て高野山を開く。

ここで飛鷹氏は面白いことを言った。
「空海以前に『高野山』は存在しない。空海が開いたからこそ『高野山』が誕生した。」
元々、高野山のある所は高野(たかの)と呼ばれる「高い所にある野(盆地のような所)」という意味だそうだ。初め何のことか分からなかった。その内にそれが(恐らく神聖な)場としての「高野山」が作られていったことを意味しているのだと気づいた。

高野山には神道の社がある。これは仏教と元々の地元の神である狩場明神の、神仏習合の一つだ。飛鷹氏はこれを「神仏習合=カミとホトケの共存」と表現する。今の私達には「習合」よりも「共存」の方がわかりやすい。それから高野山内に存在する各院について解説をされた。サルトルが訪れた時にもらした感想、敵同士であった信長と光秀の、さらには石田三成の墓もあること、中国で作られた景教の碑のレプリカが西洋人によって明治期に建てられたこと等々。この解説はやや「こういうものがあります」「こういうことがありました」的な印象を受けなくもなかったが抽象論でなく、具体的な事例を挙げて高野山が多様性を受け入れているのを紹介したかったのだと思う。実際、飛鷹氏は多様性(diversity)と包摂(inclusion)について語り、自分たち自身が高野山を再発見するのが大事だと思っていると話した。

以前仏教では「ありのまま」を受け入れると聞いたことがあるが、それはこの世が多様であることからして「ありのまま」はつまり多様性を受け入れることそのものであり、今の時代それは大変重要な意味をもつ。他にも紹介された(今でも生きているとされる)空海に食事を供える「生身供(しょうじんく)」、「雑事登(ぞうじのぼり)」は「大きな自然の営みの中にいる我々が自然から受けた恵みを自然に返すというものの一つともいえる」と、このように現代に必要な考えが高野山には存在すると語る。

後半では「空海思想の現代的展開」として、高野山が製造に参加している日本酒がフランスの高級ホテルの晩餐会で使用されたことや声明がアメリカのイベントで披露された話などが紹介された。そして建築家の田根剛氏が大事にしている「場の記憶」という概念を引きながら「伝統と今が出会う」ことの意義について触れつつ講演を終えた。氏の話を伺い、私なりの解釈を加えるならば「場の記憶」とは場そのものだけでなく、そこにいた人々、いる人々により培われてきたものごとや考え、営み、その地の自然への畏怖や感謝の念も含めてのことだろう。空海が開いた地ではあるけれど、空海一人のみならず多くの人々の思いや愛によって「高野山」が作られてきたことが伝わってきた。そしてそれを伝える飛鷹氏もまた「高野山」を作っている。

太田美行