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カタストロフィーと再生の物語 岡本哲志さん

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幾度となく灰燼に帰した東京

 夜空に向けた切なげな咆哮に続いて、激しく吐き出される火炎放射。痛切な悲壮感があふれる合唱曲に乗せ、見る見るうちに火の海と化す東京。あらがう術もない焔の蹂躙。街を覆いつくす絶望感。2016年、夏。シン・ゴジラが首都を焼き尽くしていた...。

 映画館の巨大スクリーンでその火災シーンに圧倒されながら、いつしか私は既視感をおぼえていた。
 いや、もちろん直接この目で見たというわけではないが、東京大空襲(昭和20年・1945)や関東大震災(大正12年・1923)を描いた記録や小説、映画やドラマで幾度となく目にしてきた、焼き尽くされる東京の姿。映画の虚構が史実と重なって見える。

 小説や映画にはなっていないものの、それ以前にも東京・江戸は、幾度となく大規模な火災に見舞われてきた。銀座大火(明治5年・1872)や、 丙寅の大火(文化3年・1806)、目黒行人坂の大火(明和9年・1772)、明暦の大火(明暦3年・1657)などがその代表的なものだが、江戸では267年間(1601~1867)の間に1798回の火事があり、そのうちの49回が大火だったという。

 ちなみに同じ期間での大火は、京都では9回、大坂では5回、金沢では3回だったというから、江戸がいかに「火災都市」であったかが分かる。頻発する大火が大都市を繰り返し焼き払ったという史実は、世界でも類例がないとされる。

 こうした大火をミクロの視点で見れば、そこには焼死者の悲劇や被災者の困窮などがあったに違いない。しかしマクロの視点で見ると、江戸~東京は、大火のたびに大きく進化し続けてきたとも言える。
 法政大学デザイン工学部建築学科で長く教授を務めた岡本哲志氏(工学博士)の講演で最も印象に残ったのは、こうした大火によるカタストロフィーとそこからの再生の物語だ。
 

大火のたびに街は進化した

 例えば「振り袖火事」の名で知られる明暦の大火では、市中だけでなく江戸城の天守閣までもが焼け落ちたことにより、江戸城の防火対策が真剣に検討された。その結果、江戸城内にあった御三家の上屋敷を城外に移転し、その跡地が江戸城の火除け地(避難場所)として「吹上御殿」となる。そこには延焼を避けるために広い芝の庭が造られるとともに、玉川上水の水をふんだんに引き込んだ大きな池が作られた。
 同時に、濠の外側一帯の武家地や寺社地を立ち退かせて広大な火除け地とするとともに、さらに外側の神田川沿いには延焼を防ぐ土手が設けられた。
(ちなみに火除け地の「吹上」は、現在に至るまでの400年近く、度重なる大火にも一度も燃えたことがない。シン・ゴジラの火炎放射にすら焼かれることはなかった)

 明治5年の銀座大火では、丸ノ内、銀座、築地を含む広い一帯が火の海となり、江戸の町並みを形成していた多くの建物が焼失した。それを受けて、明治新政府は東京の不燃化を計画。銀座は、ファサードに列柱を配した西欧風の街並み"銀座煉瓦街"に造り替えられた。
 外国人居留地のあった築地に程近いこともあり、銀座には西欧からの情報も入りやすく、情報産業である新聞社や輸入品を扱う店など、当時の最先端の商業が集積していった。

 一方、丸ノ内の一帯は後に三菱に払い下げられた。そこには、三菱が顧問に雇い入れた英国人建築家・コンドルによって赤煉瓦造りのオフィス街が建設され、街区がちょうど100メートル(1丁)だったことから、「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれていたという。
 銀座や丸ノ内が近代文明のメッカとして賑わい始めていた大正12年、東京は関東大震災によってまたしても壊滅状態となる。銀座や丸ノ内の煉瓦建築はことごとく亀裂や崩壊をきたし、続いて起こった大火災により、木造部分を焼失して煉瓦の外壁だけが焼け残る状態に。こうして煉瓦街は姿を消した。
 この震災後には「帝都復興計画」により、東京はまたも大改造されていくのである。

 次の節目は昭和20年の東京大空襲だった。江戸の街に物流の動脈として掘り巡らされた運河である"掘割"は、江戸が終わって明治、大正、昭和になってもそのまま残され、東京を「水の都」と呼ばしめていた。しかしその姿は終戦とともに大きく変わる。東京大空襲によって大量に発生した瓦礫の処理のため、既に運河としての役目を終えていた都心の掘割を瓦礫で埋め立て、そこにできた土地を借地にして賃料を学校の維持費にあてたり、公共用地を確保したりすることになったのだ。
 その後も東京は変わり続け、高度成長期にはさらに広い範囲の掘割を埋め立てた上に首都高を張り巡らすなどして、現在の東京の風景ができあがった。

百年先を見る銀座の老舗店主

 昨年(2017)、松坂屋銀座店の跡地を含めた一帯を再開発した「GINZA SIX」が、銀座エリア最大の商業施設として鳴り物入りでオープンした。
 銀座では1998年、建物の高さを56mに制限する地区計画「銀座ルール」が導入された。しかし「GINZA SIX」の計画時点では、ルールの例外として高さ170mの超高層プランが示されたという。これを退けたのが、銀座通連合会の理事長・遠藤彬氏だった。「100年続いてきた銀座通連合会を預かる身として、100年先まで責任の持てないような建物は要らない」と断言されたという。その結果、「GINZA SIX」はルール通り高さ56mで建設された。
 銀座に生きる人の発想の壮大さには驚く。しかし100年どころか、銀座の街区には今でも江戸の町人地の町割単位のサイズがそのまま残っているという。徳川幕府が江戸に施したグランドデザインは400年以上も生き残っているのだ。

 講演後の質疑応答では、日本橋地区に住んでいるという人が挙手し、「日本橋の上を高速道路が覆っている風景は悲しい。高速道路の地下化についてはどう思われますか」と質問した。
 岡本氏はしばらく宙を見つめたあと、ゆっくりと口を開いた。「個人的には、地下化には反対です。というより、そもそもあの高速があそこにないとダメなのか、落ち着いて検討するべき時期が来ている。延々と残る構造物は安易に造るべきではないんです」
 造るべきものと、造るべきでないもの。2020年に向けて新たな構造物がいくつも造られようとしている今こそ、一度立ち止まってしっかり考えるべきなのだろう。400年におよぶ東京の都市形成史を40年以上にわたって研究してきた岡本氏は、銀座の商店主とも相通ずる視線で、東京の未来を見つめている。

 かつて「一丁倫敦」と呼ばれた場所に聳え、映画の中ではシン・ゴジラの放つ光線で破壊されていた丸ビルの講演会場を後にしつつ、岡本氏の言葉を何度も胸の中で反芻した。

(三代 貴子)

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