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どこまでが私? 渡邊克巳先生

photo_instructor_901.jpg怖い話を聞いてしまったな。
これが、渡邊克巳先生のお話をうかがった私の率直な感想だ。

私が見ているものは、そう見えていると思い込んでいるだけのものかもしれない。
私が選んだと思っているものは、実は誰かに意図的に選ばされたものかもしれない。
私のこのいい気分は、誰かが操作をして作り出したものかもしれない。
自らの意思で主体的に動いているつもりが、実は他の誰かの真似をしているだけかもしれない・・・

渡邊先生のお話は、こんな「かもしれない」に満ちていて、恐ろしくなったのだった。

先に言い訳がましいことを書いてしまうが、今回の講演はかなり盛り沢山な内容だった。
配られたレジュメはパワーポイントのスライド84枚分。スライドをスキップしながら話すのかと思いきや、スキップどころか配られないスライドまでもがスクリーンには映し出され(つまりもっと多かった)、そのほとんどを使いながら先生は話された。つまり渡邊先生は、1時間以上も高速でしゃべりまくられた。
心理学の知識のない私には、あれ?よくわかんないな、そこもっと聞きたいな、というポイントがありまくりの1時間。早く通過されてしまい、頭の中で反芻する余裕がないままにどんどん先に進んでいき、理解できないことが多すぎた1時間。
そんな講座だった。

そんな私の頭にも強く印象に残った話がいくつかあった。
まずは感情についての話だ。

私たちは悲しいから泣くのか?それとも、泣くから悲しいのか?
普通に考えれば、そんなの前者に決まっているだろうと思うのだが、渡邊先生によるとどうやら答えは後者。私たちはまず泣いて、その生理的な反応を「悲しい」と脳が理解するというのだ。

その根拠となった実験が面白い。
渡邊先生達は、音声を「悲しそう」、あるいは「嬉しそう」に変換できる「ボイスチェンジャー」のような装置を開発された。この装置を使って行われた実験がこうだ。
まず、被験者に村上春樹の小説を朗読してもらい、その音声を録音する。次にその音源を、本人が気づかない程度に微妙に変化させて聞かせる。すると、「悲しそう」に変化させた音声を聞いた本人は気持ちが悲しくなり、「嬉しそう」に変化させた音声を聞いた場合は嬉しくなったというのだ。音声が変化したことには本人が気づかないにも関わらず、である。
このことにより、本人が意識しなくても、つまり本人の感情が動かなくても、外部からの操作で人間の感情をコントロールできるということが示されたわけだ。
「悲しい」とか「嬉しい」という感情が先にあるのではなく、外部からの刺激が人間の感情を動かす。このことが、悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだということを示唆する。
とまあ、確かそういう話だったと理解している。

先生はこれをうつ病やPTSDで苦しむ人々の治療に応用できるのではないかと説明された。確かに、うつ病の人に「明るい気持ちになって」と言うのは相当に無理があるが、本人も気づかないままに気持ちを上向きに持って行けるのなら、治療の効果は大いに期待できそうだ。気分が落ち込んだとき用に私自身も欲しいくらいである。そういった方面での開発は、一刻も早く進めていただきたい。

ただし、これは恐ろしい話だなとも思う。
例えば時の権力者が、メディアから流れる音に人々を怖がらせるような音声フィルターをかけたらどうなる?人々を怒らせるようなフィルターなら?そんなことが絶対にないと誰が言い切れる?例えどれだけメディアが多様化しても、例えば視聴率の高いテレビ番組一本の音声を変えただけで、結構な効果があるのでは?

そして、今現在の私自身の気分もまた、誰かに作られたものなのかもしれない、なんて疑いだすと気味が悪くなってくる。どこまでが自分の内側で、どこからが外側なのか、その境界が曖昧になるような感覚。私、大丈夫だろうか?
自分の感情がまずあって、そこから行動なり生理的な現象なりが生まれる、つまり「悲しいから泣く」ほうが、事実とは異なるとしてもなんとなくヘルシーだ。事実がそうでないというのなら、私たちは自分自身を信じられるだろうか。私たちは、何を信じれば良いのだろう?

「好み」についての話も面白かった。
私たちは「新しいもの」が好きであるのと同時に「懐かしいもの」も好きである。
この「新奇性」と「親近性」、人の好みという点において勝るのはどちらか?

実験結果からすると、人の顔は見れば見るほど好きになり、風景画は見れば見るほど嫌いになるそうだ。つまり、顔においては「親近性」が勝り、風景画は「新奇性」が勝るということになる。コンテンツによるのだ。これは、非常に興味深い。

テレビCMで同じタレントを使い続けながら、設定や背景を変えていくのはこの理屈である。親近性が勝る人物は変えず、新規性が勝る風景は変えていく。「新しいのに懐かしい」というのが、どうやら私たちの琴線に触れるようだ。

この話の結びに渡邊先生がさりげなくおっしゃった一言が私の脳みそをコツンと刺激した。
「『反対語』に縛られ過ぎないこと。それは、言葉に縛られているだけかもしれません」
確か先生はそうおっしゃった。

「新奇性」と「親近性」は同一軸上にない可能性がある。つまり、正反対の概念ではないかもしれない。共存できる価値観かもしれない、ということ。
私たちが、それは右と左だとか、上と下だとか、大と小だとか、あなたはあっちで自分はこっちだとか、そんな風に二項対立的に語っている物事は、実は正反対の事柄ではなく共存できる価値観かもしれない、組み合わせが可能なものかもしれない。
言葉に縛られ過ぎていないか?そんなものは取っ払って考えてみなさい。そう渡邊先生から言われた気がした。その二つは、同一軸上にはないかもしれませんよ、と。


渡邊先生の講座は他にも興味深い話が多かった。
「好き」と「欲しい」は同じではないとか、「意図」と「行動」では実は行動が先にあって後付けで意図が説明されるだとか、私たちは無意識のうちに相手に同調しているだとか。いずれの話も驚きはするものの、「でも、なんかわかる」という感覚も内側から湧いてきて、なんとも不思議な感覚で時が流れた。

そして、人間が、というか自分がよくわからなくなった。どこまでが自分の意思で、どこからが外部によるものなのか。どこまでが反応で、どこからが感情なのか。あるいは、どこまでが心の動きで、どこからが体の動きなのか。どこまでが個で、どこからが全体の意思なのか。どこまでが意識で、どこからが無意識なのか。
いや、これらは二項対立的なものではないのかもしれない...

この講座を聞いて何かを理解する必要はなく、モヤモヤとする気持ちになってもらえば良いです、というようなことを講座の冒頭に確か先生は言われたのだが、そういう意味で言えば私はまさに、先生の思惑どおりの反応をしたことになる。
私は、先生に意図的に動かされたということか?

できればもう一度、今回の3倍くらいの時間をかけて、渡邊先生のお話をじっくりうかがいたいものだ。

(松田慶子)

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