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浅田次郎氏に聴く、「読むこと 書くこと 生きること」

photo_instructor_899.jpgすべての始まりに「読むこと」があった。
当代きっての小説家である浅田次郎氏だが、幼年時代、育った家には、本が一冊もなかったという。渇望感から学級文庫の本を読み漁り、読書欲を紛らわせた。今では信じられないが、当時は家庭でも学校でも、読書がさほど奨励されていなかった。その中で浅田氏は、現代の子どもたちがゲームに興じるような感覚で、ただ純粋に本を面白いと感じ、背伸びしながら読みまくった。
学級文庫には全五十巻の偉人伝があった。いろんな人生があった。その中で特に伊能忠敬に惹かれた。齢五十を過ぎてから全国をただただ歩き、地図にまとめたその姿に、何かしら感じるものがあった。

「書くこと」で世に出たのは遅かった。
早熟な才能も数多いるこの業界で、小説家になったのは四十歳。焦りはあったが、人生経験の厚みがモノを言い、ネタには困らなかった。「早成も晩成も、全集の厚みはほぼ同じ」。焦りの中で見つけた真理だった。

読む、とはどういうことか。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

川端康成『雪国』。その冒頭を、浅田氏は、朗々たる声で諳んじた。

読むときは必ず声に出して読む。それに飽き足らず原稿用紙に書き写す。暫し味わう。
「雪国であった。」...であった、かあ...。
「夜の底が白くなった。」...なんだよ、これ...。
川端の良さは、センテンスの長短のリズム。黙読ではわからない。声を出して読むとわかる。だから自分の原稿も必ず声に出して読む。

語るは、騙る。
小説なんて、所詮、嘘話。人を殺してもいい。どんな恋に落ちてもいい。小説家は大嘘つき。嘘はつく。けど責任はとる。約束は守る。模倣は避ける。
ストーリーで嘘をつくために、言葉はできる限りその時代の、その地のものにする。その努力をしてはじめて、読者をその世界に引きずり込める。嘘話なのに、いや、だからこそ読み手はつい心を揺らし、心を許し、赦しを求める。

真に読み手の心に近づくには、決して近づこうとしてはいけない。由緒正しき次の三点を、ただただ心掛けて書けばよい。
美しく、わかりやすく、面白く。
泣かしてやろう、なんて下心を持って書いていても、読者は決して泣かせられない。ユーモアは不滅。古びない。古くなればなったで味が出る。人間は笑いたいのだ。

自分の作品はよく映像化される。しかし当人は、書いている間、映像を全く意識していない。想像の中でもスクリーンを見ながら書くような真似はしない。そうでなく、ただ、スクリーンの中の世界に自ら入り込んで書いている。

登場人物の造形もしない。ただ、その人が自分のそばにいるように感じながら、書く。
電車の中では本を読まず、目の前の人を観察している。どんな人か、どんな状況か、どんな心持ちか。想像力を最大限に飛躍させて、その人の見えない内面を覗き込む。そしていつかその人が、小説家の世界の中で生き生きと動き始める。

手書きへのこだわり。
ワープロだと文章をいくらでも積み重ねてしまう。危ない。日本語は、和歌や俳句に代表されるように、大きな世界を小さな処に閉じ込める言葉。
手書きなら、三行で書くことを何とか一行で書けないかと、自然と考える。
いつも右手に、一行で書け、と念じつつ書いている。

「読むこと」が「書くこと」に連なり、「書くこと」が「生きること」になる。
ならば、これ以上書けなくなってしまった人間は、どうすればよいのか。

「三島は本質的に小説家ではなかった。三島にはもう小説は書けなかった。三島の題材はすべて実際に起こったことの脚色。真面目な優等生にはそれしかなかった。嘘をつき続ける、という小説の世界に、彼が腰を落ち着ける場所はなかった。」

小説家の声が、再び会場にこだまする。
『天人五衰―豊饒の海』末尾の文。

この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。...

「三島由紀夫のこの絶筆は、大変悲しい。何もないところに彼は来てしまった。そしてあのような形で死なざるを得なかった。思想家ではなく、小説家として。」
そういって、遅れて現れた当年六十五の男は、小説家として敬愛する先人に言葉を手向け、当夜の語りをお開きにした。

読むこと、書くこと、生きること。読むこと、書くこと、生きること。
何度も舌の上で転がしながら、道々、その言葉の意味するところを考えた。

「読むこと」、「書くこと」、「生きること」。その関係は並列ではない。

まず「読むこと」。
黙読でなく、声を出して読む。途端に読み手は語り手になり、また同時に聞き手にもなる。

次に「書くこと」。
人は、文章の書き手である時、その文章の最初の読み手でもある。つまり「書く」という行為には、「読む」という行為が不可分に含まれている。

そして「生きること」。
小説家にとって「生きる」とは、書いた文章が誰かによって読まれることに他ならない。自らが構築した世界に読み手を招じ入れ、しばしその世界を生きてもらう。その時、小説家は、文字として書かれた自分自身を読まれている。

読みながら書く。書きながら聞く。聞きながら読む。
入れ子構造になったそれを繰り返しつつ、自分を読む。
文字というデジタルを、身体というアナログを通して、読む。
小説家の想像力が、人の心の最小公倍数を探り当て、倍音を含んだ琴線の響きを奏で上げる時、読み手は安心しきってその嘘に身を委ねる。

さて、嘘をつけない(私のような)愚直な輩は、ただでさえ息苦しさばかりが増していくこの時代、どう生きていけばよいのか。
せめて、人生にルビを振ってみる。
「地下鉄」と書かれた「メトロ」に乗る。「鉄道員」とあっても「ぽっぽや」と名乗る。
小声で義訓を呟きながら、揺られていくか、この先も。

(白澤健志)

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