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佐々木宏氏に聴く、いま、ドラえもんの目に映るもの

photo_instructor_898.jpg2016年8月21日、マラカナン・スタジアム。17日間に及んだリオデジャネイロ・オリンピックの閉会式は、次回開催地TOKYOによる8分間のプレゼンテーションで幕を下ろそうとしていた。クリエイティブ・スーパーバイザーを務める佐々木宏氏は、ここまでの道程を思い返していた。

リオは遠かった。東京からはちょうど地球の裏側。飛行機で来るだけで丸一日がかり。
予算もなかった。8万人規模の競技場に、送り込めたダンサーはわずか50人。時間もなかった。そもそも組織委員会が、このショーの企画を佐々木氏に依頼したのが、当日まで1年を優に切った前年の末のことだった。おそらくは、心当たりに悉く断られた挙句の、このタイミング。見渡す限り、逆境だった。

引き受けるにあたり、佐々木氏がひとつだけ提示した条件。それは椎名林檎さんを引き込むこと。才気溢れるミュージシャンであり、TOKYOをそしてJAPANをいかに世界に魅せていくかに強い意識を抱いていた36歳の女性。彼女を中心に、若い世代や女性の才能を集め、引き出す。成功に至る道はそこにしかないし、そこに導くのが63歳の自分の役割と自覚していた。

ブルガリアの合唱団によるファルセットが入った君が代、ロボットが描き出す日の丸。
渋谷のスクランブル交差点で跳ねる女子高生。大空翼がシュートを決め、ドラえもんが土管型ドリルで穴を掘る。仮想と現実、二次元と三次元、人と機械、伝統と現代の融合。
若い感性だけではない。マリオの土管を、東京からリオまで貫通させようと言い出したのは森喜朗会長だ。安倍晋三首相にマリオをやらせたのも森会長のアイデア。老若男女のセンスとウィットがひとつに結びついた時、ないない尽くしだったチームは、世界に向ってTOKYOを、JAPANを見事にプロデュースして見せた。

https://www.youtube.com/watch?v=sk6uU8gb8PA

「かえってよかった。″\(^o^)」

"こう見えて、幼い頃から苦労人。逆境続きの人生で、ままならぬことは数あれど、むしろかえってよかったと、思って苦難を越えてきた。「かえってよかったんじゃないか」、そう思うしか、なかった人生。"
半生を振り返りながら、そう佐々木氏は呟く。

テレビ局を志願しながら電通に入り、クリエイティブを希望しながら新聞雑誌局に配属となり、6年目で転局試験に合格したものの、そこからヒットメーカーとなるには更に数年を要した。しかし、その長い雌伏の期間が、短時間で消費されるようなことのない、嚙み締めるほどに味が出るCM群を生み出す熟成装置となったとすれば、「かえってよかった」。

やがてバブル崩壊と前後して、佐々木氏の作品は徐々に世に出てきた。
1992年、サントリー「BOSS」シリーズ、開始。
1993年、JR東海「そうだ 京都、行こう。」キャンペーン、開始。
失われた十年、そして二十年の間、これらのCMを通じて佐々木氏は、常に私たちのそばにいた。

そして佐々木氏はまた、時代の節目ごとに、この国の人々を鼓舞してきた。

2001年、9.11が起きた。
テロの恐怖で海外旅行者は激減し、航空会社の倒産が現実味を帯びてきた。スポットCMも取りやめになる中、手つかずで残っていた元旦の新聞の全面広告に、ANAの宣伝担当者はSMAPを使った割引運賃の広告を作ってほしいと言ってきた。その言葉に違和感を覚えた佐々木氏は、言った。

「この時期に、そんな広告でいいのか。ANAには、もっと言うべきことがあるんじゃないか」

テロの影響で誰も行きたがらないニューヨーク。そこへ飛んで行くことが現地へのいちばんのエールになる。そう語り掛ける使命が、ANAにはあるはずだ。

二日後、提示されたのは、小さく配した自由の女神の上に

「ニューヨークへ、行こう。」

とだけ記されたビジュアル。それを見た当時の大橋社長はその案を即了承した。翌日、役員会で報告すると、役員からは自然と拍手が湧きおこったという。

2003年、電通から独立して「シンガタ」を設立し、佐々木氏の存在感は更に増す。

2005年、日中関係が最悪になった時には、「中国行って、撮って来て。」と、数十名のタレントをそれぞれ単独で派遣し、旅行者を優しく迎えてくれる平穏な現地の日常をカメラに収めさせ、それを「LIVE/中国/ANA」としてCMで流した。

2007年、ソフトバンクモバイルの白戸家シリーズ開始。犬のお父さん、という切り口から「普通の家族」とは何なのかを問いかけて早十年。改めて今年は「家族を作りなおす。『典型的な四人家族』ってヘンじゃない?という世界を作る」と言う。

https://www.softbank.jp/mobile/special/shiratoke-thanks/

2011年、3.11が起きた。
社会は自粛ムードとなり、CMはACばかり。タレントは仕事がなくなり、広告関係者は自宅待機を余儀なくされた。
「こんな時だからこそ私たちにできることが、きっとあるはず」。震災の翌日に会った松田聖子さんの言葉が、佐々木氏の胸で疼いた。聖子さんが、故・坂本九さんの名曲「見上げてごらん夜の星を」を歌いあげるはずだったサントリーのCMは、撮影そのものがキャンセルされようとしていた。

広告を作りたい、と強く思った。
計画停電のさなか、充電しておいたiPADでクライアントや関係者と連絡を取り、中止になりかけていたこの広告を逆に拡大しようとした。広告会社の枠を越えた動きは、当時サントリーと契約していた70名余りのタレントが無償で出演して同曲と「上を向いて歩こう」を歌い継ぐという、あのCMに結びついていった。

https://www.youtube.com/watch?v=fOUW9EhEWs4

この、歌のリレーに励まされ、勇気づけられた人のひとりに、トヨタの豊田章男社長がいた。「我が社でも何かできないか」。そう問われた佐々木氏が提案したのは「ReBORN」プロジェクト。木村拓哉にしか見えない織田信長と、ビートたけしにしか見えない豊臣秀吉が、2011年の日本に再生し、トヨタ車に乗って東北を旅する。
その中で佐々木氏は、日本中の気持ちを代弁するかのように、二人に海に向って叫ばせた。「ばかやろう!」、と。

https://www.youtube.com/watch?v=UQBJaVJuSwg

そして再び2016年、今度は9月16日のマラカナン・スタジアム。
パラリンピック閉会式のTOKYOプレゼンテーション。オープニングは義足のモデルGIMIKOさん、続いて義足のダンサー大前光市さんのダンス。「カッコいい。で、よく見たら障害のある方だった」。椎名さんの定義するTOKYOのクールが、二人のパフォーマンスによって眼前に現れる。

そして「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の視覚障害者アテンド・檜山晃氏の登場。檜山氏の脳内映像として会場のスクリーンに映し出されたのは、彼の感じる夏の夜の東京の風景。「東京は夏の夜が素敵。特に原宿駅で降りた時、正面の賑やかさと対照的な、明治神宮の深い森から流れてくる微風を背中で感じる時」という彼の言葉が、枕草子の「春はあけぼの、夏は夜」を想起させ、そこから更にインスパイアされた選曲、ピチカート・ファイブの「東京は夜の七時」に乗って、全ての障害者がそれぞれに動き出す。「早くあなたに会いたい」。その言葉が、想いが、会場にこだまする。リオとTOKYOが、土管でない何かでつながった瞬間だった。

https://www.youtube.com/watch?v=78Nhl85_wIY

さてこの日、夕学の慣例を破り、佐々木氏は質疑応答の30分間、および予備の10分間を、すべて自分が話す時間に充ててしまった。思うに佐々木氏には、質問されては困ることがあったのだろう。それはきっと、自らの正体のこと。
振り返れば、日本が困っているとき、佐々木氏はいつもさりげなく傍らにいて、次々とアイデアを出しては日本人を助けてくれた。まるでのび太とドラえもんの関係だ。

はっきり言おう。今夜の夕学五十講の講師は、ほんもののドラえもんだった。未来の世界の我々の子孫が現代に送り込んでくれた、聞く耳持たないネコ型ロボット。最新のプロジェクション・マッピング技術で、佐々木宏という初老の日本人男性にしか見えなかったけど。

のび太はいつか自立しなくちゃいけない。それはわかっている。でもせめて、2020年、東京オリ・パラが終わる頃まではこう言わせて欲しい。助けて、ドラえも~ん!

(白澤健志)

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