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矛盾を生きる 藤田一照先生

photo_instructor_868.jpgあまりに日常に溶け込んでいるがゆえに仏教は、かえってわからなくなっていることが多いのかもしれない。その溶け込んでいる仏教を藤田一照先生に掘り起こしてもらおうと今回の講演を楽しみにしていた。
以前から関心のあった禅だが、この夕学五十講の田口佳史先生の講演で曹洞宗の開祖、道元とその教えの話を聞いて同宗に強い関心を持つようになっている。藤田先生も同じ宗派とはなんたる偶然か。

藤田先生の経歴で興味深かったのが米国で17年半に渡って禅の指導をされていたことだ。異なる宗教の人に教えるということは概念を一度突き放して整理と解釈を改めてすることになるからか、説明もわかりやすいものだった。同時に講演を聞く私たち聴衆の側も、もはやかつてのように仏教を生活の根本に据えている「日本人」ではないかもしれない。もちろんあらゆる背景に仏教の影響をそれと気づかぬうちに受けているとしても。私たちの中に埋もれてわからなくなってしまっている仏教を、禅を、掘り出して心安らぐ何かを示してくれるのではないか。そんな期待が会場にはあるのか大入りの会場は働き盛りのビジネスマンも多く詰めかけていた。

講演は参加型の簡単なワークから始まった。伸びのようにする手や全身の「あくび」、近くの席に座っている最低4人とあいさつとハイタッチをして心身ともにリラックスした状態だ。そこから今の世を象徴する「VUCA WORLD」という言葉を紹介された。Volatility (不安定)、Uncertainty (不確かさ)、Complexity(複雑さ)、Ambiguity(不明確、曖昧さ)の各語の頭文字をとった、正に現代を象徴しているような語だが、実はブッダが2500年近く前に既に言及している。人間の抱える、変わらぬ存在不安は宗教の背景にある。西洋の宗教がEgo(個人)の心理学であるのに対して、日本の宗教はReligionではなく、むしろ存在不安に答える縁起的心理学だと藤田先生は解釈する。本来の仏教用語での縁起とは何か。Dependent co-arising、inter-being (相互存在的)なすべてのものが関係しあって存在していることで、カオス理論やネットワーク理論とも繋がるこの考えは、一般的に日本では広く共有されていると思う。

存在不安とは、(1)生きたい生存本能を持ちながら、必ず死なねばならぬ必然性を持つ絶対矛盾、(2)しかも生きている限り、死の正体を見ることはできない、まったく不明暗黒の深淵である、(3)さらに生と死は表裏一体の関係であって、いつの瞬間でも生は死ぬ可能性においてあることという。悲しいことにこの不安と苦しみは常に付きまとう。藤田先生は趣味のスラックラインを例に、綱渡りの綱から落ちそうになる時はもっと力を抜くことだと説く。力を抜くことでかえって落ちなくなる。揺れを楽しめるくらいの自分にならなければならないと。「どんなことに対しても構えてはいけない。しかしあらゆることに対してreadyでいなさい」。ここでいう「ready」とは「覚悟」(もしかすると「覚悟」も仏教用語で一般的な意味とは異なるから、英語にしたのだろうか)のことと私は解釈する。

講演の前半部はパワーポイントによる文字情報が多かったためか、ついていくのが難しい箇所もあった。初めのワークと最後の座禅体験と盛り沢山の内容で、頭はパンクしかけたりもしたが、それは言葉だけでなく体験させたいという藤田先生の思いから来るものなのでむしろ親切といっていい。その盛り沢山の内容の中から、ここでは考えさせられたパラダイム・シフトについて取り上げる。

ブッダの生涯は所有(having)の世界から存在(being)の世界へパラダイム・シフトしたもので、これこそが一大変化である。所有とは豊かに所有するために生きること、自分の証明がどれだけ多く所有しているかによる。一方、存在とは豊かに存在するために生きることだ。青虫が蝶に変身することを例に挙げ、私たちは世界のことを知ったつもりになっているが、それらは所詮青虫の科学に過ぎないと指摘し、青虫のまま大きくなるのでなく、ブッダのようなパラダイム・シフト、不確かさを前提としたメタモルフォーゼズして以前の自分に戻れないくらいの自分になれという。

でも、と私は心の中で呟く。所有から存在へのパラダイム・シフトは本当に現実の世を生きる中で可能なのだろうか。思想的にはともかく現実の世界で所有は一定の意味を持つ。何も贅沢をするわけではなく、良い医療や教育を受けるのもこの世では一定のお金がかかる。道元は「放てば満てり」と言う。「手で掴んでしまえば掴めるだけしか手に入らない。しかし手を開けばあらゆるものと繋がる」という意味である。言葉ではわかるのだけれどいま一つ現実味が伴わない。インド映画の『ムトゥ 踊るマハラジャ』で主人公が歌う一節が頭をよぎる。「広い空は誰のもの?誰のものでもない」インドではこう思わないとやっていけないんだろうな、そう思ったことを20年近く経った今でもよく覚えている。残念ながら私は所有をそれなりに望んでいる。そもそも肉体を持って生まれた時から肉体を始め、所有は運命づけられているのではないか。その人間が所有を手放すことの意味は一体何だろう。講演を聞いてからそうしたことを考え始めた。もしかすると一度手にしたものを手放す、このプロセスが道元の考えた「未だ修せざるには現れず 証せざるには得ることなし」(修行して悟らなければ、真の悟りとはならない)に通じる考えなのだろうかとも思う。つまり手放すことを通じて悟りに至るということだ。これが正解かはわからない。しかしもしそうであるなら私達は生まれた時から与えられている「所有」を捨て、新しい「存在」を得るために生きることが真の安らぎに繋がるという。また生は死で終わる。生まれた時に死ぬことが同時に運命づけられている。生にしがみつくのをやめた時、すべてのものと繋がる。何と矛盾に満ちた生のあり方だろう。

ずいぶんと難しくなってしまった。しかし仏教も含めて古今東西で言われている次のシンプルな言葉を思い出して生きていきたい。「過去や未来に生きるのではなく、今を楽しめ」

(太田 美行)

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