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リーダーの「十分条件」 安部修仁さん

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ハードワークは悪!?

間もなく"プレミアムフライデー"の第3回目がやって来る。政府と経済界が一丸となって提唱しているものの、無理筋というものだ。第2回目なんて年度最終日だったし、第3回目は、なんとGW前最後の平日ときている。月次管理をしている企業も多い中、最後の追い込みをかけている月末近くの金曜日に早く帰れとは...。プレミアムフライデーを導入した企業の割合は2.5%とか3.4%とか7%とか、調査によってまちまちだが、おおむねひと桁%の模様。でも、お上の決めた事だから各社必死で推進しなくてはならない。

国会では「働き方改革」で大論争、ネットを覗けば「○○社はブラック企業だ」「いや△△社の方がもっと」などと侃々諤々。ブラック企業大賞なんてものまで選考される始末だ。企業内に目を向ければ、コンプライアンス憲章にがんじがらめの上司たちは、パワハラ認定を恐れて部下におちおち指導もできない日々...。

「勤労の美徳」という言葉も今や死語。「長時間労働や厳しい仕事は悪」というのが時代のコンセンサスだ。

そんな時代にあって、安部修仁・株式会社吉野家ホールディングス会長は意気軒昂に説く。「リーダーを目指す者は、寝る時間以外の全てを費やすようなハードワークをする時期が必要である」と。もはや蛮勇と言ってもよい発言だ。

うわっ!ブラック企業大賞企画委員の方に聞かれでもしたら大変だ!と、思わず講演会場内を見回す。

安部会長がハードワークを推奨するのは何故か。それは「ある時期に集中的にハードに働くことで、能力が急激にアップする瞬間が来る。量が質の向上をもたらすから」だという。そういう経験の中でしか、物事に優先順位をつけるコツだとか、可及的速やかに課題を解決するスキルだとかは身につかないのだ、と。

経験に勝る教育はないというのが安部会長の持論。だから会長は、幹部候補にはチャレンジできる"場"を提供する。そこで彼らは自ら課題を設定し、失敗を重ねながら苦労して自力で道筋を見つける。そのときの達成感から新たな課題を設定し、勇気をもってハードな挑戦をするスピリットが生まれる。そうやってステップを踏み、ノウハウを蓄積していくことで、人はリーダーへと育っていくのだという。

リーダーの必要条件と十分条件とは

では、"場"を提供されてハードワークさえしていればリーダーになれるのかというと、それは違うようだ。安部会長もある時期までは、優秀なマネージャーが順当にリーダーへと育って行くのだろうと考えていた。

しかしある時、その間違いに気付く。

マネージャーの定義とは、問題解決とカイゼンの連続ができる"管理能力"があること。そういう人は頭脳明晰で、組織の中でも「優秀だ」と重宝される。そうした"管理能力"に優れた社員を幹部候補として、"場"を提供する育成を続けるうち、安部会長は気付いた。「管理能力は経営リーダーの必要条件ではあるが、十分条件ではない」と。

管理能力の高い優秀な人間ほど、客観的に現状を分析してその延長線上でものを考えるので、リスクヘッジには長けているが、リスクテイクをしようとしない。しかも彼らは、順境では良い結果を出すが、逆境には弱く局地転換ができない。

しかし不確実性の高い時代の経営には、未来のビジョンをイマジネーション豊かに描ける能力こそが必要だ。そしてそれを目指して勇気をもってリスクを取れる者こそが、経営リーダーとなり得るという。リーダーの役目とは、未来を創って行くこと。その十分条件とは、マネージャー的なカイゼンではなく、大きな改革ができること。現在とは地続きでない場所へ、大きくジャンプするビジョンを描けることが十分条件となるというのだ。

これは「対応」と「適応」という言葉の違いでも表せるという。対応というのは相手や状況に合わせることであり、主体はあくまで"他者"にある。接客などはその代表例だ。一方、適応というのは進化論の中の言葉で、生物が外界に合うように自ら変化すること。"自らが主体"であり、これこそが、変化するマーケットの中で自社の未来をどう創るかというリーダーの姿勢に通じるという。

ふっかつのじゅもん

話は変わるが、私は実際の吉野家に入る前に、その店名を中島みゆきの『狼になりたい』という歌で知った。1980年頃のことだ。「夜明け間際の吉野屋(ママ)」のカウンターで、やさぐれたナナハン乗りの男がクダを巻く歌詞に、小娘の私は「暗くて危ないお店なのね」との偏見を持った。

その後しばらくしてカリフォルニアを旅していた時、パームツリーが屹立する底抜けに青い空をバックに、見慣れたオレンジ色の看板が目に飛び込んだ。「Beef Bowl YOSHINOYA」との文字に目を疑った。潰れたと聞いていた、あの暗くて危ない吉野家が、アメリカでこんなに大きな明るい店を構えて復活しているではないか。

それからまたかなりの年月がたった2001年頃、インターネットの巨大掲示板の中で「吉野家コピペ」というのが大流行した。「吉野家ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。Uの字テーブルの向かいに座った奴といつ喧嘩が始まってもおかしくない、刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか」というのが原文だ。これは中島みゆきの『狼になりたい』にインスパイアされて書かれたものとされていた。20年の時を経て、ラジオやLPレコードからインターネットへと舞台を変えて、伝説の吉野家がまた復活したのだ。

いや、現実には、吉野家は明治32年から今に至るまで、ずっと営業していた。関東大震災に遭っても、東京大空襲に遭っても、会社更生法の適用を受けても、BSE問題で牛丼販売が中止されても、どんな逆境にも必ず復活して、ずっと変わらぬ姿を見せ続けて来た。しかし、逆説的に言えば、この百有余年の激変した環境の中で変わらぬ姿を見せ続けるためには、いかに吉野家自身が環境に「適応」して変わり続けて来たかということだ。

講演中、安部会長は、背後のスクリーンに映出されたレジュメを無視して、早口で熱く語り始める"脱線"を繰り返した。身振り手振りまじりの熱弁の中に幾度となく出てきた言葉が「オヤジ」だった。「オヤジが言うには...」「オヤジの理想は...」。オヤジというのは、吉野家の実質の創業者、松田瑞穂・初代社長への親しみとリスペクトを込めた愛称だ。つねに常識を超える目標を掲げ、尋常でないスピードで事業を成長させて来た松田社長に必死で食い下がってハードワークに勤しんでいた若き日の記憶が、今なお鮮烈なのだろう。

そんなオヤジから安部・二代目社長へと渡されたバトンが、2012年、20歳も年下の河村泰貴・三代目社長へと渡された。この若きリーダーの時代には、どんな課題が吉野家を待ち受けるのか。しかしどんな逆境に潰されそうになろうとも、必ず吉野家は復活するに違いない。その復活の呪文は、「変える勇気と守り抜く意思」だ。その真髄が垣間見えた2時間の講演だった。

(三代 貴子)

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