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知的生産の方法としてのワークショップ  苅宿俊文さん

本日の講演テーマは「多元共生社会のコミュニケーション力」

講師の苅宿俊文先生photo_instructor_740.jpgは、昨年まで、多元"化"共生社会と書いていたが、今年から"化"を取ることにしたという。
多元社会は、進行形でなく完了形になりつつあるという認識からである。

多元社会の先駆者は欧州であろう。
二度の世界大戦で一千万人を越える犠牲者を出し、辿り着いた合意が多元的共生社会の構築であり、その形態がEUであった。
その道のりは険しく、いまも大きな困難に直面はしているけれど。

日本においても、多元社会は進んでいる。
夕学では、金子郁容さん平田オリザさん西村佳哲さん山崎亮さんが、多元社会への取り組みを語ってくれた。
多元社会形成の鍵を握るのがコミュニケーションであり、コミュニケーション能力の開発メソッドとしてワークショップが有効である、という指摘も共通している。

苅宿先生もその一人、ワークショップの普及と推進を担う研究者であり、教育者であり、実践家である。
青山学院大学で開催している「ワークショップデザイナー養成プログラム」を通じて、5年間で1000人のワークショップデザイナーを育ててきた。

多元社会とはとどのつまり、相手とのズレを当たり前の前提としてコミュニケーションを成り立たせることだ、と苅宿先生は言う。
ズレとは、単なる言葉の問題ではない。文化・常識・価値観の違いを意味する。

・ズレているからあきらめるのではなく、やってみることに意味がある
・知らないで悩むのではなく、知って考える

それが苅宿先生の基本姿勢である。

見たことがない世界を理解するのは難しい。
感じたことがない痛みを慮ることはできない。
味わったことがない味は、レシピだけでは再現できない。

とにかくやってみる、経験してみる、失敗してみる、感じてみる。
それが出発点にならないと他者理解は始まらない。
だから、ワークショップが有効なのだ。

苅宿先生によれば、ワークショップとは、擬似的に形成した小さな多元社会でおきる摩擦の怖さ、痛み、悲しさを体験することである。
その感覚を意識化し、意味を腹落ちさせることかもしれない。
悪気がないままに異質者として疎外された人々が味わう感覚を理解することが目的である。

ネアンデルタール人の遺跡を発掘すると、手足が不自由な者が、仲間の支えと配慮を受けながら、自分の出来る範囲の役割を果たして、一緒に生きていた痕跡が残っているという。
文字どころか、言葉さえままならなかった我らが祖先達でさえ、集団で支え合って暮らすことができた。
「協働性」は、20万年前にアフリカの大地で人類が誕生した時から我々の体内に埋め込まれた普遍原理なのだ。

だとすれば、多元化の過程で起きる排他や孤立だって、乗り越えられるはず。文明の伴う競争の原理に押し込まれて眠っているかもしれない「協働性」を引っ張り出してあげればよい。難しいことではない。
苅宿氏は大きな声で叫ぶように訴える。

ワークショップ教育のキモは「無意識の意識化」だという。
面白い、便利、楽しい、今度使おうで終わらせるのではなく、自分にとっての「意味」を考えることである。
なぜ、どうしてそうなのかに思考を巡らすことが出来るかどうか。
目に見える範囲だけでなく、自分達が置かれた環境、歴史、文化まで俯瞰できるかどうか。
さらには、そういった思考作業が一人では出来ないことに気づき、他者との関わりの中で生まれることを認識できるかどうか。
言い換えれば、正解のない問いに向き合い、自分なりの納得解を紡ぎ出せるまで考え続けることができるかどうか。

ワークショップとは、現代人に求められる「知的生産の方法」である。検索エンジンのパーソナライズという美名のもとに「同質化の罠」に絡め取られつつある私達への警鐘にも思える。

(慶應MCC 城取一成)