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内なるヤンキー性を知るべし 斎藤環さん

photo_instructor_742.jpg 精神科医 斎藤環氏の「日本人ヤンキー化論」の新奇性は、異質の組み合わせにあるだろう。
「ヤンキー」というスラングワードを使って、日本人の精神構造とそこから生まれた歴史、文化、社会システムという壮大な事象を解き明かしてみせた。

斎藤先生が、日本人のヤンキー性に気づいたきっかけは天皇陛下在位20周年祭典のこの場面だという。
<こちら>

「なぜここでEXILEなのか」

天皇の即位20周年記念行事は、自民党の保守系政治家にしてみれば、最も重要な国民的イベントであるはず。そこには崇高な精神性と大衆的な祭儀が求められることは自明である。
その象徴として選ばれたであろうEXILEの姿を見ながら天皇制とヤンキーをつなぐロジックに思い至ったという。
なぜなら、EXILEが、ヤンキー的精神性を持った人々(斎藤先生曰くマイルドヤンキー)から絶大な支持を獲得しているグループであることを知っていたから...。

ヤンキーとは何か。
斎藤先生の話をまとめると、「様式性」「精神性」に集約されるのではないか。
まず「様式性」とはこれらである。

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金ぴか、過度な装飾、先尖性etc...。はっきりとそれをわかることに意味があり、戦国から江戸、現代まで時代をまたいだ共通性がある。

斎藤先生によれば、ヤンキー的な人物像は、本宮ひろ志が描くマンガの絵柄にはまる人だとか。下記の左側はEXILEリーダーのヒロ、他にはキムタク、白洲次郎、坂本龍馬がイメージが重なるという。

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続いて「精神性」
ヤンキーの精神性は、強烈な承認欲求、アゲアゲのノリと気合い、家族や仲間への深い愛情、ロマンティシズム、ポエム性、高いコミュニケーション力(笑いのセンス、空気を読む巧みさ)などに代表される。アドリブに強いお笑い芸人に象徴されるものだ。
クラスの人気者に必須の素養といってよいだろう。

さて、ここまでの説明では、ヤンキーの「様式性」「精神性」が、日本人の精神構造とそこから生まれた歴史、文化、社会システムに反映されている根拠が不十分である。
斎藤先生は、ここで話題を古代日本に転じて、ヤンキー性が日本神話に埋め込まれた基本原理であると説明する。
例えば、スサノオノミコト
記紀神話の主役のひとりである彼は、高天原ではさんざんヤンチャをしでかした不良少年であった。乱暴狼藉の限りをつくし、亡き母イザナミがいる黄泉の国に行きたいと泣き叫び、挙げ句くの果てに姉のアマテラスにケンカをふっかけて、ついには高天原を追放されてしまった。
ところが流れ流れてやってきた出雲ではヒーローに転じ、人々を苦しめるヤマタノオロチを退治する。美しい妻も娶って幸せな家庭を築いた。
そこには、「不良が更生して世のため人のためになる」というヤンキーの理想像が描かれている。

さらには、ヤンキーの「様式性」にも日本神道との共通点を見いだす。
それは、ヤンキー文化は、模倣とパロディに強い、という特徴である。

通常、ブランドやキャラクターは模倣とパロディを嫌う。価値や稀少性の毀損につながるからだ。
ところがヤンキー文化は模倣とパロディによって増幅し、特徴がデフォルメされて過剰になればなるほどメッセージ性が強まり、伝播力が高まる。装飾はどんどん派手になり、尖りはぐんぐんと天に伸びていく。

斎藤先生は、ここに伊勢内宮の遷宮システムを比定する。
20年毎に行われる伊勢遷宮は、実はまったく同じ建物を作るのではない。毎回少しずつ立派に、派手に替わっていく。つまり正確なコピーではなくデフォルメされた二次創作だという。
しかも神殿としての本質はオリジンにはとどまらず、デフォルメされた二次創作に移転されていく。

模倣による増幅効果は歌舞伎座にもあてはまる。
昨年五期目が竣工した歌舞伎座は、明治に作られた初代に比べると、再建される毎に装飾が華美になり、先尖性が際立っている。ヤンキー化に拍車がかかったのである。
それは丸山眞男が『歴史意識の古層』の中で「つぎつぎとなりゆくいきほひ」と呼んだ成長・増殖のエネルギーにも通底するという。

ここまでくるとヤンキーというスラングワードは、日本人を理解するマジックワードに成長・増殖した観さえある。

さて、斎藤先生が言わんとすることは、我々日本人が無意識に共鳴している内なるヤンキー性をよく理解したうえで、ヤンキー性がもつ陥穽に陥ってはいけないということだ。
それは、精神性の過剰な評価と絆主義という美名に隠された閉じたムラ意識であろう。
前者については、日本人は敗戦という大失敗をした。にもかかわらず、「気合い」「根性」の過剰な賛美は後を絶たない。
期待に働きかける、というアベノミクスもその延長線上にあると斎藤先生は見ている。
小泉ブームも、橋下ブームもしかりであろう。

後者については、「絆」という言葉に込めた仲間意識が、らち外にいる本当の弱者には向けられない危険性があることを指摘された。
座敷牢、村八分、隔離病棟といった習俗は、共同体の相互扶助システムは、ある基準を越えた弱者には恐ろしく冷たいという側面を暗示している。

ヤンキー性には、良い点や美質も多い。だからこれまで続いてきた。
そしてこれからも、私達は内なるヤンキー性を抱えつづけるだろう。
だとすれば、時に自分を俯瞰してみて、ヤンキー性を客観視する冷静さと強さが必要だということではないだろうか。

城取一成