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「良いものは良いと直観で見抜くこと」がグローバリゼーション  松山大耕さん

今春、慶應MCCのagora講座で、塩山の名刹恵林寺住職の古川周賢老師に「禅の智慧」を学んだ
学んだというのはおこがましい。禅寺の前にしばしたたずんで、門柱をなでさすりながら、そこに漂う空気感を味わったという程度に過ぎない。
夏目漱石流にいえば「彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待った...」というところか。

古川老師に教えていただいた印象的なフレーズがある。

「禅とは"引き算"によって本質を掴むこと」
人間も、人間が作り出す社会も「欲望拡大促進システム」である。いわば"足し算"システムで出来ている。ビジネスはその最たるものであろう。

禅はその真逆にある。
欲望はもちろんのこと、知識、常識、理屈、価値観、こだわりetc。人間が生きることで足し加えてきたあらゆるものを「捨てる」ことを目指す。
捨てて、捨てて、無心になって、もうひとつ捨てて、捨て去ることで、純粋無垢で、瑞々しく、精気に溢れた生命の根源に辿り着くことができるという。
それをブッダは「悟り」と呼んだ。

photo_instructor_732.jpg京都を代表する禅寺のひとつ妙心寺の塔頭退蔵院の跡取りとして生まれた松山大耕氏は、カトリック系の中高一貫校で学んだ。
そのせいもあってか、仏教とは何か、禅とは何かを、対比的に思考し、仮託して表現することに秀でているようだ。

禅とは対極にあるユダヤ教と比較すると、ユダヤ教が律法というルールで自己を制御するのに対して、禅は修業という体験によって掴むことを重視することがわかる。

禅寺の石庭には、思いっきり遠くに視点をおいて、対象を徹底して抽象化しようとする禅の精神が凝縮している。

日本の武道には、勝つことではなく自分の精神を高めることを尊ぶ、禅の道が生きている。

精進料理には、あらゆるもの活かし切るという禅修業の効率性が見てとれる。

松山氏が日本の禅宗を代表して、世界の宗教家・リーダーと交流している理由も、他者との相対化を通して、禅の本質を多くの人々に理解してもらおうという試みではないだろうか。

松山氏は、「新しい仏教の動き」のひとつとして、自らが取り組んだ「退蔵院方丈襖絵プロジェクト」を紹介してくれた。
退蔵院のwebサイトに、たいへんよく出来た紹介映像があるのでご覧いただきたい。
http://painting.taizoin.com/

このプロジェクトは、松山氏が考える「グローバリゼーション」の実践である。

「良いものは良いと直観で見抜くこと」

それが、世界と交流してきた松山氏の「グローバリゼーション」の定義だ。
京都にはかつて、「御用絵師」と呼ばれる芸術振興システムがあった。時の権力者や社寺が、新進気鋭の絵師を発掘し、丸抱えで面倒を見ながら城や社寺の襖絵・屏風絵を描かせた。俵屋宗達、長谷川等伯、狩野元信等はそのシステムが産み出した天才達である。

これを、現代の文脈に乗せて再現しようというのが、「退蔵院方丈襖絵プロジェクト」である。選ばれた村林由紀さんの将来に多いに期待したい。
http://www.sotokoto.net/jp/interview/?id=80

「良いものは良い。良いものは誰であろうと認める」
その斬新な試みは、実は400年後の京都のために芸術を残すことにつながる。

松山氏が世界の宗教家と交流して認識した共通問題。
それは、宗教への「無関心」の急激な広がりだという。
この問題には、世界の宗教家が力を合わせ、若い人々への宗教的インパクトを発信する必要がある。
世界の宗教が力を合わせようとする時、実は日本の弱みと揶揄されてきた特性が役に立つかもしれない。
どんな宗教であっても、浅く広くこだわりなく取り込んでしまう「寛容性のある宗教観」である。
これは世界に誇るべき素晴らしい特性ではないか。日本が世界の宗教のリーダーシップを取る時代が来るかもしれない。

36歳の若き国際派禅僧、松山大耕氏には、引き算の思想の向こうに見いだした、瑞々しく、精気に溢れた生命力を感じる。

城取一成

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