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人間の自由と組織の本質 菊澤研宗さん

「科学は哲学から生まれ、哲学は神学から生まれた」

分子生物学者の村上和雄先生から聞いた言葉である。
実に深くて味わいのある言葉だが、それゆえ単純なことではないようだ。

photo_instructor_731.jpg菊澤研宗先生によれば、
20世紀初等の欧州で、科学は自らを産み落としてくれた哲学への反駁を始めた。
「科学が進歩すれば、哲学など必要なくなる」
ウィーン学派と呼ばれる集団は、論理実証主義を奉じて哲学的領域への浸食を始めた。

これに対してカール・ポパーが立ちはだかった。
論理実証主義者が主張する科学的方法論の万能性を、ひとつひとつ論理的に反証していった。

「すべての問題を科学で解決出来るわけではない。科学は哲学を抹殺できない」

それが20世紀の「科学vs哲学」論争の論理的帰結であった。

菊澤先生はこの春まで二年間アメリカに在住していた。
間近で見た21世紀のアメリカでは、再び科学万能主義は台頭しているという。

「科学でなんでも説明できる。哲学・美・倫理でさえも科学で扱える」

例えば、美しい絵画を見て感動している人間の脳内血流の動きを科学的に分析すれば、美とは何かも解明できる。
科学主義者は、そう主張しているという。

アメリカの経営学者、企業経営者も科学主義の洗礼を受けてしまった。
株主価値の最大化、短期利益の最大化のための数理モデルを展開し、統計を駆使してそれを実証することが経営学の主流である。企業経営における「経済合理性」への過度な偏重が、エンロン事件やリーマンショックを引き起こした。
その誤りにようやく気づき始めたにもかかわらず、いまだ行動を変えられずにいるのが、現代のアメリカの経営学であり、企業経営である。

そこに欠けているのは、企業は何をもって社会に貢献するべきか、という哲学的な問いに向き合う"真摯"な姿勢である。

「企業の目的は顧客の創造である」

かつて多くの企業人を魅了したドラッカーの名言も色褪せつつある。

本当にそれでいいのか?
「組織の不条理」を研究してきた菊澤先生は、その流れに警鐘を鳴らす。
科学が万能ではないことは、百年前に論理学的な決着が着いている。
統計を駆使すれば、さまざまな相関を数字で表現することができるけれど、相関はどこまでも相関であって因果ではない。「なぜそうなるのか」を説明できない。
そしてなによりも、経済合理性を追求すると「組織の不条理」を招いてしまう。
「組織の不条理」は、経済合理性(儲かること)と社会正当性(正しいこと)の不一致によって発生する。

東電の原発事故は、コストと完全安全性は一致しないことを教えてくれた。
経済合理性を重視すれば、安全を犠牲にせざるを得ない。
完全安全性にこだわれば、経済合理性を追究できない。
その不条理が地震と津波によって表出した結果が、原発事故であった。
ノバルティス社、船場吉兆等企業の不祥事は皆同じ図式があてはまる。
組織は合理的に失敗する宿命を抱えている。

ではどうすればよいか。
カントが説いた「自律的人間観」にヒントがある。
いま、この状況で自分は何をなすべきかを、自らの意志で決め、その責任を負う。それが、自律的人間である。
私達は、自律的な人間になることで、「組織の不条理」に立ち向かわねばならない。

カントの哲学を受け継いだのが、ドラッカーの「人間主義マネジメント」である。
ナチス全体主義から逃れて米国に渡ったドラッカーは、来るべき社会を「自由な経済社会」だと定めた。そしてその主役は企業であると喝破した。
経営者は、自律的人間としてイノベーションに挑戦し、顧客(市場)を創造する。
ミドルは、自律的人間として、企業の目標と個人の目標の融合を図る。
社員は、自律的人間として、意見やアイデアを出すことによって経営に参画する。
それが、ドラッカーの「人間主義マネジメント」である。

経済合理的マネジメントと人間主義マネジメントとは補完関係であるべきだ、と菊澤先生は言う。
経済合理性を重視しつつも、いざという時に、この一線で止まる勇気と意志を醸成しなければならない。

自律と責任を自らの意志で引き受けることが出来るかどうか。
それが、人間が人間であるための条件なのだから。