« 2011年11月 | メイン | 2012年1月 »

森は、いのちの生産工場である  宮脇昭さん

photo_instructor_592.jpg宮脇昭氏 83歳、世界各地で植樹を推進する現場主義の植物生態学者である。

「木を三本植えれば、"森"に、五本植えれば"森林"になります。まずは出来ることからはじめましょう。あなたの家族、あなたの子孫のため。いのちの森を育てましょう」

小さな身体から、湧くが如くに迸りでる言葉にはとにかく説得力がある。
そうやって、賛同者を募り、国や企業を説得し、国内外1700カ所以上で植樹指導をしてきた。植えた樹木は4000万本を越えるという。

宮脇方式はシンプルな原理である。
「潜在自生植生」にこだわる
「鎮守の森」等、僅かに残る痕跡を探り、その土地に本来生えていた自然の樹木を見つけ出す。その樹木のドングリを拾い集め、発芽させて小さな「ポット苗」を作る。しかも一種ではない、複数種の「ポット苗」を作り混植して、競わせる。

深く根が張る土壌づくり
植えるべき場所の土を掘り返し、ガレキと混ぜて、ホッコリとしたマウントをつくる。これにより根は隙間を探して深く伸び、呼吸がしやすくなる。

森の当事者と一緒に植える
実際に植えるのは、森の当事者でなければならない。社長や行政のトップが、「ポット苗」を持ち、子供達や市民・社員と、人が足りなければ宮脇先生が組織するボランティアと一緒に植える。これによって「自分たちの森」になる。

わずか30センチほどの苗木が、2~3年で人の背丈ほど、10年もあれば十数メートルの森に育つ。その間、ほとんど手入れを必要としないという。

続きを読む "森は、いのちの生産工場である  宮脇昭さん"

歌人が語る歌人の妻 永田和宏さん

photo_instructor_595.jpg「二足の草鞋」、しかも、いずれも、とびっきりの「金草鞋」をはく心境は、一足の草鞋も満足にはけない我々凡人には想像しにくいことである。
古くは、森鴎外(陸軍軍医総監と小説家)、少し前までなら堤清二(経営者と小説家)、今なら石原慎太郎(政治家と小説家)が二足の草鞋の先達であろう。

前三人ほどの派手さをないものの、細胞生物学者と歌人という二つの金草鞋をはいてきた永田先生の40年は、凡人には分からない葛藤を抱えるものだったという。
同僚やライバルからの冷たい視線、自分自身のうしろめたさとの戦いであった。

それでも短歌と科学の両方の道を歩んできたのは、二つの道を歩くことで、一方の道を行く自分を相対化できたからだと、永田先生は言う。
ひとつの道で立ちすくんでいても、もうひとつの道では前に進んでいる。落ち込んではいられない道がもうひとつあり。
それが、永田先生の力になってきた

いまひとつの理由は、昨年夏に亡くなられた妻、河野裕子さんの存在であろう。(ちなみに永田先生は講演中に、妻は、とは言わずに「河野」と呼ぶ。ここでも相対化が出来ている)
永田先生にとって河野裕子さんは、恋人、妻、歌のパートナー、ライバル等々多義的な意味を持つかけがえのない存在であった。

ふたりが終生にわたって交わした相聞歌は、互いに500首近くに及ぶという。

きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり

(永田和宏)

たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか
(河野裕子)

世の中を見る際の座標軸として、夫(永田さん)に全幅の信頼を寄せつつ、現代短歌の旗手として夫よりも早くに世に出た妻(裕子さん)を、永田さんは慈しみ、歌人として、目標にして生きていた。

続きを読む "歌人が語る歌人の妻 永田和宏さん"

哲学の遠望鏡で現代を見る  竹田青嗣さん

photo_instructor_591.jpgこの仕事をやっていると、「これは秀逸だなぁ」と感心する講演タイトルに出会うことがある。
今回の「哲学の遠望鏡で現代を見る」というタイトルはその典型と言えよう。
現代とはどういう時代なのか、哲学という思考ツールを使って考えてみよう。それが今回のテーマであった。

竹田先生がこのタイトルを付けた理由のひとつには、近代哲学と近代社会の関係性があるようだ。

「近代哲学が近代社会のブループリント(青写真)を描いた」

竹田先生は、そう言う。
近代を語る代名詞としてあげられる「資本主義」「民主主義」「自然科学」は、いずれも近代哲学から生まれ落ちた。デカルト、ホッブス、ルソー、カント、ヘーゲル等がいなければ存在しなかったかもしれない。

しかして視線を現代に転じた時、現代社会の基底となる「哲学」はあるだろうか。
脱近代が叫ばれて久しいにもかかわらず、そこにはブループリントと呼べるものがない。
講演タイトルは、いまこそ、現代社会のブループリントたりうる「哲学」が必要だ、という竹田先生の問題意識の裏返しである。

竹田さんの考える「哲学」とは、絶対真理・究極原因の探求ではない社会の「共通理解」を創出するための思考の「原理」である
絶対真理は、宗教教典のごとくにアンタッチャブルな存在だが、「原理」は、時代に合わせて絶えず前に進むべきものだ。スパイラルに進化するものである。
「哲学」とは、オープンな議論のテーブルで揉まれて、民族・文化の枠を越え、その時代の世界を説明する言語ゲームである。

続きを読む "哲学の遠望鏡で現代を見る  竹田青嗣さん"

アリが教えてくれるもの   長谷川英祐さん

photo_instructor_590.jpg遺伝子工学がもたらした成果のひとつは、「地球上のあらゆる生命体は、共通の祖先を持つ(起源はひとつ)」という事実を明らかにしたことにある。

DNAの暗号解読研究によって、目に見えない微生物も、大海原を泳ぐクジラも、大腸菌もヒトも、まったく同じ遺伝子暗号を使っていることが分かった。
地球上のあらゆる生命体は、同じ生命から枝分かれしていった。38億年前の生命誕生時に遡れば、同じ親を持つ兄弟である。

それを本能的に知っていたのか否か、人類は有史以来、他の生命体の形態や振舞いから多くのことを学んできた。
武術家は動物の動きから新たな技を考案し(ツバメ返し)、発明家は熱帯の植物の形状にヒントを得てグライダーを作った。災害ロボットのメカニズムは、へびの動きを参考にしていると言われる。

アリ、ハチといった集団(コロニー)を作って生きている社会性昆虫の生態を研究している長谷川先生の話を聞くと、アリの生態を知ることも、人間社会にとって、実に示唆的だということがわかる。

例えば長谷川先生はこのように言う。

個体の利益を最大化できない集団(コロニー)は滅びる。

アリに限らず、およそすべての生命進化の大原則は、「生き物は、個体の利益を最大化する」ことにある。
アリやハチも、他者のために、自分が犠牲になることはない。
巣を襲う外敵に立ち向かう無数の働きハチの映像は、一見すると、他者のため我が身を犠牲にしているかのように見えるけれども、実は、彼らは自分のために戦っている。
「自分たちの遺伝子を後世に残す」という利己的な本能に忠実なだけなのだ。

ハチの集団(コロニー)は、親である一匹の女王とその子供である多くの働きバチたちで形成されている。彼らは、ハチという種を守っているのではない。自分たちと同じ遺伝子を持つ家族を守ることで、自分たちの遺伝子をより多く、効率的に残そうとしているのである。
利他的行動と利己的本能が一致することで、アリの集団は維持されている。

彼らは、人間のように、歴史や文化といった抽象概念を共有する組織(国家や会社)のために身を犠牲にすることはない。人間が作りだした美しき倫理は、生命の原則には一致しない。

続きを読む "アリが教えてくれるもの   長谷川英祐さん"

「制約」の上手な使い方  本田直之さん

photo_instructor_589.jpg私は、書店で過ごす時間が長い。丸善丸の内店には、週に2~3度は立ち寄り、時間があれば2時間近くいることもある。
当然ながら、この数年、書店での本田直之著作本の存在感には気づいていた。「レバレッジシリーズ」は次々と刊行され、どれもよく売れているようだ。

しかし、本を手に取ることはあっても、買うことはなかった。
「できるだけ少ない労力で、より多くのリターンを得よう」というレバレッジの考え方には違和感があった。
私は、「投じたエネルギー量の多さが達成感に比例する」という古いタイプの考え方を持つ人間である。(むしろ、本田さんの奥さんの価値観に近いかもしれない)

今回は、「是非、呼んで欲しい」という元スタッフの熱望もあって、違和感の正体を確かめるのもよいかもしれないと思った次第である。

一年間のうち、6ヶ月をハワイで、4ヶ月を東京で、2ヶ月は世界を廻って過ごすという本田さんのライフスタイルは、多くの人が思い描く夢の体現者である。
そのライフスタイルをつかみ取るために本田さんがこだわったのは「制約にしばられない」ことだったという。
 「時間」「場所」「人」「お金」「働き方」「服装」「思考」
私たちの仕事、生活、モノの見方・考え方をしばる、さまざまな「制約」を取っ払う生き方である。

では、どうすれば「制約」から逃れられるのか。
「考え方」「スキル」「実践方法」の3つの切り口で提示してくれた、本田さんの体験的方法論が、講演のキモに当たる部分であった。

最初は中国古典の「荘子」によく似ているな、と思った。
「多くのものにとらわれて、不自由に生きている自分を発見せよ」
「不自由を脱ぎ去ることをせよ」
「こだわりを捨て、かみしもを外せ」
それが「荘子」のメッセージである。

本田さんの口からも、「捨てる」「減らす」「止める」「使わない」「持たない」「残さない」といったキーワードが次々と出て来た。

でも少し違う。
本田さんは、絶対自由の境地を求め、隠遁的な「無」を生きようとはしていない。
アイアンレースはやるし、ワインも大好き、ペンには凝るし、ファッションにもこだわりがありそうだ。
断じて「無」ではない。

荘子は、全ての「制約」から自由になることを希求したが、本田さんは違う。
実は「制約」を上手に使っているのではないか。
複業を持つという「制約」、留学時代に1日2.5ドルで生活しようと決めた「制約」、タイムマネジメントという「制約」etc。
本田さんの人生や生活には、自分をドリブンするための「制約」がいくつも埋め込まれているようだ。

本田さんが捨てたのは、他者が決めた「制約」、自分にはストレスになる「制約」である。そして、それらを捨てた代わりに、自分で決めた「制約」、自分にとって意味のある「制約」を取り入れている。
「制約」に動かされるのではなく、「制約」を使って自分を動かしている。
本田さんにとって、重要なのは、「制約」を自分で決めること、自分で使うことではないだろうか。

そう考えると、本田さんの生き方は、エドワード・L・デシが説いた「内発的動機づけ」の理論にピッタリと一致する。
何事も自分で決めるという感覚(自己決定感)
こうすれば上手くやれるという感覚(有能感)
「内発的動機づけ」に必要なのは、この二つの感覚を得られるかどうかだとデシは言う。
本田さんの生き方は、まさにこれである。

違和感の正体を確かめようと聞き始めた話であったが、いまは、違和感が随分と的外れであったなぁと反省している。


この講演に寄せられた「明日への一言」はこちらです。
http://sekigaku.jimdo.com/みんなの-明日への一言-ギャラリー/12月8日-本田-直之/

工藤公康氏のDeNA監督就任騒動に思う

皆さまご承知のように、「工藤公康氏が、横浜DeNAベイスターズの監督に就任確実」
という見込報道から一転。交渉中断となりました。

つい二ヶ月前に夕学に登壇いただいたこともあって、このニュースは特に関心をもって推移を見守っておりました。
実は、講演の中で、受講者の方から「将来監督をやってみたいという希望はありますか」という質問があった際に、工藤さんの返答は次のようなものでした。

「私が監督をやるとしたら、余程生活に困った時だと思ってください(笑)」
あの日の講演内容と、間髪入れずの返答から思い浮かべても、日本のプロ野球の監督という仕事は、工藤さんにとって、まったく魅力がないものだと思えました。
いくら子沢山とはいえ、たった二ヶ月で工藤家の生活が逼迫したとは考えられず、「就任に前向き」「監督確実」という報道を見る度に、「ホントかな?」という疑問が拭えませんでした。
口幅ったい言い方ですが、個人的には、きっとこうなるだろうと思っていた通りの結果になりました。

続きを読む "工藤公康氏のDeNA監督就任騒動に思う"