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新しい「大人の学び論」を!  長岡健さん

photo_instructor_573.jpg長岡健氏の研究テーマは、「学習と組織」をめぐる現象を読み解くことである。
その立ち位置は「ストレンジャー」であることに徹している。
「学習と組織」をめぐる諸問題を扱うのは、経営学では「人的資源開発論」と呼ばれている分野になる。ひらたく言えば、「経営に資する人材をどのようにして育てるのか」を考えることだ。
ストレンジャーである長岡氏は、非経営学、脱人的資源開発論の視座から、「学習と組織」をめぐる現象に切り込もうとしている。
ストレンジャーらしく、批判的に、異なったメガネを用いて見ることに特徴がある。

人的資源開発論の文脈で言うと、この10年(特に5年ほど)の大きなパラダイムは、「人が育つ場としての仕事・職場」をどう設計するかにあった。
長岡先生は、「熟達化」という言い方をし、人的資源開発論の専門家は、「経験学習」という。
人は組織の中で、
・適度に難しく、明確な課題を与えられ、
・結果に対するフィードバックを受け
・誤りを修正する機会を繰り返し、
・時に他者との対話を通して内省することで
初心者から一人前へ、さらには熟達者へと成長していくという考え方である。
(詳しくは、大久保恒夫さん松尾睦先生の夕学ブログをご覧いただきたい)

ストレンジャー長岡氏は、この考え方に「限界」を見ている。
なぜなら、「経験学習」を語る企業の人事担当者の多くが、「自分のことを差し置いて」社員や部下の事ばかりを言うからである。
果たして、一人前になった人は、もう学ばなくてもよいのだろうか。

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いまは「のびやか」にはなれないけれど... 玄侑宗久さん

photo_instructor_572.jpgはじめにお詫びを言うべきであろう。
受講者の皆さんと講演者である玄侑宗久さんに対してである。
震災から四ヶ月、いまだ困難の中の渦中にある福島県人 玄侑さんに 「荘子」を語っていただくのは無理があったのかもしれない。

荘子は、超越的、脱世俗的を特徴とする思想である。あまりに雄大でスケールが大きい。いまの困難も俯瞰してみれば些細なこと、大きな流れの中で移ろいゆく、よしなし事のひとつに過ぎないと喝破する。
世俗の価値や基準から解き放たれて、自由に、のびやかに生きることを説く。

しかしながら、いまの福島には、玄侑さんを荘子から世俗の世界へ引き戻す強力な磁場が働いている。
のびやかに生きることを説こうと試みても、のびやかにはなれない自分がいる。
玄侑さんが、そんな苦しみの中、渾沌の中で、お話しせざるをえなかったことに、講演企画者として忸怩たる思いがある。

玄侑さんは、福島県三春町福聚寺の住職である。
ご自身も被災者のおひとり、地震でお寺の塀は倒れ、お墓も多くが倒壊した。檀家さんに死者はなかったとはいえ、親戚縁者には亡くなられた方も多いだろう。 お墓はいまだに修復しきれていないという。

玄侑さんは、政府の復興構想会議の委員でもあった。
苦しむ東北の庶民の声を届けるために、そして被災した宗教界の代表として、会議に臨んだという。 しかし徒労感も大きかったという。

玄侑さんは、純文学から、対談、エッセイまで幅広く手がける作家でもある。
いつの日か、今回の体験も文学作品に昇華して世に問わねばならない。

そんな複雑な思いを抱えたまま、荘子の世界を語ることは、玄侑さんにとっては、つらいことであったに違いない。聴く側にもそのつらさが伝わってきた。
いまの玄侑さんにとって、それほどに世俗の力は大きいのだろう。


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わからないことが「知的な体力」を鍛える  鷲田清一さん

photo_instructor_571.jpg小学生時代の私は、手先がひどく不器用で図画工作や家庭科を大の苦手にしていた。
ある年の夏休み、家庭科の宿題は「鍋つかみ」の作成であった。家庭の余り布を材料に、足踏み式ミシンで縫ってくることが課題であった。(そういう時代でした)
最初は途方に暮れ、やがてすっかり忘却の彼方に置き去り、短い夏休みが終わろうとする日の夜、私は母にすべてを「丸投げ」した。
私の能力をよく知る母は、「しょうがないわね」と言いながら、ササっと片付けてくれた。
それを見ていた父親が、「自分でやるべきことはやらせないと駄目だ」と怒り出し、それに対して母親が「ミシンの針に糸も通せないこの子に、出来るはずがない」と、我が子を庇うのか、馬鹿にするのかわからないような反論をして、言い争いが始まった。
自分の不始末のせいで起きた家庭内論争を前にして、私はどうにも居心地が悪く、かといって逃げるわけにもいかず、ずいぶんと困った記憶がある。
見かねた姉が、「あんたが名前ぐらいは自分で縫いなョ」と取りなしてくれて、事なきをえたと記憶しているが、あの時の居心地の悪さはよく憶えている。

つまらない話を延々と書いてしまったが、鷲田先生の「知的体力」論を聴きながら頭に浮かんだ思い出である。


さて、ここで話題を思い切きり振って、鷲田先生がよく主張されている「価値の遠近法」について確認しておこう。

「価値の遠近法」とは、あらゆる事象・物事を次の四つに分けることである。
①絶対に必要なもの、失ってはならぬもの
②あってもいいけどなくてもいいもの
③なくてもいいもの
④絶対に不要なもの、あってはならないもの
鷲田先生は、これが上手に仕分けられる能力を「教養」と呼び、その重要性をいろいろなところで紹介している。

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世界の水の問題解決に向けて  沖大幹さん

photo_instructor_570.jpg沖大幹氏の専門は「水文学」である。
専門的に言えば「地球の水循環システムの研究」となる。
平たく言えば「水に関わる森羅万象を研究すること」だという。

地球上の水の多くを占める「海」、雨の恵みの元となる「雲」、天然水資源貯蔵庫ともいえる「雪氷」、水の存在を知らしめてくれる「植物」。
水循環システムを構成するこれらの要素が、気候変動や人間活動によって、地球規模でどのように影響を受けているのかを科学的に解明する。

まずは沖先生が示してくれた水に関わる基礎データを紹介しよう。

・世界の自然災害による死者数のうち洪水によるものが55%、旱魃によるものが31%。
水は人類を生かすこともあれば、殺すこともある。

・1km以内に1日20L/人の水(安全な水へのアクセス基準)を確保できる人は、世界人口の1/7でしかない。
水は人間の命を繋ぐ。

・日本人が1日に使う飲み水は2L~3L/人、洗濯や風呂など健康で文化的な生活を維持するのに必要な水道水は1日に200L~300L/人、必要な食糧生産にしようする雨水・灌漑水は1日あたり2000L~3000L/人に相当。
私たちは、毎日は驚くほど大量の水を使用している。

・上水道の単価は100年/トン程度。(米や肉、生乳などはその1000倍)
水は信じられないほど安価である。だから大量に使うことができる。

水は、地球上の貴重な資源、だから大切にしなければならない...というけれど、そんなに単純なものではないらしい。
水資源はストックではなく、フローである。地球上のどこかで流れたり、降ったり、注がれたりしている。

フローの総量は年間4万キロ立方メートル、そのうち人類が使っているのは4千キロ立方メートル、1/10に過ぎない。量的には充分にある。
ただ、それが地理的にも、時間的にも偏在していることが問題なのだ。

かといって、充足している国(例えば日本、雨期の東南アジア)から不足している国(中央アジア、アフリカ)へ運べば、あるいは貯蔵しておけばいいかというと、それが出来ない。
貧しい人も使える程度に安価でなければ意味がないが、水は重く、かさばるので運搬や貯蔵に莫大なコストがかかってしまうからだ。ぺットボトルの水は貧しい人には買うことは出来ない。

偏在を所与の条件として受け止め、その中で安価で安全な水を行き渡らせるにはどうすればよいのか。複雑な方程式を解かねばならないのが実情のようだ。

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友人のように名画と付き合う  結城昌子さん

photo_instructor_569.jpg結城昌子さんを、ひと言で表現するならば「やわらか~な」人である。
饒舌ではないけれど、聴衆の意識をそらせない絶妙な間の取り方、身体全体で醸し出す雰囲気が印象的な人である。
なによりも、これまでにない、新しい絵の楽しみ方を見つけ出そうとする柔軟な視点が素晴らしい。


結城さんにかかると、ゴッホの絵は「うずまきぐるぐる」になり、
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ピカソの絵は「あっち向いてホイ」になる。
pikaso.bmpのサムネール画像
確かに言われてみれば、ゴッホの月光や陽光の描き方は「うずまき」に見えるし、ピカソが描く人物像は、「あっち」を向かんばかりに見える。
画家の創造性が、「これまで誰もしなかった新しい描き方」にあるとすれば、これまで誰も試みなかった、新しい絵画の楽しみ方を見つけ出すのが結城さんの才能なのかもしれない。

アートは、人類(先人)が残してくれた宝物。額縁に入れて厳かに飾り置くのではなく、お気に入りのオモチャのように、愛しみ、撫で回し、いつも傍らに置いて楽しむ。
「親しい存在にする」ことが、結城さんがこだわるアートの楽しみ方である。

『原寸美術館』という企画は、アートの新しい楽しみ方を探し求めた結城さんが辿り着いたひとつの到達点だという。
多くの絵画は、全図ではけっしてわからない魅力を秘めている。
例えば、修復がなったばかりの「最後の晩餐」は420 x 910 cm の巨大なものである。全図では、食卓テーブルに描かれた晩餐の内容まではわからない。
最後の晩餐.jpgのサムネール画像
この絵を、ひとつのお皿にフォーカスして原寸で再現してみると、皿の料理は魚の切り身(結城さんにはサバの塩焼きに見えるとか)だと分かる。しかも添え物のレモンスライスの輪郭が銀食器に映り込むさまも、詳細に描かれていることに気づく。ディティールに込められたダヴィンチの魂を感じることが出来るという。

「いい絵というのは、いろんな見方を許してくれると思います」
結城さんは言う。
だから、名作はいくら見ても飽きない。見れば見るほど新しい見方、楽しみ方が見つかる。

絵を知るということは、友人を理解することと同じだとも言う。
その人のプロフィールを調べてから友人を作る人はいない。なんとなく意気が合うと感じる人と付き合いながら、互いの理解を深めていく。
同じように、名画を見るのに事前の知識は必要ない。感性で惹かれた絵を、何度も何度も、いろんな角度、やり方で眺めて見る。調べてみる。もし見れば見るほど新しい見方、楽しみ方が見つかれば、その絵とは一生の付き合いが出来る。

講演の最後で、結城さんから聴衆ひとり一人に名画のポストカードがプレゼントされた。
ちなみに私がもらったのはボッティチェリの「ビーナスの誕生」であった。
今秋のagoraで「阿刀田高さんと読み解く【古代ギリシャ・ローマの知恵】」という講座をやる予定なので、ピッタリだ。
オリンポスの神々を虜にしたという美の女神アフロディテ(ラテン語でヴィーナス)の艶やかな物語をもう一度読み直すことにしよう。


この講演に寄せられた明日への一言はこちらです。
http://sekigaku.jimdo.com/みんなの-明日への一言-ギャラリー/7月13日-結城-昌子/

この講演には「感想レポート」を応募いただきました。
名画は遊んでくれる(オトマカス/会社員/40代/男性)

日本の失敗  アレックス・カー氏

日本は近代化に失敗した」
「日本は日本ではなくなった」

photo_instructor_568.jpgアレックス・カー氏が9年前に上梓した『犬と鬼』には、日本人には耳の痛い辛辣な言葉が並んでいる。
日本をロクに知らない嫌日派の戯れ言であれば聞き流せばよい。しかし、五十年近い日本在住歴を持ち、日本文化をこよなく愛する、とびっきりの日本通が呈する苦言だけに、胸にトゲ刺す思いがする。

いったい、日本のどこが失敗なのか。何をもって日本が日本でなくなったのか。
講演では、"景観"という観点から、失敗の具体例を紹介してくれた。カー氏が日本をくまなく歩いてカメラに収めた「現在の日本」の姿である。

護岸をコンクリートで覆われた清流、電柱で電線が煩雑に交差する町並み、「夢」「~トピア」「人にやさしい」というキャッチが冠せられた観光スポットetc。

正直に言うと、信州の田舎で育った人間である自分には、何が失敗なのか、すぐに分からなかった。
地方に車を走らせれば、どこにでもある、当たり前な光景ばかりである。私はすでに、そばにあり過ぎるものを見えなくなっている。

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「脳を鍛える」ということ 川島隆太さん

photo_instructor_553.jpg川島隆太先生が脳科学を志したのは中学生の時だったという。
好きな女の子に振られ、自分の気持ちが伝わらない、相手の心がわからない、いったい人間のこころとは何なのか、という思春期特有の悩みに直面した。
その悩みの末に、「人間の心は脳の中にどう表現されているのかを知りたい」という関心を持ったというのが、脳科学の道に進む出発点になったとか。
ニュートンを彷彿させる思考・関心のジャンプが出来たあたりは、早熟の天才科学少年だったのかもしれない。

さて、川島先生によると、「脳は小宇宙」という俗説的な表現は、実に理にかなったものだという。
大脳の平均ニューロン数は2×1010個。銀河の星の数とほぼ同じだという。
その統計情報処理能力は4×1015bit。最先端PCのCPU処理能力が64bitであることを考えると、とてつもない高性能マシンでもある。
わからないことが、まだいくらでもあるわけだ。

川島先生の専門を、分かり易い言葉にすれば、「脳を鍛える」方法の開発である。
具体的には、脳の「前頭前野」の機能を高める方法を開発することだ。
人間の前頭前野は、思考、集中、意思決定、行動・感情制御、意欲、コミュニケーションといった機能を受け持つ。人間を人間たらしめる、いわば"人間らしさ"を所管する場所である。
残念なことに、前頭前野の働きは、加齢とともに緩やかに減少することが分かっている。従って、「脳を鍛える」ことで、この減少を抑えることができる。あるいは、若年層であれば、機能そのものを向上させることもできる。

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よりよく生きるための自己表現 佐藤綾子さん

「自己表現の科学」
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佐藤綾子氏の提唱するパフォーマンス学を簡潔に表すとこう言える。
表情、声、言葉、立ち居振る舞いといった自己表現の諸要素を科学的に分析し、根拠にもとづいて最も効果的な表現方法を提示することを目指している。

佐藤氏は、研究対象とする数十分の自己表現(例えばオバマ大統領の就任演説)を言葉、表情筋の動き、視線の動き等に要素毎に分けて、秒単位(時にはコンマ単位)でコード表に落とし、どの要素を、どの程度、どういう組み合わせで使うことで、人を感動させたのかを分析する。

「私の話は一分間に266文字です」
「好感がもてる人かどうかの60%は顔の表情で決まります」
「人の感情は2秒で読み取れます」

自己表現のありようを極めて具体的に語れるのも、それが自らの研究調査に基づいた根拠のある数字だからである。

サウンドバイト=分かりやすくて響きがよく、覚えやすい言葉を使うことで聴衆を掴む
例:「自民党をぶっ壊す」

連辞=似た意味、似た響きの言葉を連呼することで聴衆を掴む
例:「恐れず、ひるまず、とらわれず」

ブリッジング=聴き手の身近な話題を投げかけることで、相手との間に橋をかける
例:「湯布院とかけて自民党と解く。そのこころは、先が見えない」

小泉純一郎、進次郎父子という天才演説家の例を使いながら説明してくれたメソッドは、効果と使い方を憶えれば、誰にでも再現性がある。

自己表現が科学である所以である。


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日本人らしさとは何か 田口佳史さん

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天の命ずるをこれ性と謂う

私はこの2年間で田口さんの講義を二十回以上聴いてきたが、高い頻度で引用されるのがこの言葉である。(四書五経のひとつ『中庸』の冒頭文)

天が人間に分け与えたもの、つまり人間を人間たらしめているものを「性」という。性とは、精神であり、意識であり、魂である。

我々が使う「人間性」という言葉の意味が、ここにある。

日本(人)にも、日本(人)「性」がある。
日本(人)を日本(人)たらしめている日本"らしさ"。精神・意識・魂がある。
それが日本文化と日本人の根幹にある。
田口さんのお話は、そういうことであった。

日本性・日本らしさは、日本の地理的特性に由来したものだ、と田口さんは見る。
ひとつは「森林山岳国家」という特性。
豊かな森と聳え立つ山に囲まれて生きてきた日本人は、自然の中に人智を超えたとてつもなく大きな存在を感じてきた。
それはかつて、「隈(クマ)」と呼ばれ、「カムイ」「カミ」へと変化していった。
日本の「神信仰」はこうして生まれた。
「神信仰」は、鋭い感性と深い精神性に支えられていた。
だから、日本の神には、西洋のようなアイコンは必要なかった。偶像も、聖遺もいらなかった。自然の中に、見えないものを感じ取り、こころを尽くすことができた。見えないものと共生する意識を持っていたからだ。

もうひとつの地理的特性は、「ユーラシア大陸の東端」であったということ。
あらゆる文化・思想・宗教は大陸を西から東へと渡り、日本に辿り着いた。日本は思想の集積地であり、そこに「溜まり」発酵をみた。
儒教も、仏教も、老荘思想も、禅も、日本人の鋭い感性と深い精神性によって発酵し、日本性・日本らしさを強化する理論的な裏づけとして根付いていった。

日本性・日本らしさとは、「鋭い感性と深い精神性によって、目には見えない、形にならない、文字には表せない抽象的世界観をリアルに感じ取り、他者と共有すること」と言えるのではないだろうか。

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