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『夕学五十講』のwebサイトが更新されました。

2011年前期『夕学五十講』の詳細案内をアップしました。

夕学五十講WEBサイト

プロフィール、写真、講演内容(全員ではありませんが)が掲載された講師ごとの紹介ページもご覧いただけます。
受付開始開始は来週月曜日(2月28日)の10時からです。

次期『夕学五十講』のラインナップ

次期の『夕学五十講』の受付は、2月28日(月)から申込・予約の受付を開始する予定ですが、全てのラインナップが記載された速報版を夕学のサイトに掲示しています(PDF版)

4月13日(水)の藻谷浩介さん(ベストセラー「デフレの正体」の著者)から始まり、全25回を予定しています。

夕学五十講webサイト

受付開始は、2月28日(月)10:00ですので、もうしばらくお待ちください。

田口佳史さんに問う中国古典 【大学の道】 その3

昨日のブログで、大いなる学び(Great Learning)の道は、1)明徳を明らかにすること、2)民に親しむこと、3)至善に止まることの三つであると言いました。
これは「三綱領」と呼ばれています。
『大学』には、「三綱領」の下に、「八条目」と言われる八つのキーワードがあります。

「格物」「知致」 「誠意」「正心」 「修身」「斉家 」 「治国」「平天下」

物格(ただ)して知致る。知致りてのち意誠なり。意誠にしてのち心正し。心正しくしてのち身修まる。身修りてのち家斉(ととの)う。家斉ひてのち国治まる。国治まりてのち天下平らかなり。

冒頭の「格物」「知致」という言葉は、その読み方・解釈を巡って古代から喧々諤々の論争が展開され、いまもって複数の解釈が存立すると言われているそうです。

「格物」とは、当事者意識をもって物事に向き合うこと
「知致」とは、人間の叡智を極めること

田口先生は、それぞれを上記のように解説してくれました。

当事者意識をもって物事にあたれば、自ずと知恵が湧き出てくる。それが人間の叡智である。 そんな意味になるでしょうか。

「誠意」とは、こころの声に誠実になること
「正心」とは、こころの中に基軸を持つこと
「修身」とは、自身の身を修めること

叡智を極めていけば、おのずと自身のこころに誠実になれる。こころに誠実になれば、揺るぎない基軸が形成される。こころに基軸がある人は、自然と身も修まってくる。

借りものの知識・理論に頼り過ぎず、当事者意識をもって事象に向き合い、叡智を絞って考え抜くことが、自分の内面を鍛え、価値観の形成に繋がっていくという『大学』の根本思想がよく伝わる文章だと思います。

「斉家 」「治国」「平天下」については説明するまでもないかと思います。
個人の精神性・自律というミクロな問題が、国家・社会というマクロな領域へと連鎖していくことを諄々と説いているのがおわかりいただけると思います。

「物に本末あり、事に終始あり」
この世の物事の「本末と終始」、道理を形成するメカニズムの根幹は、「格物」「知致」である。当事者意識をもって物事に向き合うこと、考えて考えて考え抜いて叡智を極めることである。それこそ、大いなる学び(Great Learning)の道である。

町の寺子屋に集う童から昌平校の大学者まで、あらゆる人が、各自時々の課題を抱え、幾度も読み返したという『大学』の汎用性を、あらためて感じます。


田口佳史さんの中国古典シリーズ、次回は4月11月(日)から開講します。
今度の教材は、『孫子』です。
兵法の書、戦略の要諦として活用されてきた本ですが、今回は少し切り口を変えて、「人生の戦略書」として読んでみようという趣向です。
ご興味のある方は、是非受講をご検討ください。

田口佳史さんに問う中国古典【人生の戦略書・孫子】

田口佳史さんに問う中国古典 【大学の道】 その2

『大学』の英語表記はGreat Learingだそうです。
英語の方が、言葉の持つイメージがよく分かりますよね。
"大学"とは、大いなる学び、つまりGreat Learingとは何か、を真正面から問い掛けるものです。

田口さんは言います。
『大学』の大意は、冒頭の一言で言い尽くされている、と。

大学の道は、明徳を明らかにするに存(あ)り、民に親しむに存り、至善に止まるに存り。

いきなり結論を言い切っています。
大いなる学びの道は、1)明徳を明らかにすること2)民に親しむこと3)至善に止まること、この三つの実践の中にある。

最初の「徳」という概念が、『大学』ひいては『論語』など儒家思想における最重要概念だと言われています。
わたし達は、「徳」という言葉を当たり前のように使っていますが、意味の理解についてはかなりあやふやではないでしょうか。
学校教科の「道徳」の印象が強いので、「徳」=倫理意識、品性といった意味で理解することが多いかと思いますが、田口さんは、もう一歩踏み込んで「徳」を解説してくれました。

曰く「徳とは、自己の最善を他者に尽くしきること」

この定義には、人間の価値は、その人固有の属性に由来するものではなく、周囲の人々、社会との関係性の中で、立ち現われてくるものだ、という根本思想があります。
「徳」のある人は、自己の利益を優先せずに、他者のためになること、周囲にとって有意なことに自己の最善を尽くす。それが人間にとっての倫理であり、品性の根源だということではないでしょうか。

私は、「徳」の意味を、さらにもう一歩拡大解釈して、「社会における自らの役割を全うすること」だと解釈しています。
他者に尽くすという表現だと、依存的な感じがしますが、自分を含めた社会の中で自分の役割に全力を尽くすことだと考えると、「徳」という言葉は、大いなる学びの道の第一に掲げるにふさわしい壮大なテーマに感じませんか?

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田口佳史さんに問う中国古典 【大学の道】 その1

agoraの中国古典シリーズを田口佳史先生にお願いをするようになって、次回(2011年4月開講)で4回目になります。
『論語』『老子・荘子』は、それぞれ講義をベースにした書籍も出来て、こちらも大好評のようです。
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田口さんは、おそろしく懐の深い人です。
相撲に擬えれば、相手の力や技を真正面から受け止めているのに、いつの間にか自分の十分な形になっている。 そんな感じでしょうか。

『論語』の中に、「われ、少(わか)くして賎し ゆえに鄙事に多能なりという一説があります。
孔子は、若い時分に苦労をし、いろいろな経験をしたので、世の中の些事に至るまで、何でもこなすことが出来る、という意味です。
前後の文章から、孔子は自分の「鄙事多能」を誇るのではなく、君子たるもの鄙事に多能であってはならない(ドンと構えた大人(タイジン)であるべきだ)と逆説的に諭しているというのが一般的な論語解釈ですが、私は、この一文を読むと、孔子には「鄙事多能」をちょっぴり誇らしげに思う気持ちもあったのではないかと感じます。

実は、福沢諭吉も「鄙事多能」を自負していて、『福翁自伝』の中には、家財道具の修理や値切り交渉などが得意であったと、自慢げに詳述しています。

孔子、福沢諭吉が、「鄙事多能」を、やや誇らしげに語る時、その真意は、些事がこなせることを自慢することにあるのではなく、世の中の本末、表裏を隅々まで見聞体験してきた末に、物事の道理を知ったのだという経験の深さを誇りとすることにあるようです。

田口さんも「鄙事多能」の人ではないでしょうか。

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「感想レポートコンテスト」優秀賞の発表

今期の夕学では、新しい企画として、「明日への一言」「感想レポートコンテスト」をスタートさせました。
いずれも講演内容・感動を内部のインプットするだけでなく、何らかの形でアウトプットしていただくことを目的としたものです。

認知心理学の知見によれば、人間の学習は、情報を得ただけでなく、それを加工・編集し、外部に表現することでより強固になると言われています。
「明日への一言」「感想レポートコンテスト」は、その一助としていただくと同時に、他の方々に公開・共有することで、新たな気づき・発見につながる機会になることを期待して行いました。

おかげさまで、「明日への一言」は、毎回20~40の一言コメントを寄せていただきました。
「感想レポートコンテスト」には、37件の応募をいただきました。
本当にありがとうございました。

このび、応募いただいた中から優秀賞を選出させていただきました。
白澤健志さん(会社員・40歳)です。
白澤さんは、11/1の金井真介氏(ダイヤログ・イン・ザ・ダークジャパン代表)と11/18の甲野善紀氏(武術研究者)の2回に渡って応募いただきました。
いずれも、卓越した文章表現で、講演内容・講師の魅力を余すところなくご紹介いただきました。
優秀賞の賞品として、来期の「夕学パスポート」を贈呈させていただきます。

皆さまへのご報告とともに、改めてこの場でもご紹介させていただきます。

・暗闇を手探りで18年 ~金井真介という焚火~ (白澤健志/会社員/40歳/男性)

・「気づかれざる革命 ~甲野善紀という親指~」(白澤健志/会社員/40代/男性)

両企画ともに、来期も継続して実施しますので、引き続き多くの皆さまのご参加をお願い申し上げます。

阿刀田高さんと読み解く【旧約・新約聖書とキリスト教】その4

国家であれ、企業であれ、宗教組織であれ、ある社会システムが大きく発展するためには、二つの役割が必要になります。
ひとつは、身をもって、その精神を具現してみせる「象徴」の役割
もうひとつは、大きな絵を描き、道筋を示す「戦略家」の役割
イエス亡き後のキリスト教(正式にはイエスの死後にキリスト教が生まれました)が世界宗教へと拡大の道を進む上にも、二つの役割が必要となりました。

阿刀田さんによれば、イエスの弟子達のうち、「ペテロ」「パウロ」の二人がそれぞれの役割を果たしたそうです。
『新約聖書』の使徒言行録は、弟子達による布教・伝道の記録ですが、その主役ともいえるのが「ペテロ」と「パウロ」です。
ペテロ41ZPC2NX7BL__SL160_.jpg

ペテロは、イエス生前の十二人に使徒の筆頭格にあたります。リーダーにいち早く付き従い、たたき上げの最側近として仕えてきた人物です。
もともとガレリヤ湖の漁師で、知性派ではありませんでしたが、誰よりもイエスを信じ、誠実な人柄と行動で知られ、命懸けの布教を宿命づけられた使徒達の「象徴」にふさわしい人物でありました。
初代ローマ教皇に叙せられており、バチカンの法王庁はペテロの墓の上に立つと言われています。サン・ピエトロ広場(寺院)の命名も彼に由来します。

パウロは、十二人の使徒には入っていません。イエスの死後に頭角を現した人物です。
当時の知識言語であったギリシャ語に堪能で、ローマ市民権を持つ知識派のユダヤ人でした。ユダヤ教の信者として、キリスト教を弾圧する立場にいましたが、ある日、神の預言を授かり、生涯をキリスト教の布教に捧げることになりました。
キリスト教が世界宗教へと拡大できた理由は後述しますが、それに際して、パウロのギリシャ語の能力、ローマ世界への人脈は大きな武器になったと思われます。

二人は、さしずめ、創業社長亡き後の会社にあって、「社員の信頼が厚い、たたきあげの専務」と「MBAを持ち、英語にも堪能な外様常務」といった感じでしょうか。
二人が正面から権力争いをすると会社は崩壊しますが、外様常務がたたきあげ専務を立てつつ、巧みに役割分担をしたことで、株式会社キリスト教は発展をしました。

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阿刀田高さんと読み解く【旧約・新約聖書とキリスト教】その3

「イエス・キリスト 最後の12時間」

ショッキングなキャッチとリアルな拷問描写で話題になった『パッション』(主演メル・ギブソン)の公開は記憶に新しいところです。
あまりに悲惨なキリスト拷問の映像に心臓発作を起こした観客もいたと言われました。
パッション.jpgのサムネール画像

この映画が扱う「イエス 最後の12時間」、ユダヤの神を冒涜したとして十字架刑の判決を下されたイエスが、激しく鞭打たれた末ゴルゴダの丘で磔刑に処せられる場面と、それに続く復活劇は、『新約聖書』最大のクライマックスです。
イエス・キリストは、すべての人々を許し、すべての人々の罪を背負って死んでいきます。そして預言通りに3日後に復活をします。
これをもって「キリスト=神の子論は完結した」
阿刀田さんは、そう喝破します。


『新約聖書』が書かれたのは、AD50年頃から150年頃にかけて。イエスの弟子や孫弟子、曾孫弟子の手によって書き綴られていきました。
この頃、ユダヤ民族は苦難の時代を迎えていました。
AD70年に最後の籠城地マサダが陥落し、イスラエルはローマ帝国の支配下に零落します。
『旧約聖書』に記された「救世主」が現れ我々を救済してくれるはずだ。
そんな願望が、多くの人々の意識中に渦巻いていました。
この中で、イエス・キリストは生まれ、『新約聖書』の世界が展開されたのです。

『新約聖書』は、社会変革家イエス・キリストの伝記として読める。
これが阿刀田さんの解釈です。

『新約聖書』は、四つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)、12人の使徒言行録、ヨハネの黙示録の三部によって構成されています。
四つの福音書は、有名な「受胎告知」から始まってイエスの生涯を記述するもので、いわば『新約聖書』の教義部分と言えるそうです。
使徒言行録は、ペテロ、パウロを中心にした弟子達のキリスト教布教・伝道の記録にあたります。
黙示録は、神が考える(と思われる)死語の世界の小説風表現であり、キリスト教の終末観を表しているそうです。

阿刀田さんは、『旧約聖書』同様に、阿刀田流『新約聖書』論を展開し、社会変革家イエスの生涯と、彼は如何にして神の子になったのか、持論をお話しされました。

「受胎告知」と言えば聞こえはよいけれど、父母(ヨセフとマリア)による男女の交わりを経ずして生を受けたという意味では、なんらかの事情のもとに生まれた「庶子」ともいえる。
その影響か、若くして家を出たイエスは20年近い空白の時間を経て、30歳を過ぎて突如ガリラヤ湖に姿を現す。
この間、彼は当時各地にあったユダヤ教の密教的集団に属していたのではなかったか。その後の「奇跡」遍歴の記述を丹念に読むと、そういう推測が成り立つ。

という大胆な説です。
『砂の器』を彷彿させる推理構成力といえるかもしれません。

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阿刀田高さんと読み解く【旧約・新約聖書とキリスト教】その2

「私は、在って、在り続ける者だ」

この講座が始まる前に、ちょっとしたウォーミングアップのつもりで、セシル・B・デミルの『十戒』を鑑賞し直しました。8530436.jpg
『旧約聖書』の出エジプト記を題材にした名画です。
モーセ(チャールトン・ヘストン)率いるイスラエルの民が、海を割って出エジプトを果たすシーンや、モーセが神から十戒を授かる場面が有名ですが、私は冒頭の一言が妙に心に引っかかりました。・

エジプト王の子として育ったモーセは、イスラエル人を酷使する政策に憤り、エジプトを飛び出して放浪生活を送る中で、シナイ山の麓で「神の啓示」を聞きます。
あなたは誰ですかと問うモーセに対して、神が告げるのがこの言葉でした。

「在って、在り続ける者...」
いったい何のこっちゃろう? これで意味がわかる人がいるのかしらん?
強い違和感が胸に残りました。
自分で言うのも何ですが、いま考えてみると、この言葉に引っかかったのは、結構いいポイントを突いていたのではないかと思います。
なぜならこの言葉に、「旧約聖書」のコアがあると思うからです。

英語で言うと、「 I am that I am 」だそうです。
私は「ある」という者である...? もっと意味がわかりませんね。

実は、この言葉こそ「唯一絶対」「全知全能」の一神教を象徴する表現のようです。

神とは神なのだ。神はこの宇宙が生まれるずっと前から存在し、万物の創世主である。
神に造ってもらった人間が、神とは何かを問うこと自体がおかしい。
神に間違いなどない。矛盾もない。疑ってもいけない。
人間が遭遇する如何なる悲劇も、辛酸もすべて、神が人間に与えた罰であり、試練である。

そんな神と人間の関係を規定するのが『旧約聖書』に他なりません。

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阿刀田高さんと読み解く【旧約・新約聖書とキリスト教】その1

夕学プレミアム「agora」レポートの第二弾は、作家の阿刀田高さんによる「聖書とキリスト教」講座です。

阿刀田高さんと読み解く【旧約・新約聖書とキリスト教】

「西洋を知るための教養」として聖書を学ぶことを目的にした講座を、阿刀田先生にお願いした理由と経緯は、かつてのこのブログにも書いたことがあります。
この時の期待通りに、楽しく、興味深く「聖書とキリスト教」を学ぶことが出来ました。

阿刀田先生は、お人柄あくまでも温厚で、気配りの行き届いた人格者です。それでいて、身体の芯には、一本ピシッと筋が通っていて、作家として守るべき一線をしっかりと持っている方のようです。
人間としての「規矩」を持った人と言えるのではないでしょうか。

信仰を持たない人間が聖書の記述やエピソードを読むと、いろいろな疑問や不可思議な点がてんこ盛りに積み上がります。
「こんな変なこと聞いていいのかしらん?」という不埒な疑問も多いのですが、阿刀田先生を前にすると、「何でも聞ける」「何でも言える」という雰囲気になって、素直に愚問を口にすることも出来るから不思議です。

阿刀田さんには、大衆が抱く素朴な疑問や関心を上手に受け止め、その中からエッセンスを抽出する濾過器のような能力があるようで、どんな質問もウェルカムで、相手に寄り添いながら丁寧にお答えいただきました。

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菊澤研宗教授による【ドラッカー再発見】 その4

96歳という長寿を生きたドラッカーの前半生の集大成ともいうべき著作が、『現代の経営』(1954年、ドラッカー45歳の作品)です。
ニューヨーク大学の教授として経営学者の地位を確立したドラッカーが、これまでの考えを統合する書として書き上げたと言われています。
彼は、この本をもって「マネジメントの発明者」の称号を得ることになりました。

ドラッカーは、『産業人の未来』の後に、同書を読んだアルフレッド・スローンの招きでGM社の調査研究を行い、その成果は三作目の『企業とは何か』(1946年37歳時)にまとめられました。
「自由な産業社会」の主役が企業であることを透徹していたドラッカーは、企業が社会責任を果たすということは、どういうことなのか。企業経営にどのようにして自由を取り込むことが出来るのかに思いを巡らせていきました。
そして、その問いに答える鍵は「マネジメント」にあると考えたのでした。

「来るべき自由な産業社会の主役である企業経営のあり方として、「人間主義的マネジメント」という概念を掲げ、具体的なマネジメント論を展開した。」
菊澤先生は、この本をこのように概観しています。

「人間主義的マネジメント」とは、『産業人の未来』で明らかにした「機能する社会」のあり方を、具体的な企業経営論に落とし込んだものと言えるでしょう。

・自由人(自律的人間)である社員に対して、「位置」と「役割」を与える。
・企業は、社会の利益を会社の利益に転換することで、権力の「正統性」を与えられる。
・マネジメントとは、事業に命を吹き込むダイナミックな存在、有機的な機能である。

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菊澤研宗教授による【ドラッカー再発見】 その3

ドラッカーが29歳の時に発表した『経済人の終わり』は、チャーチルが絶賛し、書評を書いたこともあって、ドラッカーの名声を一気に高めることになりました。
同時期に米国に移住し、フリージャーナリスト、大学教授とキャリアを積みながら、ドラッカーは、「経済人の時代」の次に到来すべき新しい時代のあり方について思索を深めていきます。
そして、1943年、34歳の時、第二次世界大戦の最中に著したのが『産業人の未来』でした。

「来るべき平和の時代の姿を「自由な社会」として掲げ、そのために、いかにして産業社会を自由社会として構築すべきかを問題提起した」
菊澤先生は、この本を上記のように概観します。

「自由とは楽なことではない。それは幸福でもなければ安定でもない...」
「自由とは責任を伴う選択である、自由とは権利をいうよりも義務である...」
この本の中で、ドラッカーはさまざまな言葉・言い方で「自由」の概念を説明しようとします。しかし、肩に力が入り過ぎているせいか、やや冗長で、掴もうとするとスルリと両手から滑り落ちてしまいます。

そこで菊澤先生は、「カント的自由」の概念をフレームワークとして提示することで、ドラッカーが言いたかったことを見事に解説してみせました。

「人間を自由人(自律的な人間)として見なすこと」
それがドラッカーの「自由」であると。

自由な産業社会を実現するために
・企業は社員ひとり一人を自律的な人間とみなし、「位置」と「役割」を与えること
・経営者は、社会における権力の「正統性」を持つこと=社会に対する責任を果たすこと
この二つが果たされなければならない。

これが、ドラッカーが描いて見せた新しい時代のあり方です。

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菊澤研宗教授による【ドラッカー再発見】 その2

ピーター・ファンデル・ドラッカーは、1909年ウィーン生まれ。
落日前のオーストリア=ハンガリー帝国で、上流知識人階級の子弟として育ちました。
オーストリア政府の経済官僚であった父親が主催する週毎のパーティーは、多くの知識人・文化人が集まる知的サロンであったといいます。
早熟だったドラッカーは、幼いながらもサロンに顔を出し、シュンペーターやハイエク、フロイト等と親しく会話を交わしました。

しかしながら、第一次世界大戦での敗北、続いて襲ってきた世界大恐慌の荒波を受けて、その生活も一変していきます。ドラッカーも、事務員やアナリストとして働きながらフランクフルト大学を卒業したといいます。

大学卒業後、ドイツで新聞記者として活躍し始めたドラッカーは、急速に台頭してきたナチスの取材にもあたります。ヒトラーやゲッペルスの単独インタビューも行いました。
民衆の熱狂的な支持を受けてナチスが政権を握る中、ドラッカーは、欧州伝統の「自由」が否定されていく風潮に大きな危惧を抱き、イギリスへ移住を決意しました。
瞬く間に欧州を席巻していったファシズムの嵐の中で、それに棹さす決意で書き上げたのがデビュー作である『経済人の終わり』でした。

「ヨーロッパ知識人の伝統的価値観である「自由」を脅かすファシズムに対抗し、「自由」を守る意思を固めることを目的としている」
菊澤先生は、この本をそう概観します。

ドラッカーは、ファシズム全体主義は何故ヨーロッパに跋扈しているのかをいくつかの角度から分析しています。

・20世紀の経済社会を担うと期待されたアダム・スミス的な初期資本主義が世界恐慌の前にあまりにも無力であったこと。

・労働者の自由と平等な社会を実現してくれるとして期待を集めたマルクス主義が幻想でしかないことが明からになったこと。

・長らく欧州社会救済機関として機能してきたキリスト教組織も、大変化の前には、私的な精神安定装置にしかなり得なかったこと。

ドラッカーの洞察は、多少の編集を施せば、百年後の現在の混迷状況を分析する言葉としても有効です。

「ヨーロッパの伝統的価値観であるはずの「人間の自由と平等」を基礎とする社会が形成されなかったことが問題。 それは、「経済人」の時代の終わりであり、新しい時代の必要性を示している」
菊澤先生は、ドラッカーの主張を、このようにまとめてくれました。

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菊澤研宗教授による【ドラッカー再発見】 その1

この講座は、昨今の"ドラッカーブーム"とは一線を画し、ドラッカーが「いわゆるドラッカー」になるまで、を取り上げた講座でした。

「いわゆるドラッカー」とは、"ドラッカーブーム"でいう「ドラッカー」、つまりマネジメントの発明者として、マネジメントの原理・原則を説く「ドラッカー」です。

この講座で取り上げるドラッカーは、そういうドラッカーではありませんでした。
もっと哲学的で、もっと社会的で、もっと政治的な、理屈っぽいドラッカーです。
ヨーロッパを席捲しつつあったナチスに敢然と向き合った、若き政治学者としてのドラッカーです。
戦火の中で、ヨーロッパ知識人の伝統に根ざした「自由な経済社会」を実現するためにどうすればよいかを徹底的に考え抜いた社会思想家としてのドラッカーです。

ドラッカーは、企業の利潤最大化のために「マネジメント」を発明したのではありません。
ドラッカーの考える「マネジメント」とは、企業経営を通して、社会をより良くするために紡ぎ出された概念です。
だとすれば、わたし達実務家が、いま、ドラッカーを読むことは、"ドラッカーブーム"とはまったく異なる意味で重要です。

ドラッカーを通して、社会において企業が果たすべき役割を考える。
それが、この講座の目的でありました。

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2月のブログはagoraについて書きます。

1月26日で今期の『夕学五十講』は終了しました。来期の案内は2月末を予定しています。
現在、依頼作業も大詰めで、あと数人というところまで詰まっております。是非、時期もご期待ください。

というわけで、2月はブログのネタがありませんので、夕学プレミアム「agora」について書きたいと思います。
10月から1月にかけて、6講座を開講しましたが、そのうちの3講座には、私も聴講生的な立場で参加をいたしました。

菊澤研宗教授による【ドラッカー再発見】
阿刀田高さんと読み解く【旧約・新約聖書とキリスト教】
田口佳史さんに問う中国古典 【大学の道】
の3講座です。
それぞれについて、2回~3回に分けてレポートをまとめてみました。
一回目は、「菊澤研宗教授による【ドラッカー再発見】」その1になります。