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「共同体」ではなく、「共異体」という発想を 小倉紀蔵さん

中国のGDPが日本を追い抜くこと。
韓国併合から100年を迎えること。
韓国思想・文化を専門とする小倉紀蔵先生は、この二つの事実をもって、「日中韓2010年問題」と呼んでいる。
それは、東アジアが150年前の「正常な姿」に戻ることに他ならない。言い方を換えれば、この150年が「異常な姿」であっただけのこと。
有史以来、経済的にも文化的にも、東アジアの中心は中国であった。その差は圧倒的であったのだから。
一方で、世界は異常化する。この20年の中国の急成長は、中国の影響力がグローバルしたことに他ならず、歴史上はじめて、東アジアが世界の中心になる時代が到来したのである。
これが21世紀世界に混乱をもたらすことは間違いない。

東アジア秩序の「正常化」と世界秩序の「異常化」という流れの中で、日本と韓国の果たすべき役割は何か。かつてのように、中国に盲従的に付き従うことではないはずだ。
新たな東アジア像を構築しなければいけない。ただし、日本人が、当然のように発言する日本中心の発想からも抜け出さなければならない。
それが、小倉先生の主張である。

「鍵を握るのは韓国である」
小倉先生は言う。

日本において、韓国の影響力はこの10年で飛躍的に大きくなっているという。
10年前、金大中が成し遂げた南北関係の劇的改善は、その後の小泉改革への世論の支援と無関係ではいと小倉先生はみている。
韓国の指導者のように、劇的に状況を変えてくれる強いリーダーを、日本は求めている。
韓流ブームで脚光を浴びる韓国俳優の魅力も、その強さにある。
公の場で世界平和をてらいなく語ることができる彼らの、理知的で真っ直ぐな姿勢は、日本のヒーローがすっかり失ってしまったものである。

経済的には、日韓の水平分業が当たり前になった。サムスン、LGは、日本企業にとってライバルであると同時に、顧客であり、パートナーである。
文化的にも、経済的にも、東アジアはハイブリッド化してきた。

しかし、見過ごしていけない大きな問題がある。
小倉先生は、そう指摘する。

文化・文明論の観点からみると、日中韓には大きな溝があり、埋まっていないという。
東アジアの文明は、ほぼすべてが中国発=儒教的思想・習慣にもとづいている。
中国、韓国は、いまもその色彩が色濃い、日本は薄い。
これは、表面的な習慣の違いというよりは、むしろ深いところでの、人間観・世界観の相違である。
小倉先生の言葉を借りれば、中国・韓国は「性善説」が生きている。人間の本性を善とし、社会に善を普及することを絶対視する。
不善なリーダーや政権は、転覆してもよいとするラジカルな思想である。
歴代中国の王朝は、そうやって易姓革命を繰り返してきた。
彼らの変化対応力、しぶとさ、上昇意欲の源泉には「性善説」があると小倉先生は言う。

一方で日本は、儒教的思想・習慣は導入しつつも、「性善説」を本格的に取り入れることはなかった。万世一系を尊び、継続性を重んじて、劇的な変化を嫌う習性がある。
中国、韓国は、それゆえに日本を信頼しない。日本も相手を理解できない。
歴史認識問題をめぐる根深い対立も、この相違に起因している

ではどうすればよいか。
東アジア「共同体」ではなく、「共異体」という発想を持つべきだ。
小倉先生は主張する。
互いに物事の見方・考え方の相違性を認め合うという価値観を共有するコミュニティ、それが東アジア「共異体」という名称に込められた小倉先生の思いであろう。
国家や民族の枠組みを越えたコミュニティとしては、EU(欧州経済共同体)が先輩格にあたるが、欧州は、表層的な文化共有体でも、経済協力関係体でもない。
何百年に渡って幾度となく、戦争を繰り返してきた、悲惨な歴史を通して、「人間とは何か」という哲学的な問いを突き詰めてきたという。
その結果がEUとして結実したのである。

東アジアで経済的・文化的な融合が進んだとはいえ、人間観・世界観の摺り合わせをすっ飛ばしたままで、真の統合はできない。
そのためには、互いに学び合うことである。学び合い通じて起きる、対立・錯綜の中から、東アジアならではの、新しい人間観・世界観が生まれる。
日本のアカデミズムに求められるのは、近代以降の西洋的方法論からの脱却し、東アジア「共異体」という混沌の名に身を置いて、そこから知の再編成を行うことであろう。

小倉先生の主張は、実にシャープであった。