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大人の役割  重松清さん

子供時代を経ずに大人になった人間はいない。だから、誰もが教育評論家になりえる。経験に基づいた「持論」や「物語」を語ることができる。
重松さんによれば、それは、子供の実像を見失い兼ねない危険なアプローチである。
誰もが語ることが出来るからこそやっかいなのだ。

「持論」「物語」を語ることが効果的なのは、それを聞く側にレディネス(学習者の準備性)が整い、その意味するところを解釈する力が備わっているという前提が必要だ。
教育において、大人が「持論」を語る時には、総じてこの前提の有無が無視される。親が子供に「お父さんの子供の頃は...」という話を繰り出す時は、特にそうだ。
聞きたくもない話、聞いても分からない話を、無理矢理聞かされるほど、鬱陶しいことはない。
ところが、多くの親は、「持論」を語るカタルシスに酔ってしまう。私も含めて...

重松清さんは、昭和38年生まれ。同世代人であるだけに私もよくわかるが、いまにして思えば良い時代であった。
親の世代のように「食べられない程の貧しさ」はない一方で、「豊かになっていく実感」をはっきりと認識できる時代でもあった。
冷蔵庫、カラーテレビ、クーラー等々が家庭にはじめて来た時の興奮を味わうことが出来た。
重松さんは言う。
「成長」と「標準」という価値観が社会全体を覆い尽くしていた時代であった。
もちろん、その時代も親は子供に「持論」を語っていた。そしてその「持論」は正しかった。「成長」と「標準」に覆われた社会は、子供達に、親が語る「持論」を受け止めるレディネス解釈力を保証してくれたからだ。

翻って現代の状況はどうだろうか。
「成長」が信じられなくなった。
「標準」は意味をなさなくなった。
支配的な統一価値観がなくなり、個性化と多様化が広がっている。
30年後の社会を見据えて語られる大人の「持論」が通用しなくなった。
それが、私達が突きつけられている現実である。

重松さんは、「それはけしって悪いこと、悲しいことではない」と言う。
「家族のあり方はどうあるべきか」という個人的な問題を、誰かに決めてもらうことの方がおかしい。これからは、誰がなんと言おうと、自分で決めれば良いのだ。

ただし、それはとてつもなくつらくて孤独な作業である。
昨日の南直哉さんの話にあったように、「答えがない」世界に他ならないからだ。
人間には、不安・苦悩から逃れようという本能がある。
「答えがない」世界で、自分なりの「答え」を作り出す作業は、不安・苦悩に直面することでもある。
その難題を前にして、子供達はもちろんのこと、私達大人も目を背けようとするばかりだ。

いまも昔も、子供の悩みは人間関係であるという。しかし悩みの質は大きく変わった。
かつては「友達が出来ない」ことが悩みであった。
いまは「友達といると気を使って疲れる」ことが悩みになったという。
大人の抱える人間関係と同じである。分からず屋の上司のフォローをし、わがままな取引先をヨイショし、無神経な部下を気遣う。
大人と同じ悩みと苦労を子供も味わっている。

だからこそ大人の役割がある。
重松さんはそう言う。
大人は、いろいろな人がいること、さまざまな世界があることを知っている。人生の幅の広さを、身をもって知っている。
思うようにならない事々をやりくりして、悩みながら、なんとか生き続けている。
その事実こそが重要なのだ。

人生に、悩みと迷いがあるから小説が書ける。映画にもなる。一直線に生きたら「物語」なぞ生まれない。

大人が、親が語るべきは、美しい「持論」ではなく、ゴツゴツとした「生き様」なのかもしれない。

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