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感情移入できるロボットを作る 高橋智隆さん

10年程前、ヒューマノイド型ロボット ホンダのASIMOの登場は、ロボット新時代の到来として、大いに話題になった。
個人的には、ASIMOの歩き方を見て、「何か不自然だなぁ」といつも感じていた。膝を折り、忍者走りのような姿勢で歩くからだ。
その頃、まったく同じ違和感を抱いている青年が京都にいた。
立命館大を卒業後、改めて京大工学部に入り直したばかりの高橋智隆氏である。
幼い頃からモノ作りが好きで、凝り性でもあった高橋さんは、ASIMOの上をいく画期的なロボットを、自分一人で作ってしまう。膝を折って歩行する不自然さを解消する、電磁吸着2足歩行という新技術を開発したのだ。
全身を黒くに塗ったことから「クロイノ」と命名されたそのロボットは、数々の発明・アイデアコンテストに軒並み優勝し、話題となった。
折からブーム化の様相を呈していた大学発ベンチャーの波に乗り、大学の薦めもあって、特許出願、ロボットベンチャー起業へと、トントン拍子に道が開けていったという。

少年時代、「鉄腕アトム」に憧れていた高橋少年は、アトムそのものよりも、アトムを作る側に、強く惹かれた。
バス釣りのルアーを手作りするような感覚で、木型を削り、プラスチックカバーを作る。
モーターやネジも、自分のデザインイメージに合うものを手作りしたり、加工した。デザインや色彩にもこだわった。
そこには、量産、標準化という言葉は存在しない。
作りたいものを、作りたいように作る。 それが全ての原点である。

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「意味」=「苦悩」+「希望」  福島智さん

きょうのブログは、福島先生が講演の後半で紹介されたヴィクトール・フランクルの言葉から始めたい。
ウィーン生まれの精神科医で、ユダヤ人でもあったフランクルは、ナチスの強制収容所に送られ、奇跡的に生還するという体験をした。
彼は自らの悲惨な経験を踏まえて、下記の図式を示しているという。

「絶望」=「苦悩」-「意味」

「苦悩」と「絶望」は同じではない、どんな「苦悩」にも必ず意味があり、その意味が失われた時に、「苦悩」は「絶望」となることを示している。
福島先生は、次のように言う。
「意味」を左辺に移行して、「絶望」を右辺に動かす。更に「絶望」の代わりに反対語である「希望」を足せば、図式は新たな展望を示しくれる。

「意味」=「苦悩」+「希望」

「苦悩」の中に「希望」を抱くこと、そこに人生の意味があると....。

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「私は、ちゃんと仕事をした」 井村雅代さん

「シンクロの井村雅代が中国チームのコーチを引き受けた」
このニュースは、ちょっとした驚きをもって人々に受け止められた。
アテネ五輪では立花美哉、武田美保を擁して、デュエット・団体の両方で銀メダルに輝き、花道を飾って勇退したとばかり思っていただけに、私達が「なぜ?」という思いを持ったのは自然のことであったろう。
しかし、その後のマスコミや日本水連の対応は、明らかに悪意に満ちていたのではないか。
「国賊」という死語さえも闊歩した。
欧米の強豪国や弱小の新興国であれば、ここまでの非難は起きなかったであろう。あらゆる分野において、日本にとっての脅威論が叫ばれていた中国が相手であったことが刺激を増す結果になった。
数年前、上海や北京の高級ホテルの週末は、初老の日本人男性で占拠されているという噂を聞いたことがある。定年間近の日本人エンジニアが、アルバイト代わりにノウハウを伝授しているというのだ。
事の真偽は知らないが、井村さんの中国行きが、同じ文脈で「ノウハウ流出」と受け止められてしまった。

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本の救世主 幅允孝さん

「出版は構造不況業種になった」という業界人の声を聞くことが増えた。
出版数は増えても販売数は増えない。膨大な新刊と売れ残りが出版社・仲卸・書店を行き来しているそうだ。
そんな悩める本業界に出現した救世主が、ブックディレクターの幅允孝さんではないだろうか。
本だけは「お小遣い別会計」という恵まれた環境で育った幅さんは、幼い頃から無類の本好きである。今では、月に40~50万円を本の購入代に費やすとのこと。しかも全て自腹である。

ブックディレクターとしての幅さんの立ち位置は明解である。

「自分の好きな本を共有したいと願うこと」

本が大好きな人間として、美味しいものをいろいろな人に知ってもらいたいように、好きな本を多くの人と分かち合いたいというのが根源欲求になっている。そのための、人と本の出会いの場をプロデュースするのが、幅さんの仕事ということになる。

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大人の役割  重松清さん

子供時代を経ずに大人になった人間はいない。だから、誰もが教育評論家になりえる。経験に基づいた「持論」や「物語」を語ることができる。
重松さんによれば、それは、子供の実像を見失い兼ねない危険なアプローチである。
誰もが語ることが出来るからこそやっかいなのだ。

「持論」「物語」を語ることが効果的なのは、それを聞く側にレディネス(学習者の準備性)が整い、その意味するところを解釈する力が備わっているという前提が必要だ。
教育において、大人が「持論」を語る時には、総じてこの前提の有無が無視される。親が子供に「お父さんの子供の頃は...」という話を繰り出す時は、特にそうだ。
聞きたくもない話、聞いても分からない話を、無理矢理聞かされるほど、鬱陶しいことはない。
ところが、多くの親は、「持論」を語るカタルシスに酔ってしまう。私も含めて...

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