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絶望の反対はユーモアだと思う 玄田有史さん

玄田先生の出世作とされるのは、8年前に著された『仕事の中の曖昧な不安』である。

「働くこと」について、曖昧な不安がうず巻いている。何が原因なのか、一体何がどうなるのか、よくわからない。曖昧な不安とはそういうものである・・・

ニートやフリーター、若者のうつ病、自殺などが社会問題化されはじめた頃、それらの問題の深層に漂う不安感と状況を「曖昧」という言葉を使って表現してみせた。
「曖昧」であることが問題なのではない。「曖昧」に耐えられなくなっていることが問題なのだと。

きょうの講演テーマ、「希望」という言葉にも「曖昧」があるという。
玄田先生が紹介した、ある外資系大企業での事例。
期待されながらも辞めていく女性社員に「なぜ辞めたのか」を聞いてみると、二通りの理由に分かれた。

「このまま続けていても先が見えない」
「この会社で働くことの先が見えてしまった」

「先が見えない」と「先が見えてしまった」、まったく対称的な理由で会社に希望が持てなくなったとすれば、果たして「希望」はどこにあるのだろうか。

「先が見えない中でのかすかな光」「先が見えたと思った仕事でみつけた些細な発見」
「先が見えない」と「先が見えてしまった」の挾間にある「曖昧」な感覚の中にこそ、希望があるのではないか。
玄田先生は、そう考えている。

「希望学」が必要とされている事実を逆説的に言えば、希望がない時代と言えるかもしれない。
その理由のひとつは、「わかりやすさ」への過剰評価であると、玄田先生は言う。
授業評価も、講演も、書籍も、テレビのコメントも、全て「わかりやすい」ことを重要視している。でもそれで本当にいいのだろうか。

例えば、玄田先生の専門である「経済学」の目的は、「どうすれば皆がハッピーになれるか」を究明することにある。福澤諭吉が、「Economy」に、「経世済民」の略語として「経済」という造語をあてた所以である。
しかし、経済学はいまだに「どうすれば皆がハッピーになれるか」を解明しえていない。ひょっとしたら永遠に答えに行き着かないかもしれない。世の中の多くの問題は、そういうものではないだろうか。
「わかりやすさ」への過剰評価は、「わかりにくい」ことへの違和感に耐えられなくなっていることの裏返しではないのか。
それが、玄田先生の問題意識である。

では、「希望」という曖昧なもの、わかりにくいものに、どう向き合えばよいのか。
玄田先生は、有名女性歌手が語ったという言葉を引き合いにして提言する。

「絶望の反対って何だと思う」
「私はユーモアだと思う」

生きること、働くことをめぐる不条理を和らげる、ほんのちょっとしたおかしみ。
そこに希望の糸口がある。

「大丈夫!」という言葉にも、同じ効用がある。
「大丈夫(か)?」ではなく「大丈夫(だよ)!」
そのひと言で眼前に漂う霧がふっと晴れて、救われることだってある。
もちろん、やみくもの「大丈夫!」ではなく、「こうすればきっと大丈夫!」という、経験に基づいたアドバイスとしてである。

玄田先生が、希望学プロジェクトで調査に訪れた釜石市は、かつて地方の希望の星と謳われた華やかな時代を経験しながら、いまは過疎と衰退に悩む地方都市である。
希望と挫折の両方を経験した街と言えるだろう。
釜石の人々が語る人生や故郷への想いに耳を傾ける時、こころに残るのは、彼らの潔さであり、ユーモアであり、「大丈夫!」の精神であるという。
大きな挫折を、自分の言葉で、吶々と語ることができる飄々とした「強さ」を持った釜石の人々は、玄田先生にとっての「week ties」になった。

大きな壁にぶつかった時、壁を乗り越えようなどとは考えない方がいい。
諦めて壁の前から立ち去らずに、ひたすら壁の前をうろうろすればいい。
ひょっとしたら思わぬ穴が見つかるかもしれない。
誰かがロープを降ろしてくれるかもしれない。
壁の前から居なくなったら誰も気づかない。
だから、ただ、うろうろすればいい。ユーモアを忘れずに、「大丈夫!」の精神を持って。

横沢彪さんが吉本興行の新入社員に伝えるというメッセージを例に取りながら、「希望」という曖昧なもの、わかりにくいものへの向き合い方を示してくれた玄田先生。

「ユーモア」「大丈夫!」「わからない」
それらは、玄田先生を評する際のキーワードでもあることに気づいた。