部分という名の幻想 福岡伸一さん
三島由紀夫はかつて、柳田国男の『遠野物語』をして「これこそが小説である」であると激賞しました。
民俗学者であった柳田が、遠野出身の青年 佐々木喜善が語った山深い故郷の昔話を、聞き書きしてまとめたというこの本に、人を慄然とさせる文学の本質を、三島は見いだしたと言います。
柳田が『遠野物語』に込めたのは、「これを語りて平地人を戦慄せしめよ...」という前文の一節に代表されるように、忘れ去られた縄文精神の代弁者としての力強い宣言でした。
科学啓蒙書としてはもちろん、文学としても高い評価を得た『生物と無生物のあいだ』という本に、福岡先生が込めたのは、生命機械観の呪縛にとらわれ、途方もない過ちを犯しているかもしれない現代科学の世界に対する、強い危機感だったようです。
福岡先生によれば、「生命とは何か」という深遠な問い掛けに、ひとつの答ええを提示したのは、デカルトの「機械的生命観」だったそうです。生命とはミクロの部品から構成されるプラモデルのようなものだという認識です。
この思想は生命科学の基底に生き続け、20世紀の中頃には、「生命とは自己複製するシステム」であるという生命観に結実しました。
ワトソン・クリックが発見したDNAの二重らせん構造は、生命が自らの中に、自己を複製する機能をもった、25,000種の遺伝子からなる高性能コピーマシンであることを証明したと言われます。
