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部分という名の幻想 福岡伸一さん

三島由紀夫はかつて、柳田国男の『遠野物語』をして「これこそが小説である」であると激賞しました。
民俗学者であった柳田が、遠野出身の青年 佐々木喜善が語った山深い故郷の昔話を、聞き書きしてまとめたというこの本に、人を慄然とさせる文学の本質を、三島は見いだしたと言います。
柳田が『遠野物語』に込めたのは、「これを語りて平地人を戦慄せしめよ...」という前文の一節に代表されるように、忘れ去られた縄文精神の代弁者としての力強い宣言でした。

科学啓蒙書としてはもちろん、文学としても高い評価を得た『生物と無生物のあいだ』という本に、福岡先生が込めたのは、生命機械観の呪縛にとらわれ、途方もない過ちを犯しているかもしれない現代科学の世界に対する、強い危機感だったようです。

福岡先生によれば、「生命とは何か」という深遠な問い掛けに、ひとつの答ええを提示したのは、デカルトの「機械的生命観」だったそうです。生命とはミクロの部品から構成されるプラモデルのようなものだという認識です。
この思想は生命科学の基底に生き続け、20世紀の中頃には、「生命とは自己複製するシステム」であるという生命観に結実しました。
ワトソン・クリックが発見したDNAの二重らせん構造は、生命が自らの中に、自己を複製する機能をもった、25,000種の遺伝子からなる高性能コピーマシンであることを証明したと言われます。

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中央集権国家への胎動 『海舟がみた幕末・明治』(第10回)

1968年(慶應4年)3月14日、勝と西郷の直接会談により、翌日の江戸総攻撃の中止は決まりましたが、これですべての事が収まったわけではありません。江戸城無血開城という新たな難事がはじまりました。両雄は休む間もなく動き始めます。
まず西郷は、翌日には京都に向けて出立。5日後の20日は、二条城で岩倉、三条、大久保、木戸らと緊急会議を行います。
「徳川公大逆といえども死一等は免じるべき...」と語気強く迫る西郷のとりなしに対して、穏便主義の木戸孝允が賛同します。寡黙な西郷に代わり弁舌を振るい、岩倉、大久保等の強行派も折れ、会議はまとまりました。
西郷は、すぐに長駆、江戸に舞い戻り、準備を整えます。

一方、勝は、21日に英国外交官アーネスト・サトウと面談。西郷との会談の様子を伝え、「武力衝突回避」を第一義とする勝の主張を明かします。親薩摩のサトウの口から、西軍に情報が伝わることを想定しての動きでした。
さらに、横浜に押し寄せていた海軍先鋒隊の総督大原茂実を単独訪問します。
血気盛んな大原を押しとどめ、暴発を抑制するための行動でした。西軍側にも多くの知己を持つ勝海舟ならではの交渉といえるでしょう。
横浜では、翌日に英国公使館にパークスを電撃訪問し、夕方まで粘って会談に成功します。
この席で、勝は誠心誠意、現今の外交問題を説明し、西軍に対する自らの考えを正直に、しかし強い決意をもってを話します。
「慶喜の助命」、「幕臣の生活にメドをつける」 この2点を保障してもらえれば、一切戦うつもりはないこと。
ただし、これに同意をもらえない時には、江戸を火の海にしてでも戦う決意を持っていること。
いずれにしろ、外国の手出しは無用であること。

パークスは、勝の人間性、明晰さに感服し、それまで薩摩寄りだった姿勢を一転、万が一西軍が慶喜の命を狙う場合があれば、ロンドンに亡命させるという密事まで約しました。

最低限の要求事項は明確にし、あらゆる手段を講じて相手にそれを伝えつつ、不測の事態に備えた万全の対策を打つ。勝の名声が後世に残る理由となる大仕事でした。

勝に惚れ込んだパークスは、すぐに西郷宛の手紙を駿府に送り、江戸から戻る途中の彼を呼んで、徳川に対して苛酷な処罰を取らないように要請します。
パークスの意外な態度に、勝の動きを察知した西郷は、その政治力に舌を巻いたそうです。

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社会のための富の創出を  スコット・キャロンさん

1960年代、IBM社員のお父上に伴って来日し、幼児期を日本で過ごしたというスコット・キャロンさん。本格的に日本語を学んだのは20年近く前、慶應大学の国際センターが主催する一年間の日本語集中コースだったそうです。
「その時の恩師が来ていたら困ります」とおっしゃっていましたが、なかなかどうして、微妙な言い回しや「どう言えばいいでしょうかね」と言い淀む感じまで、日本人そのもので、まったくストレスなく講演を聴くことが出来ました。

キャロンさんが、「なぜ、日本株に投資をするのか」という理由は、きわめて明解です。
ただひとつ「日本を愛しているから」
在日通算19年、子供4人を日本で育て、永住権も獲得して、日本に骨を埋めようと思っている。一人の人間として日本のために働きたい。その思いからだそうです。

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やみくもに守らない、やみくもに取り入れない 西尾久美子さん

「祇園祭のお稚児さんが決まった」というニュースが先日ありました。
京都の街、特に八坂神社から鴨川をはさんだ河原町通りまでの一帯は、7月17日の山鉾巡行に向けて、まつり準備が日々整えられていきます。一年のうちで、もっとも京都らしい季節の訪れかもしれません。
そんな京都の雰囲気を夕学の会場に持ち込んでいただいたように、西尾先生は、あでやかな着物姿で登場されました。
聞けば、学会を含めて重要な場での発表は、いつも着物と決めているとか。

柔らかな京ことばにのせて、京都花街の基礎知識をご紹介いただく姿は、西尾先生自身がお茶屋のおかみさんではないかと錯覚してしまうほど決まっています。
おそらくは意図的に披露されていると思われる、時折かいま見せる「いけず」な物言いも含めて、完璧な演出には恐れ入りました。京都を堪能した2時間でした。

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戦いを終えて見える風景 出井伸之さん

「イチローや松井に、今からゴルフに転向しろと言っても、まず変わらないでしょう」
「企業も同じです。一流になればなるほど変わりにくくなるものです」

出井さんは、『迷いと決断』という、ご自身の著書を示しながら、ソニーと格闘した10年の日々を総括することからはじめました。
たとえCOEと言えども、自分で動かせることが如何に少ないかを痛感した10年だったそうです。
そこには、どうすれば良いかは見えていても、その道に組織を引導していくことができなかった忸怩たる思いを、静かに振り返る達観した心境が見てとれたような気がします。

1995年に出井さんがソニーの社長に就任した際に、社員と危機感を共有化する目的で示した有名な図があります。
人々が天真爛漫に泳ぎ回る“自由闊達、愉快なる理想工場”という池からは、ネガティブキャッシューフローという川が流れ出ていて、その川はやがて“倒産という滝”に注いでいるというものです。
ソニーの経営陣にあっては珍しいタイプの分析的な戦略家であった出井さんには、社長就任時のソニーは、いつまでも夢だけを追い求めてはいられない危機的な状況に映ったようです。

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人の数だけ「ひとり」がある 山折哲雄さん

意外なことに、山折先生の講演はオリンピックの話題から始まりました。

「オリンピックというのは、スポーツの祭典であると同時に、世界中の人々の精神世界がぶつかり合う場でもある。そこでは、必然として「日本人とは何か」という想念が浮かび上がってくる」

山折哲雄さんは、いかにも宗教家らしく、オリンピックをエンタテイメントとして楽しむだけでなく、日本人のこころが凝縮して表出される「日本人精神発露の場」としてご覧になっているようです。

トリノ冬期五輪の期間中、過去の日本選手の活躍の軌跡を振り返る映像が放映されたことがあったそうです。そこで流れた前畑秀子さん(ロサンゼルス五輪銀メダル、ベルリン五輪金メダルの水泳選手)のインタビューに、山折先生は注目しました。
出発にあたって送り出してくれた「母の言葉」を胸に刻み、「死ぬ覚悟」を秘めてスタート台に立ち、スタートの号砲に「神様」と叫んでプールに飛び込んだと前畑さんは振り返ったそうです。
山折先生は、このインタビューで語られた「母の言葉、死、神様」の三つのキーワードに着目し、恐らくは、当時の全ての日本人の精神構造の中に共有化された意識と価値観を見いだします。だからこそ、アナウンサーの「前畑ガンバレ!」の絶叫が、いまだに心に響くのだと。

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勝・西郷 運命の会談 『海舟がみた幕末・明治』第九回

1868年(慶応4年)1月6日深夜、戦意を喪失した慶喜は「江戸で再起を計る」と大阪城を脱出します。

追って7日には、新政府により徳川慶喜追討令が出されました。
ちょうどこの頃は、夏目漱石・幸田露伴・秋山真之など、明治を担う人材が次々と生まれた時期であり、そして、大阪を脱出する人々の中には太平洋戦争終戦時の首相、鈴木貫太郎の幼い姿があったそうです。

11日、慶喜が品川へ到着するところを、勝海舟が迎えます。
半藤先生によれば、勝はちょうどこの時、生活の糧を得るために乗馬を売ろうとしていたところで、使いの到着に、あわてて売るのをやめてその馬へ乗って品川に向かったとか。
不遇の時代を過ごしていた勝に、ようやく舞台が調います。

勝は慶喜に対し、強い口調で責め寄りました。
「なぜ大阪城に立てこもって戦わなかったのか」かなりガミガミと言う勝に心を打たれたか、慶喜は「この上は、頼るのはその方ただひとりである」とまで言いました。
勝の腹はこのとき決まったというのが、半藤先生の解釈。
そしてこの時代、「日本国」を見据えて事にあたったのは、勝海舟ただひとりであったということも。
徳川も薩摩も長州もない、ただ「日本国」のためにのみ力を尽くすという決意は、幕末のこの時期、他に見られることのない、勝なればこその先進的な考えだったのです。

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クリエイティブマネジメントの本質 佐藤悦子さん

「なんでもデザインで解決できるはずだ!」

5年程前に、佐藤可士和さんが、とあるトークショーで熱く語っていた言葉です。

「身の回りの何気ない小さなもの全てをデザインし、それが結果として、全体を変えることができる」

ひところ流行った複雑系で言うところの「フラクタル理論」を彷彿させる言葉ですが、佐藤可士和さんは、当時から(もっと前から)、ことある毎に同様の主旨の強い意思を表明していたそうです。
「デザインで世界を変える」「デザインで新しい価値を提供する」「時代のアイコンになりたい」etc。
デザインの力を信じ切る自信に満ちたこれらの宣言は、佐藤可士和さんが、「普通の人ではない」ことを物語る逸話です。

彼のそんなビジョンを、「アートディレクター」という新しい役割を社会に認知させる活動を通して、形にしていくお手伝いをしているのが、奥様であり、マネジャーである佐藤悦子さんです。

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