ひるがえる「錦の御旗」 『海舟が見た幕末・明治』(第八回)
1867年(慶応3年)10月、薩長が武力倒幕への道を強引に進めようとするのに対して、武力対決なしに、新国家を建設しようとする穏健派の動きも活発化します。その先頭に立ったのは土佐でした。
10月3日、土佐藩主山内容堂は、後藤象二郎を使いとして、慶喜に対して「大政奉還」を建議します。
「新政府綱領八策」と称されたその建議の内容は、6月に坂本龍馬が後藤に示した「船中八策」に基づいており、更に遡れば、かつて大久保一翁と勝麟太郎が、龍馬に語った構想にその原型がある、と半藤さんは言います。
・朝廷を中央政府として議会を作る
・幕藩体制を解体し、中央集権的な立憲国家をつくる
・その第一ステップとして、大政奉還を行い、徳川も一藩として、新体制に参画する
それが、「新政府綱領八策」の主張です。
後藤象二郎から事前にその内容を聞いていた薩摩(西郷、大久保)は、この案に断固反対の立場を取ります。すでに武力倒幕へとかじを切っていた薩摩にとって、徳川存続を前提とした穏便策は、許容できるものではなくなっていました。
10月6日、大久保一蔵と品川弥二郎の二人が、隠遁中の岩倉具視を秘かに訪ねます。
そこで幕府討伐にかかわる謀議が行われました。討伐の段取りと新体制、組織案と同時に、後に切り札となる「錦の御旗」の作製指示も伝えられました。