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「なぜ、どうしてを問うことの意味」 中島隆信さん

中島隆信先生は、大相撲、宗教、障害者など、一見、経済学とは縁の遠そうな世界を題材に取り上げ、経済学的な思考法をつかって、そのメカニズムを解き明かすというユニークな本をいくつも著されています。
「人間として生きている全ての人々が、経済学の考え方を身につければ、世の中はもっと暮らしやすくなる」

という強い信念に支えられてのことです。
経済学的にいえば、「経済学の考え方を身につければ、社会全体がもっと得をする」ということでしょうか。
およそ全ての社会現象は、それを引き起こす人間の「動機」が背後に隠されています。
「それは自分にとって損か、得か」という合理的な判断の積み重ねに他なりません。
だとすれば、なぜ損なのか、どこが得なのかを明らかにすることで、社会現象発生のメカニズムがわかる。更には、その社会現象に問題があるとすれば、問題を解決するための糸口も見えてくる。
中島先生が、主張されたいのは、そういうことではないでしょうか。

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誰もが教育の現場にいる 義家弘介さん

義家弘介さんの夕学登壇にタイミングを合わせていただいたわけではないでしょうが、今朝の日経新聞朝刊には、「親学」を巡る論争についての特集が組まれていました。
自己中心的な“モンスターペアレンツ”の事例を紹介しながら、その対策として、教育再生会議では、「親学」を巡る議論が白熱していると書かれています。

義家さんは、「親学」推進派の一人で、「親学研修を義務づける」と発言。
「それは国が口を挟む話しではない」と反論する委員も多く議論は分裂状態。
母乳や子守歌を国主導で推奨しようという構想は、大きな反感を招いた

とあります。
「親学」に先んじて話題になったのは、「徳育」の正式科目化と教科書制定に関する議論でした。いずれも、教育勅語や修身を想起させ、戦前回帰主義が進行していることを匂わせる論調でした。

夕学での義家さんの話によれば、事実はこれとは少し異なるとのことでした。
・「徳育」「親学」は、会議で議論する前にマスコミが報道し、結果として会議の場で冷静な議論をできていない。
・母乳や子守歌の推奨など、特定の人の意見としての発言が、あたかも答申原案かのように報道された。
・義家さんの主張する「親学研修」とは、いまの子どもが置かれた状況を知るために親同士の学び合いの場をつくることである。
義家さんにしてみれば、ある意図を持った人々のリークによる事前報道が、もともと百花繚乱気味だった教育再生会議の更なる錯綜を招き、議論が進まなくなってしまったことへのいらだちが大きいようです。

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「コンピテンシーとしてのホスピタリティ」 高野登さん

この10年、成果主義と並んで、日本企業の人材マネジメントを席捲した概念に「コンピテンシー」があります。
「高業績者が持つ行動特性」と定義されることが多い「コンピテンシー」。
成果直結を謳い、目にみえる行動に着目した点で、合理的・科学的なアプローチとして注目されましたが、一方で、その決定論的な考え方が、状況適応の視点に欠けるとして疑問提起する人も多くいました。
日本における「コンピテンシー」普及の第一人者である川上真史氏(ワトソン・ワイアット)は、コンピテンシーについて、「こういう行動を取れば高業績があげられる」という決定論的な誤解を明確に否定しています。
そのうえで、「コンピテンシー」とは、「あるべき姿として提示された抽象概念(能力)を自分の仕事に置き換えて、行動という形で具現化できること」であると言います。
つまり、抽象から具体的な行動を導き出すトランスファー(翻訳)の力だということです。

きょうの高野さんの話を聞くと、リッツ・カールトンの強みは、この「コンピテンシー」にあることがよく分かりました。
リッツ・カールトンのサービスを我が社においても参考にしたいと考える経営者や実務家にとって、数々の伝説・神話として流布されているリッツ・カールトンのサービス事例は、話のネタにはなってもノウハウにはなりません。
「へえ~、凄いね。でもうちでは無理だね」で終わるのがおちでしょう。
しかし、それらの伝説・神話が生み出される組織能力に着目すれば、「抽象的な理念を具現化する」というリッツ・カールトンの強みは、多くの企業が目指しているものと同じであることに気づくと思います。

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「資本主義の整理屋」 笹沼泰助さん

笹沼泰助さんは、日本におけるプライベートエクイティ投資の草分けと言われています。
80年代、外資系コンサルティングファームに在籍している頃、米国で沸き起こっていたM&Aの嵐。KKRなど投資会社を主役としたその動向を見て、「日本にもいつか、こういう時代が来る」と予感して、事業構想を温め始めたのが、1986年、20年前のことだったそうです。
笹沼さんのことは、慶應ビジネススクールの小林喜一郎先生からお聞きしておりました。
「慶應ビジネススクールの出身で、社会にインパクトを与えた事業家は誰でしょうか」というご質問をした時に、真っ先に名前を挙げられたのが笹沼さんでした。
つい数年前まで、一般の実務家、経営者は、現在のようなM&A時代が来ることをほとんど予想していませんでした。だからこそ、いち早くその社会的意義を認識し、周囲の無理解と戦いながらも、アドバンテッジパートナーズを今日の評価にまで高めた笹沼さんの実績に敬意を表してのことかと思います。
実際の笹沼さんは、穏やかなソフトな語り口で、理論整然とお話になります。ハードなネゴシエーションの世界で生きる厳しさを表面にださない、素敵な紳士でありました。

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未来を予測するということ 手嶋龍一さん

「インテリジェンスとは何か」
ひと言では説明することが難しいこの命題に答えるにあたって、手嶋さんは、まずは「インテリジェンス」と似て非なるものを例えにひいて、聴衆の感覚的な理解を促すことからはじめました。

競馬場には、「コーチ屋」なる職業の専門家がたむろしているのだそうです。
胸ポケットに万札の束を無造作にネジこみ、いかにもプロのギャンブラーといった風情で、素人さんに近づき、「きょうのメインレースは2-3だぜ」と囁いて去っていく。別の素人さんを見つけると、今度は「メインは2-5に間違いないよ」とアドバイスする。こうやって人によって異なる複数の予想を告げておいて、もしその中から当たり券が出ようものなら、当該人を見つけ出し、「俺の言った通りだろ。コーチ料をよこせ」と脅しをかけてお金をせしめるのが「コーチ屋」のお仕事なのだそうです。

コーチ屋は、誰に、なんと告げたのかを全て憶えていないといけないので、その意味では希有な才能を要するプロフェッショナルなのでしょうが、コーチ屋の予想とインテリジェンスとは、「これから起きるであろう未来を予測すること」においては似ていますが、根本的に異なるそうです。
つまり、インテリジェンスとは、コーチ屋のように、現実の結果が出たあとに、過去の事実から都合の良い部分だけを抜き出し、解釈して、したり顔で「俺の言った通りになった」と主張することでは断じてない。
インテリジェンスとは、現在起きている事実を丹念に拾い集めて、独自の分析を加え、これから起こりうる事態の方向性を予測することである。

ということです。
コーチ屋の類は、世の中にたくさんいるけれども、真のインテリジェンス・オフィサーは少ない。それほどに未来を予測するのは難しいことだ。
そんな前振りを面白おかしく紹介しながら、手嶋さんの話は本題に入っていきました。

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“際”がないから面白い 太田光代さん

爆笑問題、特に太田光氏は、“際の見えない”芸風に特徴があります。
どこまでが芸で、どこからが素なのか。何がネタで、どれがアドリブなのか。真面目なのか、いい加減なのか。
その境目が限りなく不透明で、時に見る側をハラハラと心配させながら、しっかりと笑いを取っていくという名人芸的なところがあります。
そのあたりは、彼を高く評価しているという立川談志の芸風と似ていますが、談志のような強烈なクセを感じさせないのが彼の魅力ひとつです。
そんな太田光氏の魅力を引き立たせているのが、奥様であり、事務所社長である太田光代さんの存在と舵取りであることは周知の事であります。
プライベートをあけすけにする時の、見事な「尻の敷かれぶり」や、時に言いたことが何だかわからないにもかかわらず、口角泡を飛ばしてしゃべりまくり、やたらと本気度だけは伝わってくる討論場面などは、彼の人間味や純粋な部分が垣間見えて、“際のなさ”を“際だてる”働きをしているような気がします。

きょうの対談をお聞きすると、それは太田夫妻の共通のスタイルで、ご本人達も「際」がよくわからない。というより、ことさら「際」をつけることの無意味さをよくわきまえていて、「際」を行ったり来たりするから面白ことを知っているのかもしれません。

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イマジネーションで読む古典 林望さん

リンボウ先生は、20代の数年間、慶應義塾女子高校で、国語教師として教壇に立っていた時代がありました。
多くの場合、国語教師は現代国語と古文・漢文の両方を教えることになります。若き日のリンボウ先生にも、現代国語の授業も受け持つようにという要望が再三だされたそうです。
ところがリンボウ先生は、頑として、その要求を拒否し続けたそうです。
「学校教育で、現代文学を読ませる必要はない。古典だけをじっくりと学べばよい」という強い信念があっての拒絶だったそうです。

「不易流行」という芭蕉の言葉にあるように、長い年月を越えて生き残った古典文学には、時代を超越した不変的な価値が宿っている。いつの時代に読んでも面白いから、その時々の至高のインテリがその価値を認め語り伝えてきた。どうせ読むなら、時空のかなたに消えていく流行文学ではなく、時代を超えて生き残った古典をこそ読んで欲しい。
リンボウ先生はそう考えているそうです。

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