2014年5月アーカイブ

最近、大学生のムスメと、アカデミックな話題についてよく話します。
特に私の仕事にも関わりの深い、発達心理学やナラティブ理論、あるいは哲学など、お茶を飲みながら(これを我が家では「晩酌」と呼びます)様々な論点で盛り上がります。

ただ、アカデミックな話題といっても小難しい、いや「小難しく」会話しているわけではありません。

たとえばナラティブ理論についても、授業で習った物語のパターンについて、親子で好きなアニメが「どのパターンに当てはまるか」という形で面白おかしく話し合っています。

先日もベンサムの功利主義について、やはりアニメや特撮をネタに話していたのですが、その流れて『パノプティコン』に話が及びました。

さて、皆さんはこの『パノプティコン』をご存じでしょうか?

先日、Facebookでのやり取りの中で、ある方が「私は(中略)しています。邪道かもしれないけど」と言われました。
私はそれに対して「邪道なんかじゃなくて、そっちの方が賢いやり方かと」と返しました。

そしてふと考えたのです。



そもそも、『邪道』ってなんだろう?

「邪(よこしま)」な気持ちがなくても『邪道』って言われるのはなぜなんだろう?

邪道と言われようが、実はそのやり方で問題ない、いや、そっちの方が良いこともあるはず。

結局、「邪道かどうか」は、主観に依存するのでは?

ここ最近、メディアの報道においても『物語』の問題点が、なかば事故批判的に語られるようになりました。

そのきっかけであり代表例が、あのゴーストライター問題です。

実際はマーラーなどのメロディとオーケストレーションを拝借、コラージュした、悪く言えばパクリとも言える作品を、「現代のベートーヴェン」というタイトルの物語を使って、素晴らしい作品だと錯覚させた、あの一件です。

確かに私たちは『物語』を求めています。
それも「わかりやすく、共感できる」物語を。
「わかりやすい」とは、「単純」あるいは「ベタ」と言い換えても良いでしょう。

クラシックの曲を、曲そのもので評価せず、作者の「悲運に負けぬ心と力」というベタな物語によって評価させられていた。
そしてそれは本件だけでなく、様々なコンテンツの評価において、同じ状況があることが今さらながらに見えてきた。

だから問題視されているわけです。

最近では、コミュニケーション能力のことを『コミュ力』と略すことがあります。
特に若い人の間で、「やっぱ就活はコミュ力が大事だよなあ」のような使われ方をします。

しかしこの言葉、本当にコミュニケーション能力と同義なのでしょうか?

どうも使われ方を見て(聞いて)いると、その文脈から『コミュ力』とは単純にコミュニケーション能力の略語ではないように思うのです。

では、この『コミュ力』とは何なのか。
そしてそれを高め、発揮するためには何に気をつければよいのか。

本日はそれを考えてみようと思います。

プロフィール

桑畑 幸博

慶應丸の内シティキャンパスシニアコンサルタント。
大手ITベンダーにてシステムインテグレーションやグループウェアコンサルティング等に携わる。社内プロジェクトでコラボレーション支援の研究を行い、論旨・論点・論脈を図解しながら会議を行う手法「コラジェクタ®」を開発。現在は慶應丸の内シティキャンパスで専任講師を務める。また、ビジネス誌の図解特集におけるコメンテイターや外部セミナーでの講師、シンポジウムにおけるファシリテーター等の活動も積極的に行っている。コンピューター利用教育協議会(CIEC)、日本ファシリテーション協会(FAJ)会員。

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