組織の『症状』を精神分析的アプローチで考える

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3分間ラーニング

今更ながら構造主義について勉強しています。

実は前回のエントリーも、そのプロセスの中で考えたものです。

恩師である高橋潤二郎先生や妹尾堅一郎先生が、「哲学をちゃんとやってないヤツはダメだ」とおっしゃっていた意味が最近になってようやくわかりました。(両先生、鈍い教え子で申し訳ありません)

哲学は全ての学問の祖であり、世の中のすべてのモノゴトを言葉によって説明しようとする試みは、人間にだけ許された知的遊戯とも言えます。

特に「考える」ということに関しては私の専門領域でもありますから、遅ればせながら様々な書籍を通して「思考力(およびその応用としての問題解決や戦略立案など)に役立つ知見」を、本当に楽しく吸収しています。(まさに知的遊戯)

その勉強の中でも膝を打つ機会が多かったのがニーチェの哲学、そして構造主義でした。
いずれニーチェや構造主義全体についてもここで語ってみたいと思いますが、本日はその構造主義で外せない人物、ジャック・ラカンについて学ぶ課程でふと考えたことについてお話ししてみようと思います。




ジャック・ラカンはフランスの精神科医であり哲学者です。
彼は「フロイトに還れ」を合い言葉に自我心理学を批判し、『鏡像段階論』などで独自の心理学理論を展開しましたが、特に私が惹かれたのは『症状』に関する考え方です。

ラカンは「医療と精神分析は、患者を治すという点に関しては類似する活動だが、『症状』のとらえ方は決定的に異なる」と言いました。
もちろんこのふたつの行為は治す対象が「カラダなのかココロなのか」という点が異なりますが、ラカンはそれだけでなく『症状』に着目したわけです。

ラカンの主張を私なりにまとめると以下のようになります。

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医療の現場で患者が訴える『症状』(たとえば痛みや熱など)は、ある病の表出である。

しかし精神分析の現場で患者が訴える『症状』(たとえば自傷や過食など)は、患者個人が抱える問題の解決策なのだ。

アル中患者の飲酒、そして自傷行為や過食など患者が「やめたい」と精神科医に訴える『症状』は、「それをやることで何かが救われる」からやるのであって、単にやめさせるだけでは何の解決にもならない。-----------------------------------------------

『症状』を『問題解決策』ととらえる。

これは私にとっては目から鱗でした。

まあ、医療においても下痢のような症状は「有毒物質の排出」という場合もあり、これも問題解決策なわけですが、とにかく私にとっては「とらえ方を変えられた」ことが発見だったのです。



さて、私は別に「ね、ラカンってすごいでしょ?」とか「これって面白いよね?」と言いたいわけではありません。

この『症状=問題解決策』という精神分析のアプローチは、「私たちの仕事に応用できるのでは?」と言いたいのです。

精神分析を受ける個々の患者の『症状』は「それをやらざるを得ない」(しばしば患者自身も気づいていない)原因がある。
その原因は過去の体験に隠れている。

上記の文章の『患者』を『組織』に置き換えてみてください。
それでも文章として成立しませんか?

組織的な違法・脱法行為、たとえば賞味期限の偽装や粉飾決算などを組織の『症状』と位置づける。

また蔓延するサボタージュやコミュニケーションの不全なども『症状』と考えてみる。(そういえば「不全」という言葉自体が医療用語としてもよく使われますね)

こうした様々な症状に対して、「偽装はやるな」とか「もっと報連想を心がけろ」と言い、場合によってはペナルティを課すことで、これらの問題は解決するのでしょうか?

一時的には症状は治まっても、いずれまた再発する危険性は高いはずです。
そう、単にアル中患者をお酒から一定期間遠ざけただけでは、また飲み始めてしまうように。

だからあえたこうした症状を『問題解決策』ととらえてみる。そしてたとえば...

◆賞味期限を偽装することの好影響を因果関係で丹念に考えてみる。
◆粉飾決算をすることでどんな問題が解決されるのかを調べてみる。
◆仕事をサボる(手を抜く)ことで、逆に得られるものは何かを分析する。
◆上司に報告しないことのメリットを徹底的に洗い出してみる。

これをやってみることで、組織自身も気づいていなかった問題の原因、つまり「問題解決策としての症状を引き起こさざるを得なかった」具体的事実が見えてくるように思うのです。

さて、精神分析においては、こうした「問題解決策としての症状が発症するきっかけ」は、患者と精神科医の間の対話によって見つけようとします。
ラカンの言うように、「言語活動を通してしかそれは見つけられない」からです。

組織の精神分析的アプローチにおいても、必要となるのは同じです。

だれかひとりが分析するだけでは、組織の問題解決策としての症状が発症したきっかけはわかるはずもありません。

分析家と組織構成員との数多くの対話を通してこれは行うべきものでしょう。

そこで必要となるのはファシリテーションスキル、いやカウンセリングスキルかもしれません。

また、ワールドカフェなどの手法も有効でしょう。

いずれリアルなコンサルティングの案件で、私もトライしてみたいと考えています。

コメント(3)

『症状』を『問題解決策』ととらえるに賛成です。

文章の『患者』を『学級・学校の生徒』に置き換えてみてください。
それでも文章として成立しませんか?

学習に対する意欲がない。立ち歩きや不規則発言・校則を守らない行為、いじめなどを学校や学級の『症状』と位置づける。

問題行動や学力不振で悩む学校の個々の生徒の『症状』は「それをやらざるを得ない」(しばしば生徒自身も気づいていない)原因がある。
その原因は生徒の過去の体験に隠れている。
「それをやることで何かが救われる」からやるのであって、単にやめさせるよう指導するだけでは何の解決にもならない。

学校や学級の問題への精神分析的アプローチにおいても、必要となる活動は精神分析と同じ対話です。ラカンの言うように、「言語活動を通してしかそれは見つけられない」からです。

教師一人がだれか生徒ひとりを分析するだけでは、学校や学級のの問題解決策としての問題行動が発現したきっかけはわかるはずもありません。
教師間や教師と生徒間,生徒間での数多くの対話を通してこれは行うべきものでしょう。

そこで必要となるのはファシリテーションスキル、いやカウンセリングスキルかもしれません。また、ワールドカフェなどの手法も有効でしょう。

しかし,現実に横たわるのは従来通りの話合いや会議だとすれば,課題解決するための手段を学校現場は教育という領域に持ち込めないでいるのかも?もしくは教育的課題と組織的課題の違いが何なのか明確ではないのかも知れません。
教育的課題は教育で解決することにこだわりすぎているのかも。

ファシリテーションを使うのならば,その話合いに集まった人たちで共有できる課題だということです。つまり,ここでいう「症状」を抱えた子どもの課題は話合いに集まる「学級の子ども」にとっての解決すべき課題となり得るか?ということです。

教育的には,勉強ができないことやルールを守らないことは「個人の心(がけ)の問題」としてとらえてしまうと,解決すべき課題にはならないと思います。
でも,組織的関係から生じる「症状」なら解決すべき課題となり得ます。
この点で『症状』を『問題解決策』ととらえるに賛成です。

知識の教授の問題なら教育で,組織的関係から生じる「症状」なら話合いを通してこれは行うファシリテーション,カウンセリング,ワールドカフェなどの手法も有効でしょう。

教授の部分をできる限り押さえ,教授の問題となり得る学力の定着まで「症状」としてとらえて取り組まれているのが,「学び合い」だと感じています。


プロフィール

桑畑 幸博

慶應丸の内シティキャンパスシニアコンサルタント。
大手ITベンダーにてシステムインテグレーションやグループウェアコンサルティング等に携わる。社内プロジェクトでコラボレーション支援の研究を行い、論旨・論点・論脈を図解しながら会議を行う手法「コラジェクタ®」を開発。現在は慶應丸の内シティキャンパスで専任講師を務める。また、ビジネス誌の図解特集におけるコメンテイターや外部セミナーでの講師、シンポジウムにおけるファシリテーター等の活動も積極的に行っている。コンピューター利用教育協議会(CIEC)、日本ファシリテーション協会(FAJ)会員。

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